第5話 昼、犯罪
翌日、正午を回ってから目が覚めた。普段から休日に早起きすることなんてまずないが、それにしても遅い。吸血鬼化によって体に負担がかかったからだろうか。
普段通りの、何もない昼下がり。首筋に穿たれた
不思議な孔だ。鏡の中に映ったその孔には、底というものがなかった。どこまでも続いているようでいて、実は深さなんてものは存在しないのかもしれない。
それはただの印。中にヒトならざるものが詰まっていることを示す、風船の結び目。
両親は既にいなかった。今頃どこをほっつき歩いてるんだか知らないが、休日の朝から外出なんてご苦労なことだ。
かく言う僕も、今日は昼食と身支度を済ませて、起きた四十分後には家を出ていた。休日に人と会う予定をつくったのはいつぶりだろう。そんなことを考えながら目的地へと歩く。日の光は苦痛ではない。これは血を吸われる前に聞いていたので驚きはしなかった。流石に玄関の扉を開けた時は少し身構えたが。
十一月も下旬。昨夜起こったことを思い返しながら落ち葉を踏みしめる。吸血鬼。本当に僕はそれになったのか。人の血を吸う吸血鬼。人の世の中にありながら、人の
部屋に招かれて、あの奇妙な空気と空間にビビり散らかしていた自分がおかしくてたまらない。まるで宝くじを当てたような気分だった。宝くじを当てたことはないけれど、その気分くらい想像できる。その想像力こそが人間の強みだから。いや、僕はもう人間ではないのだけれど。
部屋の前に立ち、インターホンを鳴らす。しばらく待っても反応がない。二度目の呼び鈴。無反応。人と約束しておいて、出かけているのだろうか。まさか昨日の今日で退治されてしまった、なんてことはないだろうけど。
そういえば、昨日聞いていなかった。創作物の世界では、大抵の場合吸血鬼を狩る人間が登場する。某宗教の司祭とか。そういう存在を描写した娯楽作品が流通している以上、大規模な秘密組織のようなものはないと考えていいと思うけれど、それでも吸血鬼殺しを生業とする人間が存在する可能性は否定できない。そもそも、吸血鬼を殺す手段があるのかどうかということすらも、僕は知らない。
昨日の短い問答では不十分だ。カナさんには聞かなければならないことが多すぎる。
だがまあ、いないのなら仕方がない。また夜にでも出直そう。そう思ってダメ元でドアノブを回すと、あっさりとドアは開いた。
恐る恐る、中へ入る。僕が吸血鬼になって初めて犯した罪は、住居侵入であった。
カナさんは昨日話をしたリビングの奥、隣の寝室にいた。彼女は単に寝ていただけだった。ベッドの真ん中に、真上を向いたまま。シーツには身じろぎの痕跡一つない。吸血鬼らしい眠りとも言えた。考えてみれば、吸血鬼なんだから昼に寝るのは当然のことだ。棺桶の方がそれっぽくはあるけれど、自分が棺桶で眠るのは御免なので正直安心した。
それにしても、シンプルな寝室だ。別に女の子はぬいぐるみを抱いて寝るものだと思っていたわけではないけれど、ベットと衣装箪笥以外何もないというのは簡素すぎやしないか。そして僕の足元には脱ぎ捨てられた衣服が無造作に散らばっている。胸の部分に昨日の穴の開いたワンピースと、肌着と下着。この部屋の唯一の生活感がそれだった。これが昨日のリビングに転がっていれば、僕の恐怖もいくらか和らいだのに。
雑念を振り払い、カナさんを起こしにかかる。
「おはようございまーす。起きてください」
二、三度呼びかけても反応がない。枕元に近寄り、掛け布団の下の肩をゆする。と、掌に人肌の感覚。まさかと思って布団をめくると、そこにあったのは一糸纏わぬ成人女性の裸体だった。
白い肌と、均整のとれたプロポーション。彫像のように滑らかな肢体には、けれど確かな生気が宿っていて、柔らかそうだ。
心拍に合わせて上下している胸に、自然と視線が向いた。確かに昨日この位置に刺さっていたはずのナイフの跡は、やはりどこにも見当たらなかった。
無意識のうちに手が伸びていた。鳩尾を指でなぞる。
と、その時。
「君とそんな関係になった覚えはないけど。下僕という言葉の意味を、勘違いしているんじゃないかな」
お目覚めだ。そして言い訳の通用する状況では、なかった。
「おはようございます」
よって開き直る。
「おはよう。いい朝だね」
「ええ、いい天気ですね。カナさん」
「それで、何か言うべきことがあると思うのだけど」
「大変申し訳ありませんでしたっ」
失敗だ。成功するわけがない。勝手に女性宅に上がり込んで、布団を剥いで体に触れるなんて、立派な変態の所業だ。
「しかし、初手が鳩尾とはなかなか良い趣味してるよ、君は」
カナさんのにたついた笑みが今日は一段と激しい。どうやら言葉責めの好機と捉えているらしい。甘んじて受けるしかないか。
ただその前に。
「先に服着てもらえませんか」
裸のままではどうにも怒られている気分にならなかった。
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