竜胆澪音②

 竜胆傑は澪音を抱えて濁流から何とか逃げた。生涯の伴侶、竜胆美香の死を悲しむ間もなく。

「はぁはぁ、あとは山を登るだけだ。行くぞ、澪音」

 息を切らしながら澪音を下ろす傑。十年ぶりの魔術を使用して身体が悲鳴を上げている。

 筋肉痛と頭痛が一度に襲っているような状態だ。精神力だけで何とか身体を動かしている。

 

「お父さん、大丈夫?」

 澪音は心配そうな顔で父の顔を覗く。

 小学生の子供が一発で見抜けるほどの状態だ。大丈夫な訳がない。

 それでも、子供の前で気弱な姿を見せるわけにはいかなかった。

 

「大丈夫だ。お前も遠足で登っている山だろう。大人はこれくらい鼻歌交じりで登れるんだ」

 平時であればその言葉に嘘はなかった。数時間あれば景色を楽しみながら子供や老人でも登ることができる。

 ただ、数倍の速度で登るとなると話は別だ。しかし、それを小学生の娘に言ってみても仕方ない。

 心配でもかけようものなら逃げ遅れる可能性すらある。それだけは絶対に避けねばいけない。

 足の悲鳴を無視して駆け出した。山の中腹に行けたらどうにかなると高を括りながら。


 この山のコースは登りやすいと評判だ。

 坂が緩やかになっており、距離をかけて登っていく。中継地点もいくつかあり、限界を感じたらそこで休むことができる。

 ただ、この状況とは致命的にかみ合っていない。長い距離を走らないと津波から逃げることができないのだ。

 一気に高所まで移動できる道はあるが、舗装すらされていない獣道だ。二人が通れるような道ではない。


 何とか登山コースを使って登っていく。しかし、津波は迫ってくる。

「お父さん、走れる?」

 声に出しこそしないが、その答えはノーだ。傑の額には冷たい汗が流れる。

 十年ぶりの魔術は想像を超えて身体に負荷をかけていたのだ。小学生の澪音にペースを緩めさせるような無様をさらしていた。

 

「どうすればいい」

 このままでは二人そろって水の中。誰かが助けに来てくれるなんて期待できない。

 周囲を見回して何か方法はないか探す。そして見つけた。

 一気に高低差を稼ぐ手段を。


「澪音、こっちに来なさい」

「う、うん。わかった」

 父親の言葉を素直に聞く澪音。この非常時でありながら、父親の言葉を信じるいい子だ。

「澪音、愛してるぞ」

「え?」

 その言葉と同時に藍色の術式が起動する。そして、澪音の身体だけがかき消えた。


 澪音が気付いたとき、景色が変わっていた。山の麓に近い場所から頂上に近い場所へ変わっていたのだ。

「お父さん?」

 登山道の柵越しに山肌を見下ろす。

 しかし、傑の姿が見えないほど遠くまで来てしまった。見えたのはずぶ濡れになった山の麓だけだ。

 

 この時点の澪音は理解すらできなかった。父親が命と引き換えに魔術を使用したことを。

 魔術師は使用できる魔力が限られている。ただ、魂が壊れることを気にしなければ起動できるのだ。

 無論、その後に絶対的な死が待っているが。そういった奥の手を使えるくらいに傑は優秀な魔術師だった。

 傑の使用した最後の転移は娘の命を救った。


 その後、澪音は近くにいた大人に保護された。両親と家を失った澪音は絶縁していた父の実家、竜胆家に引き取られることになる。

 傑は一流の魔術師だった。それでも家を捨てた。

 父と同じような魔術師になりたくなかったから。魔術師の家系を継ぐことが正しいとは思えなかったから。

 ここから地獄は加速する。澪音が死にたいと思うようになるくらいには。


♦♦♦


 両親が亡くなってから澪音は初めて自分の祖父と出会った。それまで、死んだと聞かされていたのだ。

 しかし、戸籍をたどると父方母方共に祖父母は健在であった。むしろ、年齢を考えると活動的だ。

 澪音の祖父、権蔵は魔術協会の評議会入り一歩手前まで上り詰めた権力者であった。引退後も協会に大きな影響力を持っている。

 唯一の難点は後継者に恵まれなかったことだ。子供はなかなかできず、唯一の子供は家を捨てて出て行った。

 

