サークルの後輩は見透かしている

 夜の自室。机に広げたノートの上で、黒いペン先が中途半端な線を描いたまま止まっている。

 静かなはずの部屋なのに、やけに心臓の鼓動だけが大きく響いていた。


 目の前のページは白く、課題の文字を埋めるどころか一文字も書き込めていない。

 本来ならすぐにでも終わる量だ。だが、頭の中は全く別のことで埋め尽くされていた。


 ──ラウンジでのあの瞬間。


『私……あんたのこと、まだ狙ってるから』


 不意打ちのように放たれた琴乃の言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。その時の視線や指先に絡められた温もりまでもが鮮明に蘇る。


 琴乃との関係は今年で八年目。中学から多くの時間を一緒に過ごし、喧嘩しても最後には戻れる関係。

 一度付き合って、別れても疎遠になることもなく。


 結局はこの幼馴染という形が一番自然で居心地が良いのだと──ずっとそう思っていた。

 だけど、琴乃はどうやらそうは思っていなかったようで。

 

 彼女もきっと同じように考えていると思っていた。

 だからこの前の言葉はあまりにも想定外で、心を大きく揺らした。


 琴乃のことは嫌いじゃない。寧ろ分類するのであれば好きな方だ。

 気を遣わずに済むし、放っておいても勝手に隣にいてくれる。一際安心できる存在。


 ……だが、その『好き』はきっと琴乃の物とは違う。

 友達としての好きよりは上。しかしそれは恋愛感情ではないことは確か。

 長い時間を共に過ごしたことで生まれた特別さなのか、家族のような親愛からなのか。考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。


 琴乃に対して抱いているものが恋心じゃなくて、ただの居心地の良さや絆にすぎないとしたとして。

 

 ……俺はあいつの想いにどう応えればいい?


 きっと、琴乃は『好き』という言葉で収まるような軽い気持ちであんな風に言ったわけではないのだろう。

 それは薄々感づいている。課題を一緒にやったときの言動や、今日琴乃から放たれた言葉からそれをふつふつと感じさせた。


 琴乃の想いが真剣であることは分かる。だからこそ、中途半端な態度では不誠実で彼女を傷つけるだけ。


 それは自分でも分かっている。分かっているけど…………怖い。答えを出すのがとても怖かった。

 

 もし、ここで無理だと拒絶したら──琴乃はどんな行動に出るだろう。

 あいつの性格からして、ただ黙って引き下がるとは到底思えない。強がって、笑って、何事もなかったように振る舞いながら……裏ではきっと俺のことを考え続けるだろう。そうやって無理をして、壊れていくかもしれない。


 それを想像すると、喉の奥が詰まるような感覚に襲われる。


 じゃあ、もう一度恋人という関係に戻ればいいのか?

 彼女の想いを受け入れて、隣に立てばそれで解決するのか?


 ………俺は琴乃の事が心の底から好きだとか、愛しているとは言えない。

 琴乃を大切に思っているのは確かだ。幼馴染としての時間は誰よりも濃く積み重ねてきた。

 でも、現状琴乃に恋愛感情を持っていない。


 そんな曖昧な気持ちのまま恋人という関係になるのは、それこそ不誠実なんじゃないか。

 琴乃は真剣に想いをぶつけてきたのに、俺だけ中途半端な答えを返すなんて。


 それに、琴乃の持つ気持ちに対して俺の気持ちは絶対に釣り合わない。天秤は琴乃の方に傾いて必ず崩れ落ちる。

 だからこそ、恋人という関係を上手く続けていく自信がなかった。


「………俺、高校の時は琴乃の事、ちゃんと好きだったんだよな………?」


 今のあいつに対する入り乱れた感情が、過去の自分の気持ちすらも複雑にする。

 

 このまま”幼馴染”という殻に逃げ込んでやり過ごせれば、一番楽なのに。そんな考えが頭の中に浮かび上がる。


 ……結局、俺は臆病なのだろう。

 琴乃は嫌いじゃない。むしろ大切に思っている。

 だが、あいつを完全に受け入れる自信がない。でも逆に違うと突き放すことも怖い。


 どちらを選んでも後悔する未来が待っている気がして、結論に手を伸ばすことすらできない。


 自分の性格が嫌になる。真面目というより優柔不断。

 いつも正しい答えを出さなきゃと考えて、誰も傷つかない道を探そうとして……結局、なあなあで立ち止まっているだけ。子どものころから俺は変わらない。

 

