第17話 江馬の初恋
芳々に恋をした江馬のために賢明が用意してくれた簪は、
もともと女の簪になど興味のない江馬だ。賢明から手渡された簪を見つめながら、母が挿している簪を思い出そうとしたがそれすら思い出せない。思い出せるといえば、義姉の簪くらいだ。それは乳色の宝玉で出来ていて、連なった小さな金色の玉が揺れていた。
「なんだこれは? そこらあたり生えている木の枝をちょっちょと削ったような、えらくしょぼくれた簪じゃないか。簪っていうものは、金ぴかでさあ、女が動くたびに頭の上でひらひらするもんじゃないのか? それともさ、透けるようなきれいな宝玉で出来ているとか。賢明、おまえとこの実家は河南の街でも指折りの宝玉屋じゃないか。けちるなよ」
悲鳴に近い声をあげて、賢明が江馬に抗議した。
「江ちゃん、なんてことを言うんだよ。下働きの芳々ちゃんがそんな目立つ簪を挿せる訳がないだろう。いつもつけてもらえるものを選ばなくちゃ」
「へえ、そういうもんか」
「そういうもんだよ。でもさ、これは地味なように見えて、本当は値打ちのある簪なんだよ。この黄楊で彫った花の芯に埋め込まれている小さな薄桃色の玉は、ある高貴なお方の帯飾りだったものだ。残念なことに欠けてしまって、その修理を実家で請け負った時に出たちいさな破片をもらって、ていねいに磨いてものだ。だから少し形がいびつだけれど、色はきれいだろう。と言っても、この石を磨いた兄ちゃんの受け売りなんだけど」
「おれにはさあ、おまえの兄ちゃんがそこらへんで拾った石ころを磨き過ぎて、芥子粒になったようにしか思えんがな」
「ひどいことを言うなあ。兄ちゃんが言っていたよ。この簪は、きっと若い二人の恋にはお似合いだろうって」
「おまえ、兄ちゃんにおれのことを喋ったのか?」
「ごめん、ごめん。だって、いまのおれは簪について学んでいるところだから。誰がどういう目的で、その簪を選ぶかって言うのはすごく大切なことなんだ。それよりかさあ、江ちゃん、男が女に簪を贈るってどういうことか知っている?」
「えっ、なんだ? そんなことにまで、いちいち意味でもあるのか?」
「あたりまえだよ。そういうことも知ってこその簪を売る商人だよ。男から簪をもらう女の子にとって、そういう行為はすごく大切なことなんだ。男が女に簪を贈るって、『おれはおまえをずっと守る』という約束なんだ」
「簪を贈らなくたって、おれは芳々を一生涯ずっと守るさ。それよりかさ、今日のおまえ、いつもになく雄弁だな。李下学堂では名前負けした落ちこぼれの賢明なのにさ」
「そうなんだよ、いまさ、店を構える場所をさがしているんだよ。おれも小さい店ながら、店主と呼ばれるようになる。絶対に繁盛させてみせるよ」
「だったらさ、その店の扁額、おれが書いてやろうじゃないか。おれはな、こう見えても、李下学堂では兄上の再来とまで言われている秀才なんだぞ。そのうちにおれは兄上のように科挙に受かり大出世するんだ。おれの書を飾れば、小店でもさ、箔がつくというもんだ。店の名前、確か、華仙堂……、っていったな」
「えっ、あのときにおれが言った店の名前、覚えてくれていたんだ。嬉しいよ。扁額、絶対に書いてくれよ。店に飾って、おれと店の一生の宝物にするよ」
「まあ、おぼえていたら、いずれ書いてやるよ。当てにせずに待ってろって」
突然、賢明の鼻がぐずぐずと音を立てる。
「もしかして、おまえ、泣いているのか?」
「あっ……、当たり前だよ。こんなに嬉しいことなんて、おれの一生でそんなにあるもんじゃない」
※ ※ ※
数日後の夜も更けた時刻、人目を避けて江馬と芳々は厨房の横に立つ炭小屋の陰で逢った。
「あたし、早く戻らなければ。こんなところを誰かに見られたら、困るんです。あたし、このお屋敷での仕事を失いたくないんです」
後ろばかりを気にする芳々の手を乱暴に握って自分に向かせ、その小さなかさついた手の中に彼は簪を押し込んだ。
「これ、やるよ」
「えっ? これ、なんですか? もしかして、あたしにくださるの?」
そう呟いた芳々が、つっと手の簪をかかげ月明かりで表にして裏にして眺める。江馬にはそのしぐさが終わりのない拷問のように思えた。地獄の責め苦もこれほど彼に痛みを与え長くは続かないに違いない。
沈黙に耐えかねて言う。
「気に入らなければ、捨ててもいい」
「嬉しい……」
簪を江馬の手に戻した芳々がくるりと背中を向ける。
「江馬さまの手で、この簪、あたしの髪に挿してくれますか」
芳々の細いうなじが見下ろしたすぐそばにあった。
「挿せって、どこへ?」
「江馬さまがよいと思われるところへ……」
母以外で初めて触れる女の髪だった。
芳々の頭はちょうど江馬の鼻の下にあった。女の髪の匂いを吸い込むと頭がくらくらした。
江馬の十五歳の遅咲きの初恋だった。
芳々を好きだという気持ちがあれば、そしてこの強い想いさえ胸に抱いておれば、幸せはいつまでも続くと疑わなかった。いまになれば、どうして気づかなかったのだろうかと思う。淘家の男と下働きの小娘との恋が成就するわけなどないことに。
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