「お前が傑の娘か」

 権蔵はたくわえた髭を撫でながら澪音のことを眺める。陶芸品でも見定めるように。

「えっと、初めましておじいちゃん」

 澪音は子供らしく肩を縮ませながらつぶやく。その言葉と同時に――バコンと嫌な音が鳴った。

 

「躾が成っておらんな。竜胆家の当主に対して何たる言葉遣いだ」

 権蔵が杖を振り下ろしたのだ。子供の背中に向けて、杖を竹刀のようにしならせながら。

「かはっ!」

 澪音は悲鳴を上げることすらできなかった。ひゅうひゅうと不規則な呼吸が部屋に響く。

 澪音は息を吸って吐くだけで痛みを感じる状態だった。あまりの痛みに勝手に涙がこみ上げる。

 澪音は一般的な子供として育てられた。その子供が大人に暴力を振るわれる理不尽に直面していた。

 それは体罰とすら言えない。ただの暴力だ。


「しかし、十二歳か。魔術師が一番育つ大事な時期に遊ばせおって。あの馬鹿が」

 権蔵が吐き捨てるように傑を、息子をけなす。肉親へ向ける言葉とは到底思えない。

「まあ、こんなのでもないよりはマシか。今なら辛うじて使い物になるじゃろう。

 ある程度の実力と子宮さえあれば次に繋げられる。跡継ぎが育つまでの繋ぎとして考えれば」

 権蔵はぶつぶつと計画を立てる。澪音を魔術師として育て上げる、非人道的な計画を。

 澪音はその言葉の意味は理解できなかった。しかし、人に向けるものとは思えない目が不安を掻き立てる。


「明日から早速訓練に入る。今日の内に自室の片づけでもしておけ」

 それだけ言って権蔵は部屋を出た。痛みで転がる澪音のことを放置して。

 澪音は涙を流しながら痛みに震える。

 しかし、三か月も経つ頃にはこの程度の暴力で何も感じなくなる。ただの日常だと。


♦♦♦


 簡素なコンクリートの建物の中に澪音は連れてこられた。ガタガタと震える澪音の前に現れたのはアスレチックのような施設であった。

 木の板だけの不安定なつり橋。その上をハンマーが振り子のように通り抜ける。

 アスレチックと違うのはハンマーが重厚な金属でできていることだ。当たれば間違いなく大怪我をするだろう。


「おじいちゃん、これ何?」

 澪音は驚きのあまり本音がぽつりと出た。質問の答えの代わりに権蔵は杖を振り上げる。

 それを見て澪音は昨日の痛みが思い出される。何とかして痛みを回避するために頭を回す。

「と、当主様これは一体何でしょうか?」

 その言葉を聞いて権蔵は振り上げた杖を静かに下ろす。何とか間に合ったようだ。


「これは竜胆家伝統の訓練装置だ。多少の改造はしているが、この形状は二百年前から変わっておらん」

 そして、権蔵は質問に答える。非常識極まりない魔術師の常識を。

「竜胆家の魔術は空間属性。全ての基本は空間把握。

 そのためにはこれを盲目の状態で抜けるが一番じゃ。儂も先代たちもそうして魔術を継いできた」

 

