9.忘れない、あの日

 お兄さまは、覚えていらっしゃるかしら?

 わたくしたちが、はじめて顔を合わせた日のこと。


 あの日の午後……曇った空の下で、黒い車が門の前に止まって、ドアが開いて、あなたが出てきた瞬間。わたくしはまるで、空気の色が変わったような気がしたの。


 背筋が伸びていて、でも少しだけ緊張していて。

 わたくしを見たときの目……

 あの目が、とても優しくて、無邪気で、眩しくて、なぜかちょっと、くすぐったかったのです。

 その目が、声が、表情が、仕草が、あまりに……優しくて、深くて。心の奥が震えましたの。たった一瞬の、でもそれが、全部だった。


 だってその瞬間から、わたくしは……『あなたに見られるわたくし』として、生きるようになったのですから。


 笑うときも。

 髪を整えるときも。

 服を着るときも。


 名前を呼ばれたくて、微笑みかけてほしくて、愛されたくて、真姫はずっと、あなたの目の中に映り続けるように、努力してきたのです。


 でも、お兄さまは……気づいていなかったでしょう?

 わたくしが、お兄さまの好きな紅茶を覚えていたことも。

 お仕事で遅く帰ってくる日は、眠らずに待っていたことも。

 ずっとずっと、あなたのことだけを想っていたことも……


 全部、知らなくていいと思っていましたの。

 ただ、妹としてでも、傍にいられるのなら、それでいいって。


 ……でも、それはもう、終わりました。


 お兄さまが婚約が決められてしまった日に。

 真姫の中で、何かが音を立てて壊れました。


 ああ、わたくしって……『ものわかりの良い妹』であろうとしてたんだって、気づいてしまったの……そしてそれが、こんなにも儚いことだったんだって……


 叶わない夢だと、わかっていたのです……

 あの人の存在が。

 あなたの沈黙が。

 世間の声と、常識という概念が。

 全てがわたくしの想いを拒んでいたから。

 それまでの努力は全部、愛してはいけない、愛を求めてはいけないという、枷でしかなかった。


 それが外れたとき。

 真姫の気持ちは、もう止まらなくなりました。


 嫉妬して、焦がれて、欲張りになって、触れてほしくて、触れたくなって、どれだけ我慢して、こんなにも我慢できなくなって、止まらなくなって……気づいたら、お兄さまの呼吸の数まで数えていました。


 だから……ねえ、お兄さま。

 いま、こうしてあなたの背中にそっと寄り添っているこの瞬間。

 わたくしは、ずっと夢見ていたの。


 あなたの隣で、あなたの名前を呼ぶ日を。

 妹ではなく、たったひとりの『滝宮真姫』として……


 あの日、あなたが名前を呼んでくれたあの声が、まだ耳の奥に残っているから。

 だから、お兄さま……お願いします。


 次に名前を呼ぶときは……

 妹ではなく、運命の人として、呼んでくださいまし。


 たとえそれがどれだけ罪深いことでも……

 どれだけ重い罰を受けてでも……


 真姫は、かまいませんから。

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