第12話 趙大尽



「菓子なんぞ、ダシに使いやがって。おまえの耄碌した目には、その女の子が嫌がっているのが見えないのか? 皺くちゃなその顔に一発喰らいたくなければ、おれの前からとっとと失せろ」


 自分が言い放った言葉が本気であることを見せつけるために、彼は腕をまくってみせる。カッとなればすぐに手と足が出る江馬だが、さすがに相手の年齢を考えたのか、それとも青蘭楼という場所を考えたのか。生まれつきに喧嘩っ早い気質だが、十八歳ともなると、時と場所を心得る術はかろうじて身につくようにはなった。


 振り返った老人は少しも慌てていない。

 それどころか江馬の言うところの皺くちゃな顔に余裕の笑みを浮かべていた。


「おやおや、なんとお元気な。羨ましいような、いや、眩しいような若さでございますな」


「なんだと? つべこべと言い返しやがって。おれが若いことに文句でもあるのか。棺桶に片足どころか両足を突っ込んだ年寄りが!」


 相手の挑発に乗せられた江馬は足を一歩踏み出す。

 しかし、袖をめくって露わになった友の腕にすがって賢明は引き止めた。


 背の高さでも頭の回転でも顔の造作の良さでも、そのすべてに負けている賢明だが、彼は河南では豪商といわれる商家育ちだ。猫の子ですら捕まえられないようなひ弱な老人の余裕がどこから来ているのか、幼いころから見聞きして知っている。


 老人だと見くびれば、瞬きもせぬうちに無残な返り討ちに遇う。それも首が胴に繋がっていれば運がよかったと思うような……。そういうことが、ある種の化け物級の大金持ちには、指を一本動かしただけでいとも簡単に出来るのだ。


「江ちゃん、やめてくれ。ここは往来じゃない、青蘭楼だよ。青蘭楼のことは青蘭楼の者たちに任せよう」


 垂れた瞼に埋もれた白く濁った小さな目を、老人はおもむろに賢明に移す。


「すぐにお湯が煮えたぎる底の浅い鍋のようなオツムの持ち主とは違って、そちらの年かさの若者は、少しは世間というものを知っておられるようですな」


 その言葉は火に油を注いだ。


「なんだと、おれのオツムが底の浅い鍋だと」

「違っているとは思いませんよ。たぶん、頭に血が上るのも早いが、冷めるのも早いかと」

「言わしておけば、好き勝手をほざきやがって!」


「後生だよ、江ちゃん、やめてくれ」

 腕を押さえているだけでは止められないと、賢明は江馬の背中にしがみついた。


 背が低く女のようになよなよしているように見えて、太った体の重さも相まって意外と力強い。しがみつかれて、賢明を振り払おうとよりいっそう強く江馬がじたばたと暴れる。


 その時、後ろから声がした。

 凛としてよく通る声だが女の声だ。

 そしてこちらも若くはない。


「汀お大尽さま、こちらでございましたか? おや、お姿が見えないと思えば、白麗さまもこちらにいらっしゃいましたか。探しておりましたよ。亜佳、お嬢さまをお部屋へ」


 振り返れば、後ろに下男と下女を一人ずつ従えた老女が立っている。

 白髪混じりの髪を小さく纏めて結いあげ、着物もことさら目立たないように気を配っているのか地味な色合いだ。


 しかし髪に挿した幾つもの簪は薄暗闇のなかで金色に輝き、ぶらさげた幾つもの帯飾りの宝玉は彼女がかすかにその体を動かすたびに触れあって、涼やかな音を響かせる。 白く塗りこめた顔の眉は優雅な山の稜線のようであり、真っ赤な唇は吸ったばかりの滴る血を想像させた。時の流れとともに失った若さを補う最良の方法を、彼女は知っている。


「は、はい、女将さま。す、すぐにそういたします」


 老女の後ろから亜佳と呼ばれた下女が出てきた。江馬と賢明は彼女を知っている。華仙堂に現れた少女を大汗をかいて探し出し連れ帰った女だ。いまも女は鼻の頭に汗を光らせている。女将にうながされた彼女は少女の手を取り廊下の向こうへと消えて行った。


 それを名残り惜しそうに見送った汀老人が老女に向かって言う。


「これはこれは。青蘭楼の女将に、わざわざお出ましいただくとは。ちょっと騒ぎが過ぎましたかな。白麗ちゃんの笛の音が聴きたくて、部屋までおいでくださるようにお誘い申し上げていたところなんだが。この若者たちが何やら勘違いしたようで、大声で騒ぎ出したものだから、どうしたものかと困っていたところなんじゃよ」


 いままで江馬たちをいたぶっていた老人の声の調子が変わった。やけに馬鹿丁寧な言葉遣いだ。


「そうでございましたか。しかし、お大尽さま、白麗さまはご自分の気が向かないかぎり笛を吹こうとはなされません。それはお大尽さまもご存じのはずでございましょう」


「ああ、そうであったな。いやいや、老いぼれてしまってな。すっかり失念しておった」


「なにが失念だ。おまえの態度には下心がありありだったぞ。このスケベ爺!」

 賢明に押さえつけらえたまま江馬は叫ぶ。

 その江馬と汀大尽の間にするりと女将は体を割り込ませた。


「淘さま、ここはあたくしにお任せくださいませ。汀お大尽さまは、青蘭楼の大切なお客さまにございます。淘家のご子息であろうと、これ以上の乱暴な言葉は青蘭楼の女将であるあたくしが許しません」


「おや、この礼儀知らずな若者二人は、新しく雇った下男かと思えば……。そうですか、血気盛んなこの若者は淘家のご子息でしたか。ほう、これはまあなんと、あの都尉の……」


「このおれを、げ、げ、下男だと?」

 江馬の叫びを趙大尽は無視すると言葉を続けた。

「では、女将。ついでと言ってはなんだが、もう一人の、常識あるこちらの若者の名も教えてくださるかな?」


「宝玉を扱っては、この河南でも有名な劉家のご子息さまの賢明さまでございます」


「おお、あの劉家の……。これはまた、なんと奇遇な……」


「お二人は、あたくしに用があるとかでいらっしゃったところです。青蘭楼の迷路のような廊下で迷われてしまったのでしょう」

 そして控えていた男に振り返る。

「お大尽さまを、粗相なくお部屋へ。そして支度の整った気の利く妓女を三人、すぐに差し向けなさい」


「女将、気を使わせてしまったようですまないねえ。では、わしも戻るとしよう。それにしても、今夜の出会いはなんとまあ、面白い……」


 老人はゆっくりと背を向けて案内の下男に後ろに従った。いかにも可笑しくてたまらないというしわがれた笑い声だけが、しんと静まった廊下に響く。


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