サークルは一時の逃げ場

 薄く差し込む朝の光がカーテン越しに滲み、部屋の中に淡い白さを広げていた。

 目を開けた瞬間、こめかみにずきりと鈍い痛みが走る。喉は酷く乾き、舌の奥に昨夜の酒の甘ったるい後味がべったりと貼りついていた。


 布団の中で額を押さえながら、頭の奥を探るように昨夜のことを思い出す。


 ――居酒屋のテーブル席。紫藤さんと向かい合って、グラスを何杯か空けた。

 その後の記憶は所々霞んでいて、断片だけが引っかかる。タクシーのシートに沈み込む感覚。ぼんやりした視界の端に映る横顔。


「……ああ、紫藤さんに送ってもらったのか」


 ぽつりと呟くと同時に、胸の奥に申し訳なさが広がった。

 あんな時間まで付き合わせて、しかも酔いつぶれて送らせるなんて。完全に迷惑をかけた形だ。

 後でちゃんと感謝のメッセージを送らなきゃな……そう心の中で決める。


 ――と、そこでふと別の疑問が浮かんだ。


 ……俺、紫藤さんに住んでいる家の場所って教えたっけ?


 眉間に皺が寄る。そもそも彼女とプライベートで連絡を取ったことなんてほとんどない。

 だが、酔っていたのは事実だ。自分で口走った可能性はある。そう考えれば辻褄は合う。


「……まあ、そうだよな。覚えてないだけだ」


 声に出して自分を納得させるように息を吐く。

 頭痛はまだ残っているが、時間だけは流れていく。


 そういえば今日講義はなかった。

 しかし、サークルの集まりは午後からあったはずだ。


 渋々布団を抜け出し、洗面所へ向かう。冷たい水で顔を洗えば少しは頭もはっきりするだろう。


 ――支度を整えたら、あの部室に向かわなければならない。







 午後、学内のサークル棟の一角。

 古い木造の廊下を抜けて部室のドアを開けると、ほのかにコーヒーと紙の匂いが鼻をかすめた。

 室内は四畳半ほどの広さ。壁際には活動記録や備品の箱が積まれ、中央の長机には数冊の参考書と、飲みかけのペットボトルが無造作に置かれている。


「お、湊じゃん。珍しく時間ぴったりだな」


 机の端で椅子を傾けながら声をかけてきたのは倉木聡介くらきそうすけだった。

 文学部四年生で、このサークルの長を務める人物。明るい茶色の短髪と、気さくな笑みがよく似合う。面倒見が良く、後輩からの信頼も厚いが、少しお節介なところもある。


「お疲れ様です。今日は講義自体がなかったので。それに特に用事もなかったし」


「なるほどな。サークルは顔出してなんぼだと思うし、来てくれて何よりだ」


 軽口を交わしていると、もう一人奥の棚から何かを探していた女子がこちらを振り向いた。


「こんにちは、蓮見先輩」


 声をかけてきたのは神代茉優かみしろまゆ

 詩織と同じ学年の後輩で、明るめの栗色の髪をショートボブにしている。人懐っこい笑顔と軽い口調が特徴で、初対面でもあまり距離を感じさせないタイプだ。

 湊にとっては詩織経由で顔を知っている程度の存在だったが、こうして直接話すのは久しぶりだった。


「久しぶりだな、神代さん」


「そうですねー。そういえば、この前の飲み会来なかったですよね?」


「……ちょっと予定が合わなくて」


 苦笑しながら答えると、茉優は「それは残念です」とあっさり肩をすくめ、再び棚の中を漁り始めた。

 聡介が机に置かれた紙コップを湊のほうに押しやる。


「とりあえずコーヒー淹れたから飲め。昨日飲んだんだろ? 二日酔いに効くかは知らんけど」


「……なんで知ってるんですか」


「神代が言ってた」

 

 茉優が棚の陰から顔を出し、「詩織が湊先輩昨日飲みに行ってたって話してましたよー」と悪びれもなく付け加える。


 湊は一瞬、返す言葉を失いながらも紙コップを手に取った。

 苦味が舌に広がると、わずかに頭の重さが和らぐ気がした。

 

「(詩織の奴、何でが俺が昨日飲みに行ってんの知ってんだよ………繁華街歩いてるところ見られたか………?)」 


 不意に胸の奥がざわつく。

 繁華街の雑踏を思い出す。あの時、人混みの中に知った顔はいなかったはずだ。


 だが、気づかぬうちに見られていたのかもしれない。――あるいは、別の誰かから耳にしたのか。


 曖昧な不安が頭をよぎるが、考えても答えは出そうにない。

 湊は心の中でそこで思考を切り上げ、わずかに息を吐いて紙コップを机に静かに置いた。


「で、昨日は誰と?」


 聡介がわざとらしく眉を上げる。


「別に、ただのバイト仲間とですよ」


「ほう……“ただの”って便利な言葉だよな」


 茶化すように笑う先輩に、湊は肩をすくめて受け流す。コーヒーの湯気の向こうで昨日の夜の断片がふと蘇った。

 

「(……本当迷惑かけたな。酒は少し控えないと)」


「蓮見先輩、どうしたんですか? 急に黙って」


 茉優の声で湊は我に返る。


「いや、ちょっと思い出してただけだ」


「ふーん……まあ、変なこと考えてそうな顔じゃなかったからいいですけど」


「変なことってなんだよ」


 苦笑混じりに返すと、茉優は「秘密です」とだけ言って探していた冊子を棚から引っ張り出した。

 聡介がカップのコーヒーを飲み干し、話題を変える。


「そういや来週の活動日、場所変わるからな。部室が使えない日だ」


「え、どこになるんですか?」


「図書館の会議室。予約取れたから」


 茉優は「図書館の会議室の方が綺麗だから良いですよね」と無邪気に言い、「おいおい、ここも古いが味があって良いだろ?」と苦笑しながら返す。


 そんなやり取りを聞きながら、湊は窓の外に目をやった。

 部室の中は穏やかで特別なことは何もない。

 

