第27話 鈎爪の下の白い手



「酒の席とはいえ、なんと、あまりにも無作法な……」


 妓女に助け起こされながら声のする方を見る。

 商売人の心得を説教する時には三角だった劉貴明の目にますます角が立ち、狐のごとく吊り上がっていた。


「……、淘家に連なるものだとしても許しがたい」


 確かに場に飲まれ酒に飲まれた情けない行いではあった。だからといって青蘭楼からつまみ出されるのも癪だし、賢明のように這いつくばって平伏するのも、彼の気性からは出来そうにもない。


「まあまあ、劉さん。今夜だけでも、若い人の失態は大目に見ましょうぞ」

 取り成したのは、汀老人だった。


「しかしながら……」

「酒の席での出来事じゃ」

「お大尽がそうまで仰るのでしたら」


 老人の言葉に、劉貴明はもう一度江馬を一睨みして引き下がった。


 やはり、ここは見せかけであっても、謝っておくべきだろう。

 隣りに座る妓女の助けを借りてなんとか身を起こし、乱れた着物の衿元と裾を直す。出たとこ勝負の口の巧さには自信がある。生まれてよりそれで世間を渡ってきたのも同然だ。だが、「汀ご老人……」と口を開きかけて、彼の目は老人の手に止まった。


 先ほど貴明の挨拶に応えるために手にしていた盃はすでに膳の上に戻っていた。そして再び、若い妓女の手を取り弄んでいた。


 骨に皮膚が貼りついたような老人の手は茶色い染みだらけだ。妓女の手を撫でまわす執拗とも思えるその動きは、祖父が孫の手を慈しんでいるとはとても見えない。まだ子どもとも言えそうな妓女の顔に視線を移す。老人の手を嫌がっているのか、または諦めているのか。手を取られ不自然な形に体を曲げている妓女の、白粉に埋もれた顔からは表情は読み取れなかった。


 江馬の視線に気づいた汀老人が、妓女の手を離して自分の目の前で手を広げた。

 指の節々の関節が腫れ、十本の指先は不自然に折れ曲がっている。


「ほれ、見てのとおりじゃ。曲がって不自由なだけではない。耐えがたい痛みもある。これが老いると言うことじゃ。お若い人には、老人が語る老いなどは、まだ見たこともない異国の景色の話のようにしか思えんことじゃろう。まあ、それを責めることは出来ない。そう言うこのわしも、老いなどとは無縁の若い時があった。しかし、ある日、蔵に使いきれぬほどに溜め込んだ金子を眺めて思ったのじゃ。これを使って不老不死の妙薬を購おうとな。不老不死を手に入れたという噂があれば、中華大陸の端まで使いものを行かせ、不老不死について書かれている文献は読み漁った」


 貴明がごくりと生唾を呑み込んだ。

「それで……、お大尽。不老不死の妙薬は手に入れられたと?」


「フォ、フォ、フォ……」

 抜けた歯の間から息を漏らして老人は愉快そうに笑う。

「劉さん、手に入れておれば、こんな姿にはなっておらんよ。だがな、それらしきものは試してはきた。わしの本当の齢を知ったら、ここにいるもの皆、さぞ、驚くことじゃろう」


「お大尽、是非に、それらしきものとやらのお話をお聞かせください」


「それは劉さんの頼みであっても、無理というもの。ただ、一つだけ教えてやろう。探し求めてきた本当のそれは、どうやら今はこの河南という街にある」


「なんと! それらしきものではなく、本当の不老不死の妙薬を、この河南でみつけられたと!」


 貴明の叫び声が上がったのと、汀老人の横に座り、もたれるように身を寄せていた若い妓女が弾かれるように身を起こしたのは、同時だった。白粉で塗りかためた表情のない顔の下に、かすかに恐怖の色が浮かんでいる。


 彼女は老人の膝の上で弄ばれていた手を引き抜こうとした。だが、それはしっかりと掴まれたままだ。折れ曲がった指を見せ常に痛むのだと言った、枯れ枝のような老人の手のどこにまだそのような力が残っているというのか。それは猛禽類の鈎爪のように、妓女の白く肉の薄い手の甲に食い込んでいる。


 しかし、若い妓女が老人に逆らったのは一瞬のことだった。

 江馬以外には誰も気づいていないようだった。


 劉家の兄と弟はその気性は違えども、頭の中は同じように、汀老人が見つけたという本当の不老不死の妙薬に囚われていた。


 また若い妓女以外の女たちの頭の中は、いま聞かされた老人の蔵いっぱいに溜め込んでいるという金子についていっぱいだった。

 彼女たちは苦界に身を沈めた女が持つ計算高さで、不老不死などに夢を重ねたりなどしない。目の前の老人にどのように取り入れば、金子のおこぼれにあずかることが出来るのか。あわよく身受けされれば、老人亡きあとは自分のものになるかも知れない。


 白く細く小さな手は、すぐに鈎爪の下であがらうことを止めた。


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