 ノートの上で止まったままの黒いペン先を見つめ、深く息を吐く。吐き出したはずの空気がすぐに胸の奥に滞り、苦しさとなって戻ってくる。

 静かな部屋の中、鼓動の速さだけが際立って耳に響いていた。


『絶対に渡さない。湊は私のものにするから』


 その真剣な声音が蘇るたび、鼓動が嫌に速くなる。幼馴染としての琴乃ではなく、一人の女としての琴乃が目の前に立っているのだ。

 その現実が、俺の心を締め付けて離さなかった。


 ノートを閉じ、ペンを置いて布団に潜り込んで目を閉じても、眩しいくらい鮮明に琴乃の顔が浮かぶ。

 一件不安げに見えて、でも強い決意を秘めて俺を見ていたあの黒い瞳が。拒むことも受け入れることもできない俺を責めるように。


 もうあいつの気持ちなんて分かりたくない。分かろうともしたくない。


 結局その夜、眠気は最後まで訪れなかった。









 駅前の改札口は、午後の人波でほどよく混み合っていた。行き交う人々のざわめきに紛れるように、ひときわ軽やかな声が響く。


「湊先輩、こっちですよー!」


 手を振りながら駆け寄ってきたのは、櫻庭詩織だった。

 肩にかかるくらいの長さの髪は少し明るめの茶色で、自然に揺れるボブが柔らかな印象を与えている。ぱっちりした目元と人懐っこい笑顔は、初対面の相手でもすぐに打ち解けさせるような親しさをまとっていた。


 湊は小さく片手を上げて応じる。だが、内心は落ち着かない。昨夜から纏まらない思考が頭の中を占め、笑顔を返す余裕はなかった。


 二人は駅前の通りを抜け、大学近くの小さなカフェに入る。ガラス越しに見える店内は温かな色合いの照明に包まれ、昼のピークを過ぎたせいか、客席には余裕があった。


「ここ、やっぱり落ち着きますよね」


「とはいってもまだ両手で数えられるくらいしか来てないけどな」


 詩織は慣れた様子で言いながら、奥の二人掛けの席に迷いなく腰を下ろした。彼女にとってはすっかり馴染みの場所なのだろう。その仕草の自然さが、逆に湊の胸をざわつかせる。


 テーブルに置かれたメニューを一瞥しただけで、詩織はすぐに顔を上げて店員を呼んだ。


「すみませーん。アイスコーヒー二つと、コーヒーゼリー………後、苺のパフェ一つお願いします」


 注文を終えた彼女はすぐに湊へと視線を向ける。


「湊先輩はいつものブレンドで良かったですよね?」


 一瞬、湊の手が止まった。

 湊がこの店に来るとき、決まって頼むのはブレンドコーヒーだ。

 確かに一緒に来る度にそう注文している。だが、その言い方はまるで「当然知っている」とでも言うような響きを帯びていた。


 ……自分の好みを良くそこまで確信して言えるものだ。


 そう思った途端、背筋に薄いざわめきが走る。観察されている。そう感じてしまうほどの自然さで、詩織は湊の注文を把握していた。


「……ああ、それで」


 湊は疑念を押し殺すように頷くしかなかった。


 詩織は嬉しそうに微笑み、頬杖をつきながら彼を見つめる。その視線は明るさの裏にどこか熱を孕んでいて、以前の琴乃の言葉を思い出させた。

 胸の奥で不安と戸惑いが交錯し、湊は思わず視線を窓の外へと逸らす。


 そこから他愛もない雑談を交わしていると、店員がやってきて注文の品をテーブルに置いていく。冷たいグラス越しに伝わる湿気とともに、コーヒーのほろ苦い香りが仄かに空気を満たした。


 グラスの中で氷がカランと音を立てる。黒々とした液体の表面には細かな気泡が浮かび、外側にはすぐに薄い結露がにじみ広がっていった。


 湊の前には、アイスコーヒーと小ぶりなガラスの器に盛られたコーヒーゼリー。スプーンで掬えばぷるりと揺れ、光を反射して琥珀色に輝く。

 一方で、対面の詩織の前には同じアイスコーヒーと、鮮やかな苺のパフェが並んでいた。ホイップの白と苺の赤が層を成し、ガラス越しに煌めいている。


「やっぱりここのパフェ、他より美味しいんですよね。先輩がいつも頼むコーヒーゼリーもそうですけど」


 詩織はそう言ってスプーンを揺らし、嬉しそうに苺を口に運ぶ。年相応の後輩らしい無邪気さを感じさせる。だが、その横顔を見つめるうちに湊は、胸の奥で微かな違和感を覚えずにはいられなかった。