 このサークルは学内でもかなり緩い部類に入る。

 毎回顔を出す必要はなく、来られる人だけが集まればいい――そんな暗黙の了解が昔から続いていた。  

 だからこそ、部室にいるのはいつも少人数だ。


 顔ぶれもほぼ固定されている。事務作業をこなさなければならないサークル長の倉木聡介、時間が合えばふらりと現れる湊、同じく詩織や茉優、そして時折ほか数人が加わる程度。

 最も、飲み会となれば話は別で、その時だけはやけに人が集まり、あっという間に部屋が満員になる。傍から見ればいわゆる飲みサーの小型版といったところだろう。


 湊にとってはこの少人数ぶりがむしろ気楽だった。無理に話題を広げる必要もなく、黙って作業に集中していても気まずくならない。こういう空気の方が性に合っているのだ。


 そんな空気の中、聡介が机の上に残していた封筒を手に取った。


「……っと、これ学務課に出しとかなきゃな。悪いけど、ちょっと留守番頼むわ」


「はーい。いってらっしゃい」


 茉優が軽い調子で手を振ると、聡介は肩をすくめながら部屋を出ていった。

 ドアが閉まり、足音が廊下の奥に消えていく。室内には湊と茉優の二人だけが残された。


 そこからしばしの静寂。窓の外から蝉の声が届く中、茉優が机に腰を預けるようにして言った。


「……なんか、二人きりになると静かですね」


「そうか?」


「そうですよ。いつもはだいたい詩織がいますから。いたらもっと騒がしいですもん」


 その名前が出た瞬間、湊はテーブルにあった紙コップを持ち直す。


「今日は当の詩織は来ないのか?」


「お昼前に連絡あって、バイト先に急に呼ばれちゃったらしいですよ。だから今日は来ないと思います」


「なるほどな……」


 湊は小さく頷き、心の奥でほんのわずかに肩の力を抜く。茉優はそんな彼の様子をちらりと観察してから、にやりと笑った。


「詩織、蓮見先輩のことよく話しますよ」


「……そうか」


「ええ。相変わらずやる気なさそうだとか、一見真面目そうだけど割と抜けてるとか」


「……悪口しか言ってないじゃないか」


 湊が半眼で返すと、茉優は声を立てて笑う。


「でも、なんだかんだ楽しそうに話してますよ。だから、蓮見先輩のこと気に入ってるんじゃないですかね」


 軽い調子で放たれたその言葉に、湊は曖昧な笑みを返すしかなかった。


「蓮見先輩って、普段はどんな感じなんですか? 大人しそうな感じはしますけど」


「別に特段変ではないと思いたいが。普段も見たまんまの通りだと思うぞ」


「ふーん……そう言う人に限って意外と色々あるんですよ」


 茉優はわざと探るように視線を向けてくるが、湊はそれ以上深く乗らず、肩をすくめるだけだった。

 茉優は机に肘をつき、首を傾げながら新たに言葉を放つ。


「でも蓮見先輩って、どこかミステリアスな感じしますよね」


「……どこがだよ」


 不意を突かれ、湊は思わず眉を寄せる。


「だって、普段は落ち着いてるのに時々ふっと遠くを見てるみたいな顔するし。何考えてるのか分からないっていうか」


 彼女は笑いながらもじっと湊の表情を窺う。からかい半分なのか本心なのか、判別がつかない。


「ただぼーっとしてるだけで、別にそんなんじゃないさ。まあ確かに、他の友人にもなに考えてるか分からない奴だとは言われたことがあるな」


「ふーん?」


 茉優が首をかしげる。その無邪気な笑みがどこか探るように見えるのは気のせいだろうか。

 

 湊は短く息を吐き、視線を窓の外へ逸らした。

 窓の外では雲が流れ、木々の隙間から午後の光が差し込んでいる。


「……まあ、先輩がそう言うならそう言う事にしておきましょう」


 茉優は小さく笑って湊から離れていく。先ほどの探るような視線や表情とは打って変わり、ふわふわとした朗らかな雰囲気に戻っていた。


「変なこと聞いて悪かったです。ちょっと気になっただけなので」


「別に気にしないさ」


 湊は一息つき、冷めかけたコーヒーを口に運ぶ。苦味とわずかな酸味が舌に広がり、やけに現実に引き戻される気がした。


「じゃあ、私これからバイトなので帰りますね。申し訳ないですけど、倉木先輩が戻ってくるまでの留守番お願いします」


 茉優はそう言い、鞄を肩にかけると軽く手を振った。


「部室荒らされても困りますし、しっかり見張っといてくださいね?」


「ここ誰が荒らすんだよ」


 湊が呆れ気味に返すと、茉優は「冗談ですよー」とケラケラ笑いながらドアノブを回す。


「では、また次のサークルの時に。 あ、蓮見先輩もたまには飲み会来てくださいね!」


 ぱたんと閉じられた扉の向こうで、足音が軽快に遠ざかっていく。


 部室には再び静けさが戻った。

 蝉の声と時計の針の音だけが響く中、湊は紙コップを片手に壁に背中を預ける。そうして、残りのコーヒーを飲み干した。


 気づけば、二日酔いの気持ち悪さと頭痛は忽然と消えている。


 久しぶりに感じるこの静かな一人の空間は不思議と心地よかった。

 湊は小さく息を吐き、窓の外に広がる午後の光をぼんやりと眺め続けた。

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