 権蔵はこの装置を誇りのように語る。しかし、澪音にはただの処刑装置にしか見えなかった。

 自分よりも大きい金属製のハンマー。そんなものが振り回されている場所を抜けないといけない。

 当たればどうなるかなど想像するまでもない。

「い、嫌です当主様。もっと安全な――」

 澪音の言葉を権蔵の拳が遮った。澪音の身体が一瞬宙に浮く。


「貴様、竜胆の伝統を馬鹿にしたのか?」

 権蔵は冷たい目を向ける。怒りで青筋を立てながら。

「い、いえなんでもありません」

 澪音はそれ以上何も言うことができなかった。これ以上暴力を振るわれたくなかったから。


 澪音は黒い目隠しをつけた状態で装置に上らされる。何とか紐の感触で足場はわかるが、ひどく不安定だ。

 その上澪音自身が恐怖で震えている。障害がなくてもそのままバランスを崩して落ちてしまいそうだ。

 何歩か進むと風切り音が聞こえてくる。ハンマーが少し前を通り抜ける音だ。

 何とか進もうとするのに足が進まなくなる。でもここで立ち止まっていても恐怖は終わらない。

 澪音は一番遠くまで言った段階で足早に通り抜ける。何とか無事通り抜けた。

 

「がはっ!」

 そのタイミングで全身を強い衝撃が襲った。ゴルフボールのように身体が宙を舞う。

 そして地面に強く叩きつけられた。運良く頭からは落ちなかったようだが、全身が痛くて仕方ない。

「うっ、うう」

 目隠しの裏に涙がたまる。痛みが許容限界を越えているのだ。

 

「耳に頼っているからそうなるのだ。空間を把握しろと言っただろう」

 権蔵は冷たい目で馬鹿にする。今日初めて魔術を学んだ者に対して。

 初心者相手の手心など権蔵は一切考えていなかった。むしろ、遅れた分と取り戻そうと必死だった。


「こんなことをしていたら死んでしまいます」

 澪音は何とかこの訓練の意味のなさを訴える。しかし、その答えも用意されている。

「安心しろ。抱えの治療術師がいる。その程度は数秒で治せる」

 権蔵の言葉と同時に白衣を着た男が澪音の下へ駆け寄る。緑色の術式を展開し、澪音のあざを一瞬で消してしまう。

「終わりました」

 白衣の男は淡々と告げた。壊れた機械を修理したかのように。

 

「では続けるぞ」

 後遺症は残らずとも痛みと恐怖は残る。それを目的とした原始的な訓練だ。

 澪音は泣きながら訓練を続けた。全部の道を通り抜けるまでに半年近く費やした。


 この訓練を泣きながら越えても次々無理難題が用意される。澪音は四年という月日を耐えた。

 いや、耐えたというのは正しくないかもしれない。一年も経つ頃には権蔵の言うことを聞くだけの人形になっていたのだから。


♦♦♦


 両親の死から四年経過して澪音は十六歳になった。高校生となり、死んだ目で学校と家を往復する。

 家でも学校でも魔術魔術魔術。生活の全てが魔術に汚染されていた。

 心を守るために心に蓋をして自分が人間であることを忘れるようにしていた。

 何をされても何も感じない。そうである方が楽だと。


 権蔵はその程度のこと気にも留めていなかった。むしろ、その方が相手探しは楽だと考えていた。

 しかし、ある日澪音が心を取り戻す。それが良いととか悪いことかわからない。

 

 それは小さな小さなきっかけだった。道を歩く三人親子とすれ違った。

 ただそれだけだ。誰も気に留めない、日常の背景でしかない。

 それが、どうしてか澪音の心に灯をともした。死んでいた心を蘇らせた。


「あ、あ、あぁ」

 それと同時に絶望した。あまりの自分の生活に。

 生まれたときから魔術師ならこの辛さを知らなかっただろう。十二歳までの普通に過ごした記憶が、今の自分を不幸にしてた。

 そして、闇しか見えない自分の未来に絶望した。このまま奴隷未満の人生しかないんだと思うとつらくて仕方がなかった。


 その日、澪音は家に帰らなかった。そのようなことをすれば権蔵に拷問のような指導をされると知りながら。

 絶望しかない人生。そんなものを続けるくらいなら、ここで人生を終わらせた方がマシだと思ったから。

 ぼんやりとした目で周囲を見渡す。楽に死ぬ方法はないものかと。


 電車に轢かれると周りに迷惑がかかる。飛び降りも同じ理由でダメ。

 リストカットは上手くいかないという話をよく聞く。毒でも探すのが一番?

