※ 第二章 ※
五人の男たち
第19話 殺人鬼の独白 ≪1≫
明け方の浅い眠りから目が覚めた。夢を見ていた。だが、目が覚めると、それが良い夢であったのか悪い夢であったのか、その記憶はない。普通の者たちであれば、夢の欠片にしがみついて、もう一度眠りをむさぼるのだろう。だが彼には、夢の続きよりも心逸る愉しみごとがあった。寝台から立ち上がると、物音を立てないようにと注意深く寝室から出る。
季節は秋の終わり。
南の砂漠に近い河南の街では、動けば日中はまだ汗ばむ。だが夜ともなれば、寝衣の衿元を掻きあわせたくらいではしのげないほどに冷え込む。すでに吐く息は白く、奥歯が鳴った。
――焦るな……――
内なる声がした。
その声に従ってきたからこそ、男は今まで無事にことを為してこられたのだ。逸る足を止める。
屋根付き回廊の柱に手をかけて、空を見上げる。
まだ暗い空には、多くの星がせわしなく瞬いていた。美しく輝く星々にそれぞれの色があることにしばらく見とれ、それから期待を込めて西の空を見る。
切り口が丸く膨らみ始めている半月が、浮かんでいる。縁がわずかに赤みを帯びているのは、夜明けが近いからだろう。頭をめぐらし、東の空をみれば、重なり合う瓦屋根と夜空の境が薄く白み始めている。
「夜明け前が一番暗い」と、書物で読んだことがある。紀行文だったか、それとも詩篇だっかのか。
――果たして、そうだろうか? 夜明けとは、真の暗闇に、突然、昇り始めた陽が射すというものではないだろう。なんにでも、予兆というものがある。気づかぬ……、気づこうとしない者が愚かなのだ。そして、世の中には、愚かな者が……――
そこで彼は込み上げてきた思い出し笑いに身を委ねた。くつくつと漏れる息に合わせて、体が足が震える。
――……、いや、愚かな女が多すぎる――
もう一度、振り返って西の空に浮かぶ月を見る。先ほどより、縁の赤みが増したような気がした。今度は、思いが声に出た。
「あの女の目のようだ。名は……、確か、雪梅といったはず」
閉じ切れぬ瞼が瞳に半ばかかり、女の死に顔は目の縁が赤く鬱血していた。
まだ明けぬ暗い庭を横切り、彼の足は蔵の扉の前で止まった。懐から取り出した鍵で重たく頑丈な錠前を開けて、入り口に置かれてあった手燭に灯りを点し、足を踏み入れる。箱や陶器の壺などが並べられた横を通り過ぎ、迷うことなく奥へと進む。奥は壁にそって棚が設えられている。
かたわらの卓の上に手燭を置き、その薄明りで、彼は棚の上に並べられた様々な形の細長い木の箱を眺めた。木の箱は全部で、十数個。右手人差し指で木箱の蓋をひとつひとつ撫でていく。そうしながら、先ほど月を眺めながら思い出した女の名前を呟いた。
「雪梅……、雪梅……」
驚きと恐怖で大きく目を見開いたまま、死んだ女だ。
こと切れたあとに目を閉じてやろうとしたが、どのようにしても、瞼は目の半分を覆ったまま、それよりは下りなかった。
――名前が示すように色の白い女だった。瞳の色も薄かった。それで、黄色く輝く月を見てあの女を思い出したのか――
彼の指は、行きつ戻りつしながら木箱を撫でる。そして、一つの木箱の上で止まった。
「おや、雪梅、そこにいたんだね。心配することはないよ、約束したではないか。おまえを忘れることはないと」
木箱を取り出して、手燭の横に並べる。
そっと木箱の蓋を持ち上げると、木箱の内側には深紅のビロードが貼られ、その中には歩揺が一本収められていた。若い女が好む簪だ。銀の玉と赤い珊瑚の玉が交互に紐に通された何本もの細い鎖が、歩くたびに揺れて触れて、ちりちりと可愛らしい音を立てる。
子沢山の貧しい親に育てられた雪梅は、その可愛らしい顔のために、十四の時に山仙楼に売られた。河南の街で、青蘭楼と肩を並べるとまではいかなくとも、それなりに客を選ぶ妓楼だ。
半年の間、貧弱に痩せた体が丸みをおびるようにとよい食事を与えられ、贅沢が体になじむようにと鮮やかな絹の着物を着せられた。
そして十五になったと同時に客をとるようになった。
顔の可愛らしさと肌の美しさと素直な気質で、金のある男たちに持て囃されて、一年が過ぎようとした頃、男は雪梅の客となった。
上客に恵まれながら、彼女の顔にはかすかな憂いが眉根に表れていた。身を売る商売の自分の行きつく先が、彼女にはなんとなく見えていたのだ。母が病勝ちという実家の嘆きも気になる。その風情がまたよいと、男たちの間でますます人気となった。
世の中には妓楼で身を売っていても、行きつく先のことなど、小指の先ほども考えない女も多い。なったらなったなりの瓢箪だ。そんな女は彼の好みから弾かれた。また、男に弄ばれているようにみせかけて、金の生る木として男を利用する逞しい女もいる。そういう女は、どのように美しくても彼のほうから願い下げだ。
妓楼での日々に不安を感じ始め、優しい言葉をかけてくれる男に身も心も捧げようとする女が、彼の餌食だ。
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