他人の禁煙

s-jhon

労働

労働価値説

 個人的には共産主義は失敗だったと思っていますが、中でも労働価値説は間違いだと思っています。(私個人としては「絶対的な価値というものはない」という説に賛同しています)

 労働価値説は世の中にある諸々の価値の源泉を人間の労働に求めるものです。共産主義の中核を成すものと言って良いでしょう。一方で、価値が費やされた労働力に比例するため、無駄に労働力を使う方が価値が高まるという性質を備えています。

 日本においては(主に隣国――世界各国の例に漏れず、あまり友好的な関係ではありません。帝国時代の植民地に対する欲望が原因なので、こちらに非があるのですが――に抱えた共産圏諸国との関係のため)共産主義を忌避する人も多いのですが、一方で労働価値説のような考えを多くの人が持っているように思えます。すなわち「働かざる者、食うべからず」の標語です(これも本来は共産主義者の言葉で、その意味は「(自らは労働をしない)投資家/資本家は食うべからず」だそうですが。もちろん日本で使われているのは「自分の手で食い扶持を稼げない者は飢えるが良い」の意味ですが。(話は逸れますが、私は投資家も働いているものと思っております。自らの腕の代わりに自らの資産を動かして。))。

 この冷酷な「働かざる者、食うべからず」は生活保護受給者に金を出すくらいなら、それを出し惜しんだ方が良い結果(それが労働を始めることと飢え死にすることのどちらを期待しているのかはそれぞれ考えが違うでしょうが。)を生むと考える人たちの愛用品ではあります。しかしそれだけではなく、人権を重んじる人であっても人間の価値を労働ができること(いずれ労働ができること/かつて充分な労働を行ったこと/原則として労働源であること)ゆえのものとする考えから逃れるのは難しいことに思えます。

 一方で労働という物の価値は基本的に下がります。あらゆる仕事は効率化されていきますので。大規模化、機械の導入、業務内容の見直し。そしてそこまで改まったことでなくても仕事に習熟して効率が上がれば、同じ時間でよりたくさんの仕事をすることができます。そして、たくさんあるものの価値は下がります。

 この下がり続ける労働の価値をそのまま私たちは自分の値札にしてしまっています。それを気にせずにいられる環境にない限り、自らの値札が下がり続けることが私たちの心に不安を生み出します。……不安は人をむしばみ、他者を排したり縋るべきでないものへ依存したりさせます。

 だからこそ、私たちはこの労働価値説から、人間を役に立つか立たないかで見る色眼鏡から脱却しなければなりません。人権の理念に立ち返り、人間がただ人間であるというだけで個人として尊重される――そうせねばなりません。ならないのですが、なかなか難しい。


 私もできていないのですが、できていないなりに「役に立つ、立たない」ってそんなに簡単に分けられませんよという話で。

 例えば仕事の役に立たない人間でも生きていくには食料や生活用品を必要とします。――つまり、消費者として一人前の仕事をこなしていることになります。

 消費する人がいなくなればそこに商品を供給していた店が立ち行かなくなり、店が無くなればその店で仕事を得ていた人は失職し、その近くに住むことが不便になり――人の減った不便な過疎地がじわじわと日本を蝕んでいます。

 私たちは誰かに「役に立たない」という烙印を押して、そしてその報いを受けているのかもしれません。道徳的な間違いではなく、浅い考えで誤った判断を下したことに対する報いを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る