1-7 遺書の真贋
✣✣✣
侍女らから借りた
深玉は几を前に、腕組みをする。筆録房へ戻ってきてから休む間もなく遺書鑑定に取り掛かっているのに、なかなかどうして判然としない。気づけばすでに一時辰は経とうとしていた。
目の前に並ぶ、涼やかで流麗に崩された文字。深玉が覚えている蓉昭儀の筆跡そのものだ。私的なやりとりの文章であることを差し引いても、彼女の文字には特徴がある。
「普段の書きつけは、ほぼ
女性らしい手とも言えるが、右肩あがりの癖が目立つ。墨の継ぎも少なく、さっと一気に書きあげているものが多く見受けられる。
「ううん、なんだろうな。なんていうか……」
対して、深玉は遺書を写した蝋紙と見比べる。初見で、かたい、運筆が遅いと感じたものだ。遺書は一画ずつ丁寧に書く
「筆が遅いのは、気持ちの動揺や手の震えを押さえようとした可能性か、あるいは……」深玉は額に手を当て天井を仰いだ。「借りた書きつけと遺書は、かなり一致してるんだけどな……」
かといって、即断できるものではない。真贋を判断するには、材料が少なすぎるのだ。
今のままでは手詰まりだと、深玉は低く唸る。
ちょうどそのとき、外から
「深玉さま、見つかりましたよ!」
しばし動きを止めていた深玉は、その声に椅子の背凭れから上体を起こす。
「おかえり。早かったね」
彼女の後から遅れて夏丞も姿を現した。そういえば、気が散るといって彼を外に追い出していたことを思い出す。
「夏丞さまのおかげですぐ見つけることができたんです! すごいんですよ!」凛凛は無邪気に目まで輝かせている。「女官のみなさん、最初は警戒されていましたけど、夏丞さまとお話しされたらあっという間に協力してくださって!」
「ああそう……」深玉は遠い目をする。「ご苦労さま」
その光景がありありと想像できてしまうことが悲しい。
「ずいぶんお疲れですね」
夏丞が
「進捗は?」
「あと一歩です。その資料が来るのを待ってました」
深玉が凛凛の腕の中にあるものに視線をやると、夏丞は「お役に立てればいいのですが」と微笑む。
「深玉さま、こちら蓉昭儀さまが奉納された皇太后さまへの
凛凛が作業台に濃紫の
「原本の写しとして
「十分すぎるよ。ありがとう」
「いえ。それではあたしは外に出てますから!」
指示したわけでもないのに、凛凛が筆録房をあとにする。十四という歳の割に、しっかりしている。己にはもったいないくらいの、よくできた小間使いだと思う。
深玉は巻子本を開く。中には先に崩じた皇太后への弔辞がしたためられている。
夏丞が書面を覗き込む。
「副本……写しということは、蓉昭儀本人の直筆ではないので鑑定用の資料として不適切なのでは?」
「通常はそうですが、今回は使えます」深玉は作業台に巻子本を広げていく。「こういった公的な書面の模写は、可能な限り本人の筆跡に寄せるよう、模写官には周知されているんですよ」
書き崩し方など特に、だ。
夏丞が深玉の隣へ、自ら椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。
「借りた資料だけでは不足があったのですね」
「不足といいますか、念のための確認です」深玉は手近にあった書きつけを引き寄せる。「遺書と借りた資料は、筆跡上はおおよそ一致しているんです。でも、それだけで真筆だと判断したくなくて」
この遺書には蓉昭儀の人生がかかっているのだ、生半可な判断は下したくなかった。
深玉は腑に落ちていない夏丞のために、もう少し噛み砕いてやる。
「蓉昭儀さまが公に見せるために書き残した、楷書の文章が見てみたかったんですよ。遺書も広義で言えば、誰かに見せるために書いた文章ですから」
つまるところ、私的な文書と公的な文書では書き癖が異なる人は多い。
「他人に見られると思えば、文字もより丁寧に書こうと思うのが普通でしょう?」
深玉がそう伝えると、夏丞がようやく納得し頷いた。
「では、深玉さんは悼詞でなにを確認しようと?」
「遺書に使われた漢字と同じ部首を探しています」
「と、いうと」
「都是我的錯,請原諒……これでいくと、おおざと、かねへん、ごんべんあたりですかね」深玉は悼詞を一字ずつ追っていく。「特に、ごんべんがあるといいんですけど……」
夏丞が同じように書面へ顔を寄せる。
「一緒に確認しましょう」
「それはどうも。部首は毎回書くので、個人の手癖がよく出るんですよ――あった、訓と言」
深玉は、『猶記訓言之溫(教えの温かさを今でも覚えています)』と書かれた文の中なら『訓』『言』を拾い上げる。ほかにも夏丞が『謹』『護』といった文字を見つける。
深玉は遺書と突き合わせて確認を取る。
並んだ文字の形をみて――深玉は確信する。
「……やっぱり、ちょっと違う」
「どこです」
深玉は夏丞にも見えるよう、遺書を写した蝋紙を悼詞の上に広げる。
「崩し方が違いますよね。遺書は点を省略して書いている」悼詞の『訓』を指す。「けど、悼詞の方は全て点を離して書いている。これは公的な文書でのあの方の書き癖だと思います」
深玉は他の字形も確認していく。
「ああ横線の繋げ方も、遺書とすこし違う。やっぱり、こっちが楷書での蓉昭儀さまの癖なんだろうな……」
やはり文字は嘘をつかない。いつだって書き手の――人の欺瞞が文字を騙るのだ。
運筆のかたさや遅さも、模写によるものだとすればすべて説明がつく。
夏丞が低く問う。「癖が違う、ということは、つまり」
「贋筆の可能性があるということです」
口にすると、その重みがずしりと肩にのしかかる。
深玉はゆっくりと続ける。「雪燕さんたちから借りた資料と遺書の筆跡は、ほぼ一致している。なのに、悼詞とは筆跡が一致していない……どういうことかわかります?」
「犯人は……」夏丞が顎に指を滑らす。「遺書を作成する際に、蓉昭儀の居室に保管されていた書きつけをもとに模写した?」
深玉は同意の意を込めて頷く。「対して、悼詞のような公的文書は、相当な理由がない限り閲覧できないはずです。気軽に手に入れられないぶん、犯人は遺書作成時に参考にすることができなかった」
夏丞が薄く笑う。「では、この偽の遺書は後宮内部の人間による犯行だと言えますね」
深玉は返答することができなかった。
蓉昭儀の居室に出入りすることができる人間ともなると、たしかに後宮内の人間に限られるだろう。しかし――そこまで踏み込んで思考してはいけないと、己の中で警鐘が鳴る。
人の内面をみようとする行為は、書をみるだけの仕事とはわけが違う。感情を傷つけられるかもしれない。そう思うと、一線は越えられないと思った。
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