 詩織はこうして何気ない会話をするたびに、こちらの好みや癖を当然のように口にする。今日の「いつものブレンドで良かったですよね?」という言葉もそうだ。


 単に観察力が鋭いだけなのか、それとも――。


 氷が溶けていく音が、妙に耳に残る。その沈黙を破るように詩織がふっと笑った。


「先輩って、変わらないですよね」


 何気ない一言。だが、その声色には淡い安堵の響きがあった。


「前からずっと同じものを頼むし、今日は私が勝手に座りましたけど、同じ席に座るし。……なんだか落ち着きます」


 柔らかく笑うその目は明るい色をしているはずなのに、不思議と湊を逃がさない力を帯びていた。

 言葉の端々に漂う既視感。それは一緒にいるから知っているという域を越え、離れていても全部分かっていると主張するような気配だった。


 胸の奥がざわめき、無意識に指先に力がこもる。

 グラスを持つ手がほんの少し震えているのに気づき、湊は慌てて息を整えた。


 その様子に気づいたのか、詩織が首を傾げる。


「どうかしました?」


 問いかけは柔らかい。だが、その瞳の奥には、こちらの反応を逃さない冷ややかな光が潜んでいるように見えた。


「……いや、別に」


 短く答えて視線を逸らす。

 窓の外では、行き交う人々が夏の日差しに照らされながら足早に歩いていく。


 ――詩織にこの前の琴乃の事を言ったら、何と言うのだろう。


 ふと、そんな考えが頭をよぎった。


 グラスの外側を伝う結露が指先に冷たさを残す。湊はそれを見つめながら、しばらく言葉を探していた。

 言っていいのか、言わない方がいいのか。そんな逡巡ばかりが胸の中で絡まり、氷の溶ける音ばかりが耳に残る。


「……なあ、詩織」


 思わず口にした声は酷く硬かった。

 詩織がスプーンを止め、ぱちりと瞬いて湊を見る。


「はい? どうしました?」


 笑顔は柔らかい。だが、ストレートに言葉にできないモヤモヤとした複雑さによって、思わず湊は視線を逸らした。


「……ちょっとこの前、知り合いの男に相談されたことがあってな」


 曖昧な言葉を選びながら、氷の溶けたグラスをゆっくり回す。

 素直に内容は言えなかった。だから、知り合いに相談された体で話す。

 琴乃の名前を出した瞬間、詩織がどういう反応を示すかそれを想像すると胸がざわついた。


「その………知り合いが女子に告白されたみたいでさ。告白された奴からしたら、そいつは幼馴染のように仲の良い奴で、あまり恋愛対象としては見てなかったみたいなんだが……」


