始まりと菖蒲
クリヤ
(1)庭師とお嬢様
真っ青な空はアイリのスカートの色。
真っ白な雲は、アイリのブラウスの色。
最期に、神様ってやつが見せてくれているのかも知れない。
(ああ……、最期にもう一度だけ手紙を読みたかった……)
ショウタの脳裏に浮かぶのは、アイリとアヤメの花。
己の澱んだ人生に、寸の間、煌めいた思い。
もう二度とは会えない。
分かってはいるけれど、飲み込めない気持ち。
蒸し風呂のような暑さだというのに、ショウタは寒気を感じていた。
その体は、末端から少しずつ冷えていくようだった。
もうすぐ、すべての臓器はその動きを止めるのだろう。
それでも、ショウタは目を見開いていた。
あの夏の光景と似た空の青さと雲の白さ。
それを、その網膜に焼きつけようとするかのように。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「それは、なんていうお花かしら?」
後ろから急に聞こえた声に、ショウタは驚いて振り返る。
そこには、誰もいないはずだった。
しゃがんだまま振り返ったショウタの目には、屋敷の壁しか映らない。
キョロキョロとあたりを見回す。
「ここよ、上。上を見て」
屋敷の壁に沿って、視線を上げていくと小さな格子窓に気がつく。
眩しいほどの明るさに包まれた庭から見上げた窓は、暗くてよく見えない。
と、格子の間からにゅっと白い手のひらが現れて、ヒラヒラと動いている。
「ちょっと待ってて」
そう声が聞こえて、白い手のひらはスッと影の中へと引っ込んだ。
ほどなく、パタパタという足音が聞こえた。
音がしたほうを見てみる。
桃色の着物に身を包んだ若い女性が、こちらへ向かってくる。
庭の飛び石を渡るつもりのようだが、なんだか危なっかしい。
「あっ!」
案の定、その女性は体勢を崩して、前につんのめってしまう。
気がついた時には、女性はショウタの腕の中にいた。
「ごめんなさい! わたし、いつもこうなのよね」
「いえ……、足を怪我なさっていませんか?」
「ええ。なんともないみたい。
あなたのおかげね。ありがとう」
「オレなんかに礼など……」
「なぜ? 人に何かをしていただいたら、お礼をしないと」
「人って……」
「あなた、人じゃあないのかしら? もしかして、あやかし?」
「ははっ。いえ、たぶん人でしょうね」
「そう! それならやっぱり、ありがとうだわっ」
女性は、おそらくこの屋敷の娘だろう。
屋敷に住む人たちにとっては、庭師など、いても見えない者である。
ましてや、ショウタのような見習いは当たり前のように無視される。
もちろん、こちらから関わることも許されない。
「それでは、仕事がありますんで」
「……そうね。だけど、このお花の名だけ教えてくださる?」
「こいつは、アヤメですね」
「そう! わたし、このお花が好きなのよ」
「綺麗なもんですよね」
「ええ! ええ! そうなの」
「それじゃあ、オレは、失礼します」
「ちょっと待って! あの池のほとりに咲いているのもアヤメよね?」
「……いえ。そいつは……」
屋敷の表のほうから、女中が娘を呼ぶ声が微かに聞こえる。
「お嬢さま〜! どちらにいかれたんです〜?」
「ごめんなさい。わたし、戻らなくては。また、今度」
返事は期待していないのだろう。
くるりと背を向けると急ぎ足で去っていく女性の姿。
それを目で追ってしまった自分が、なんだか分からなくて。
ショウタは、その光景を消し去ろうとでもするように。
庭仕事へと己の意識を無理やり戻した。
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