「わたしの優くん!」

志乃原七海

第1話【偽りの揺りかご】



『偽りの揺りかご』


焼きたてのパンの香りが、提げた紙袋から微かに漏れ出している。アスファルトを叩くヒールの音だけが、やけに大きく響く帰り道。三十五歳、独身。誰にも邪魔されず、自分のためだけに使うこの時間が、一日の中でいちばん好きだ。

――そう、必死に思い込もうとしていた。


公園の脇を通り過ぎようとした、その時だった。

視界の隅に、ぽつんと小さな染みがある。滑り台の下の砂場。夕暮れの茜色と群E群青色が混じり合う薄闇の中、それはまるで風景画に落ちた、取り返しのつかないインクの滴のようだった。


子どもだ。

二歳、いや、三歳くらいだろうか。すべてを諦めたように丸まった、小さな背中。


迷子か。十中八九、そうだろう。

瞬時に頭をよぎったのは、同情心より先に、厄介事の予感。関わればロクな事はない。賢い大人は見て見ぬふりをする。自分の身は、自分で守らなければ。

そうに決まっているのに、なぜだろう。数歩進んだところで、足がアスファルトに縫い付けられたように動かなくなる。


公園の時計は、もうすぐ午後六時を指そうとしていた。街灯がぽつり、ぽつりと灯り始め、子どもの影を墓標のように長く引き伸ばしていく。気づけば電柱の陰に身を潜め、ストーカーさながらにその子を見守る自分がいた。親が探しに来る気配はない。


紙袋を握る手に、無意識に力がこもる。奮発して買ったパンが、くしゃりと音を立てて歪んだ。守りたかったはずの、ささやかな幸福が崩れていく音。

観念の溜息。わたしはゆっくりと子どもへと歩み寄った。


しゃがみこんで、ようやく合った目線。小さなダムが決壊したように、ありったけの水分で濡れた顔。

「ねぇ、ぼく? ママやパパは?」

男の子はしゃくりあげながら、ただ、ふるふると首を横に振る。そして、責めるでもなく、求めるでもなく、ただ『ここにいる』ことの許しを請うような、湖の底のように静かな瞳で、じっとわたしを見つめ返してきた。


「……おうち、わからない?」

重ねて問うと、男の子はおずおずと伸ばした小さな手で、わたしのコートの裾を、きゅっと掴んだ。その頼りない温もりが、冷えた指先からじんわりと伝わってきた。


警察に届けるべきだ。でも、そうしたら?

――あの時のように、根掘り葉掘り聞かれて、土足で心に踏み込まれる。わたしの平穏が、まためちゃくちゃにされる。それだけは、もうごめんだ。


「さむい……」

か細い声が、耳に届く。その一言が、わたしの最後の理性を焼き切った。

「……うち、来る?」

自分でも信じられない言葉が、口から滑り落ちていた。


男の子のこくり、という小さな頷き。それが合図だった。

その軽い体を腕の中に迎え入れる。思ったよりもずっと軽く、そして驚くほど温かい命の感触。遠くでサイレンの音が聞こえ、一瞬、体がこわばった。


自分のマンションの部屋に入るなり、わたしは窓のカーテンをぴっちりと閉めた。外の世界との境界線。

少し潰れてしまったパンと温かいミルクを差し出すと、男の子は夢中で口に運び始めた。静かな部屋に、もぐもぐとパンを咀嚼する音だけが響く。がらんどうだった空間に、確かな命の音が満ちていく。


この温もりは、借り物だ。その事実が、喉に刺さった棘のように痛む。

一人では、もう抱えきれなかった。震える指で、数少ない友人の一人、『美咲』に電話をかける。


『もしもし? 沙織からなんて珍しいじゃん、どうしたの?』

快活な声に、罪悪感が込み上げる。

「……美咲、あのね。子どもを、拾ったの」

『は? 猫じゃなくて?』

「公園に、一人で…。それで、今、うちにいる」


電話の向こうで、美咲が息を呑む音がした。

『…沙織、それ、警察には?』

「……まだ」

『まだって…何考えてるの!? すぐに届けなさいよ! それ、誘拐になるんだよ!』


正論。あまりにも正しい、一点の曇りもない正論だった。

「でも、この子、すごく怯えてて…。それに…」

『それに、何?』

「……警察は、嫌なの」か細い声で、そう呟いていた。「昔みたいに、全部めちゃくちゃにされるのは、もうごめんだから。わたしが必死で守ってきたこの平穏を、壊されたくない」


電話の向こうで、美咲が長い溜息をついた。声のトーンが、怒りから深い憂慮に変わる。

『…あなたの気持ちは、分かるつもりよ。辛かったのも知ってる。でも、これは違う。絶対に違う。考えてみて。その子の親は、今頃どういう気持ちでいるか。気が狂いそうになりながら、必死で探してるんだよ。あなたが今していることは、その家族からたった一つの光を奪ってるのと同じことなの!』


ぐうの音も出ない。美咲の言葉はナイフのように鋭く、わたしの欺瞞を切り裂いていく。

涙が滲んだ。でも、それは罪悪感からだけではなかった。


「……わかってる」わたしはしゃくりあげるのを堪えながら、答えた。「わかってるよ…。でも、できない。この温もりを、この子の手を…今は、どうしても手放せないの」


『沙織ッ!』

美咲の悲痛な叫びを遮るように、わたしは一方的に通話を終了した。

スマートフォンが手から滑り落ち、床に乾いた音を立てる。後戻りは、もうできない。


しんと静まり返った部屋で、男の子が不安そうにわたしの顔を見上げていた。

わたしは彼を強く、強く抱きしめた。

「大丈夫。大丈夫だから」

それは男の子に言い聞かせているようで、本当は、罪の淵に立った自分自身に言い聞かせるための言葉だった。


「わたしが、守ってあげるから」


漏れたのは、祈りにも似た誓い。

この偽りの揺りかごの中でなら、わたしたちは親子でいられる。

たとえ、それが明日には崩れ去る砂の城だとしても。今は、ただこの温もりだけが、わたしの世界のすべてだった。

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