シンメトリー
水月梟
笑顔
シンメトリー[symmetry]
読み方:しんめとりー
[名・形動]左右対称であること。左右の各部のつりあいがとれていること。また、そのさま。
———
季節は、秋から冬に差しかかろうとしていた。
僕はアスファルトの上に仰向けになり、空を見ていた。
空が、燃えるように赤かった。
秋の夕暮れはこんなにも静かで、こんなにも美しいのかと、仰向けのまま見上げていた。
あの夏の海で見た空とは違う。
眩しさではなく、胸の奥をじんわり焦がすような赤だった。
こんなに空を見上げたことが、あっただろうか。
右手の先には、血に濡れた包丁が転がっている。
僕はようやく、彼女から解き放たれたのかもしれない。
あの空の色みたいに真っ赤に——アスファルトを這うように、真っ赤な色が静かに広がっていく。
遠くで、人の騒ぐ声がする。
その奥に、救急車とパトカーのサイレンが混じり合って聞こえてくる。
目を閉じると、あの子が笑っている。
まぶたの裏で、静かに——
何も無かったように——
いつもの笑顔で笑っている。
———
倉庫のシャッター越しに、雨に濡れた光がぼんやりと差し込んでいた。
外では、しとしとと小雨が降り続いている。
倉庫の片隅にある簡易デスクで、僕はタブレットをいじりながら、作業マニュアルのレイアウト調整をしていた。
撮影した写真の色味を少し整えて、PDFに差し込む。印刷イメージを何度か確認して、静かにため息をついた。
現場の無線が、時折「了解です」と短く鳴る。遠くではパレットが積み上げられる音。
今日も、大きな変化はなかった。
真木悠人、二十七歳。
普通高校を卒業して、地元の情報系専門学校に通った。
パソコンやカメラの扱いには自信があったし、将来はそういう仕事に就けたらいいなと思っていた。
でも、就職はうまくいかなかった。
今は派遣社員として、SMLS(エスエムラインシステムズ)の物流センターにある情報システム課で働いている。
システムまわりのちょっとしたトラブル対応や、現場の記録写真の撮影、資料の作成なんかが主な仕事だ。
地味だけど、ちゃんと求められていることはわかっている。それだけで、少しだけ救われている。
「悠人、そのマニュアル、いつ上がりそう?」
声のする方を振り返ると、作業着の袖をまくった男がタブレットを片手に立っていた。
瀬戸陽一。正社員で、僕と同い年。
明るくて、要領もよくて、何より現場の人たちからの信頼が厚い。
同じ歳だけど、立場は違う。
それでも、陽一は昔から変わらずフラットに接してくれる。
「もうすぐ。あと数枚、写真差し替えたら送れると思う」
「オッケー。さすが悠人、助かる」
陽一は軽く笑ってから、ふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。今日からバイトの女の子一人くるから。事務所で研修終わって、午後から顔出すと思うよ」
「へぇ」とだけ返した。
「悠人——二十三歳だって。……手ぇ出すなよ」
「出さないって」
苦笑いしながら画面に視線を戻した。
陽一は笑って手をひらひら振りながら、「じゃあ、よろしく!」と軽く言って作業のほうへ戻っていった。
僕もタブレットを脇に抱え、倉庫の一角をあとにする。荷捌き場を抜けてバックヤードを通り、社内ITの作業スペースへ。鉄製のドアを開けた先、窓もない小さな一角に、僕の定位置がある。
椅子に腰を下ろしてひと息つき、タブレットの電源を入れる。気づけば、時計はすでに十二時をまわっていた。
引き出しからコンビニの袋を取り出し、中からおにぎりを二つとお茶のペットボトルを取り出す。鮭と昆布。いつもと同じ組み合わせ。
昼休みといっても、特にすることはない。スマホを見る気にもならず、話しかける相手もいない。なんとなく——タブレットを開いて、さっき撮ったばかりの写真を眺める。
急ぎの作業でもないし、午後に回しても問題はない。それでも、画面を見つめていると、つい手が動いてしまう。
包装をはがしながら、軽くレタッチを入れて構図を整える。おにぎりを口に運びつつ、自然と仕上げの作業に入り込んでいた。
撮影した写真の配置を微調整し、レイアウトを整える。テキストのフォントを一段落とし、余白を調整して最終確認。