「へぇ……青春っぽいですね」


 詩織は一瞬だけ目を丸くして、それからにこりと笑った。

 軽く受け止めた様子でスプーンをパフェに差し込み、真っ白な生クリームを口に運ぶ。


「幼馴染の子から好かれるなんてドラマとか小説とかじゃあよくある話ですけど、凄いじゃないですか」


 明るい口調。だが、湊の胸には小さなざらつきが残る。

 このまま流されればいいのかもしれないが、もう少しだけ話を続けたかった。


「……まあな。ただ、そいつは迷ってるみたいなんだ」


「迷う?」


「幼馴染とは長い付き合いで、友達以上に特別な存在なのは確かなんだろうけど……それが恋愛なのか、ただの情なのか分からないらしくてさ」


 氷をストローで突きながら言葉を繋ぐ。

 話を重ねるほどに胸の奥が重くなり、自分が何をしているのかさえ分からなくなる。


「……もし恋愛感情じゃなかったら、付き合っても不誠実になるだろ? でも断ったら断ったで、その幼馴染との関係がどうなるか分からなくて……」


 そこまで言ったとき、ふと顔を上げると、詩織の表情に微かな変化があった。

 笑みは浮かんでいる。だが、その目がほんの僅かに細まり、真剣さの色を帯びていた。


「その知り合いの人は優しいんですね。……相手のことをちゃんと考えてる。まあ、ちょっと真面目過ぎるとは思いますけど」


 そう言いながら、詩織はグラスを指先で撫でる。透明な氷がカランと鳴り、妙に冷たい音が響いた。


「ちょっと湊先輩に似てますね。その人。これが類は友を呼ぶってやつですか?」


 その詩織の言葉に、湊は一瞬心臓が止まったような冷やかさを感じる。


「……さあな。まあその知り合いは、どうするべきか分からないんだとさ。断れば相手を傷つける。でも、安易に受け入れたらもっと苦しませるかもしれないって」


 自分の声を聞きながら、湊はどこか遠いところから響いているような感覚に囚われた。

 ストローを指で転がす手に力が入り、氷がカランと不安げに揺れる。


「ん~………確かに難しい相談ですね」


 詩織は小首を傾げ、スプーンですくった苺を唇に運んだ。

 赤い果肉が口元で消えていく様子は無邪気に見えるのに、言葉の響きは妙に大人びていた。


「でも、それって答えは簡単じゃないですか?」


「簡単?」


「はい。好きなら付き合えばいいし、そうじゃないなら断ればいい。それだけですよ」


 あまりにあっさりとした言い分に、湊は思わず眉を寄せる。

 それができないから迷っているのだと、喉まで出かかったが飲み込んだ。


「……まあ、理屈はそうなんだけどな」


「せんぱ……じゃなくて、その知り合いの人は考えすぎなんじゃないですか?」


 詩織は揶揄うように口元を緩めた。


「その人はきっと真面目なんだと思います。……ただ、もし私だったら、迷ってくれてるだけでも嬉しいですけどね」


 グラスの表面を滑る結露を指でなぞる仕草。

 その横顔はあくまで穏やかだが、どこか含みを帯びているようにも見えた。


「だって、相手のことを本気で考えてる証拠でしょう? 適当に答えを出すよりずっと誠実だと思う」


「……誠実、か」


 その言葉に、湊の胸は少しだけ重さを増した。

 誠実であろうとするほど、答えは遠のいていく。言葉を探す沈黙の中、詩織がふっと目を細めた。


「……なんだか、聞いてると妙にリアルですね。その知り合いの人の話」


 湊の肩がわずかに強張る。


「そう、か?」


「ええ。細かい感情のこととか……普通、相談された話ならそんなに詳しく分からないと思うんですよね」


 詩織はスプーンを置き、両手でグラスを包み込む。

 明るい笑みを浮かべたまま、詩織の瞳だけが冷たく研ぎ澄まされていく。


「それに、他の人の話なのに大分神妙な顔するじゃないですか。先輩」


 グラスの中の氷は既に全て溶けていた。

 湊はグラスに手を添え、無意識に指先へ力を込めた。


「……いや、別に俺は――」


 言葉を繋ごうとした瞬間、詩織の声がそれを遮る。


「それって本当は、先輩自身の話なんじゃないですか?」


 柔らかく笑っているのに、瞳の奥は揺るがない。

 その一言で、背筋を冷たいものが走った。


「……」


 視線が泳ぐ。気づかれまいと窓の外に逃がすが、そこに映る人波さえ霞んで見える。

 ここで下手に言葉を重ねれば、余計に深く踏み込まれる気がした。


「ねえ、先輩」


 詩織は頬杖をつき、楽しげに口角を上げる。

 だがその笑みは、答えを許さない圧を孕んでいた。


「私、気づいちゃったかもしれません。……だって“知り合いの話”にしては、先輩の顔が真剣すぎるんです」


 湊は小さく息を呑み、口を開いた。


「……違う」


 低く、硬い声だった。

 自分でも驚くほど強い響きで、グラスの水面がわずかに揺れる。


「俺の話じゃない。ただ、知り合いから聞いただけだ。………別に知り合いからの相談話なんだから、真摯に対応した方が良いだろ」


 詩織は一瞬黙り込んだ。

 そして――小さく肩をすくめ、揶揄うように微笑んだ。


「……そうですか。なら、そういうことにしておきます」


 スプーンを再びパフェに差し込み、ぱくりと口に運ぶ。

 その仕草は軽やかなのに、どこかまだ疑っていると言いたげで。


 詩織は変わらず笑顔を浮かべている。だが、その目の奥の色だけは掴みきれず、湊の胸に棘のように引っかかり続けた。


 カフェのざわめきに混じり、氷がすっかり溶けきったグラスからはもう音すらしない。

 湊は口元を少しぬるくなった液体で濡らしながら、ただ曖昧な沈黙に身を預けるしかなかった。

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