 そんなことを考えていると不気味な男がいつの間にか前に立っていた。


 伸び放題の髭面と整えられていないぼさぼさの髪。数日洗濯していないようなよれよれのシャツ。

 微妙にサイズの合ってないスラックス。履きつぶされた靴。

 不快感を感じさせる男であったが、一番不気味なのはその目だ。白目と黒目が反転している。

 

 澪音の頭で警鐘が鳴っている。関わってはいけない存在だと。

「あ~、また魔術師の家か。あの馬鹿どもはよく作るね。魔女を滅ぼしたいって言ってる癖に」

 男はにやりと笑って澪音のことを見つめる。それだけで金縛りにあったように動けなくなる。

「あなたは何者?」

 澪音は震える声で問いかける。

 

「俺?俺は悪魔だよ。才能ある人間と契約して魔女にする慈善事業をやってる」

 悪魔を自称する男は胡散臭い言葉をつづる。ただ、魔術師として教育された澪音はその知識と今の状況が結びつく。

 魔術師の敵、魔女。悪魔と契約して人外の化け物になった人類の天敵。

 それを滅ぼすために魔術師は存在する。それが魔術協会の理念だ。


「私を魔女にしたいの?」

「おっ、話が早いね。そういう子好きだよ。楽だから」

 軽い調子で話を続ける悪魔。嬉しそうに白黒反転した目を細める。

 目の前の存在は、澪音の知っている悪魔で間違いなさそうだ。

「面倒なのは嫌いだからぱっぱと行くよ。君、魔女にならない?才能あるよ」

 

 モデルのスカウトのようなノリで話す悪魔。それを聞いて、澪音は反射的に否定が出た。

「誰が人類の敵になんて!」

 魔女は人類の敵。それが教えられた魔術師の常識であった。

 街を滅ぼし、人を操り、人類に害をなす。そんな化物になるなど御免であった。

 

「いや、どう考えても魔術師の方が人類の敵じゃん?」

 その言葉を聞いて澪音ははっとする。澪音の本音を引き釣り出していたから。

「拷問みたいな訓練させられてるんでしょ?

 その魂見たらわかるよ。無理に加工されて折角の素材が台無しだ。

 辛かったね?」

「それは……」

 一切否定できなかった。そのせいで死ぬことばかり考えていたのだから。

 

「その現状から抜け出すことができるよ」

 それは正に悪魔のささやきだった。

「殺して復讐するのもいい。それで足りないなら拷問するのもありだ。

 そういうのは趣味に合わないなら、ただ逃げるだけでも十分。君は現状を変える力を手に入れられる」

 甘露のように言葉が耳に染み込んでいく。澪音は足を止めて聞き入っていた。


「君はどうしたい?」

 悪魔の言葉を聞いて思い浮かべる。とにかくあの家を潰したい。

 その後はお父さんとお母さんと一緒だったときみたいに――。そこで思い直した。

 そんなことをして優しい両親に顔向けできるか?胸を張って生きていけるか?

 澪音は考え抜く。そして、一つの結論を出す。


「滅ぼしたい。あの家を完全に完璧に。私ごと沈めて、全部なかったことにしたい」

 あの家で生きることも無理。かといって、あの家を滅ぼして幸せになる未来も描けない。

 逃げるのはどうか?あんな家をそのままにしてはいけない。

 竜胆家を自分ごと終わらせる。それが澪音にとって一番楽な道だった。


「ふ~ん、それが君の願いなんだ。まあ、いいや。これで契約は成立した」

 悪魔が澪音の頭に手をかざす。それと同時に光が流れ込む。

 緋色と黄色と紫が混ざった複雑な光。それが澪音の魂と渦を巻いて混ざり合い一つになる。


「短い付き合いになりそうだけど、精々楽しませてよ」

 悪魔は澪音の頭に手を置いて歩き去った。

「私が海の底に沈める」

 再び目を開けたとき澪音の瞳は濁り切っていた。父と母を吞み込んだあの濁流のように。

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