作業用サーバにアップロードし、チャットツールで陽一宛に「マニュアル、アップしました」とだけ送信する。
もう、昼休みは終わろうとしていた。
扉が開いて、課長と女の子が入ってきた。
「真木、いいか。今日からバイトで来てくれることになった、長谷川美月さんだ」
「よろしくお願いします」
美月は小さく頭を下げた。
緊張しているというよりは、礼儀正しく落ち着いた印象だった。
「もう一人、主任がいるんだが、ちょっと体調を崩しててな。しばらく休むことになった。だから、長谷川さん、作業のことは真木に聞いてくれ」
「それじゃあ真木、頼んだよ」
そう言い残すと、課長は部屋を出ていった。
課長が出ていったあと、少し気まずい沈黙が流れた。
僕はイスから立ち上がり、軽く会釈する。
「真木です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
美月は落ち着いた口調で答えた。年下っぽさはあるけど、しっかりした印象だ。
再び、沈黙が流れる。
「えっと……今、うちの部署は課長と主任と僕の3人なんだけど、主任が体調崩してて、しばらくお休みなんです」
「そうなんですね」
「で、今は実質、僕ひとりで回してるんですけど……まあ、なんとかなるにはなるんです。とはいえ、掲示物やマニュアル作ったり、社内の資料を整理したりっていう細かい作業がけっこう多くて」
「なるほど、それでサポートって感じなんですね」
「そうです。で……一応聞いておきたいんですけど、PhotoshopとかIllustrator、Excelあたりって触ったことありますか?」
「はい、どれも一通りは使えます。学校でも少しやってましたし、前のバイトでもちょっとだけ」
「よかった。それなら助かります。今ちょうど業務マニュアルを直してるところなので、よかったら後で少し見てもらえますか?」
「はい、お願いします」
時刻は、十五時をまわったところ。
美月にはひと通り作業の流れを説明し終え、実際に操作してもらっている最中だった。
そんなとき——
「真木さーん!」
明るく通る声が、部屋の入口から響いた。
振り返ると、相沢沙耶が立っていた。
明るくて、誰とでもすぐに打ち解けるタイプ。
広報チーム所属の正社員で、社内でもちょっとした人気者だ。
「まだ、パソコンの調子おかしくてさぁ」
そう言って、沙耶は苦笑いを浮かべる。
「もう……メーカーに連絡してくださいよ」
僕が肩をすくめると、
「だって、メーカーより真木さんのほうが早いんだもん」
悪びれもせず、軽口で返す沙耶。
いつもこんな調子だ。
「……わかりました。じゃあ、あとで行きます」
「ありがと! お礼にコーヒーおごるー!」
そう言いながら、沙耶は軽く手を振って去っていった。
僕は一息ついて、美月の方に向き直る。
「……ちょっと、行ってきますね。続きは戻ったら一緒にやりましょう」
沙耶の部署は、同じフロアの奥にある広報スペースだ。壁際のデスクに座る彼女が、こちらに気づいて手を振った。
彼女はディスプレイを指差した。
「ここここ。なんか、さっきからこのソフトだけ開かなくてさ。固まるっていうか……」
「……なんのソフトですか?」
「名簿管理のやつ。さっきアップデート走った後からずっとこれ」
僕はモニターを覗き込み、タスクマネージャーを開く。
「プロセスには出てるんで、起動はしてるっぽいですね……。あー、これ、たぶんアップデートで依存ファイルかサービスがうまく動いてないパターンです」
「なるほど……なにそれ?」
「ちょっと設定いじりますね」
数分ほどレジストリや起動設定を確認し、回復ポイントを参考に一部設定を巻き戻す。
それから再起動をかけ、該当ソフトを開くと——画面に名簿の一覧が表示された。
「……はい、開きました」
「えっ、もう!? 何したの!? 魔法!?」
「いや、Windowsのご機嫌を直しただけです。おそらく大丈夫かと思います。」
「助かった〜! 真木さんさすが!」
沙耶はそう言って、ポケットから缶コーヒーを取り出し、差し出してきた
「ブラックしかなかったけど、大丈夫?」
「大丈夫ですよ、ありがとうございます」
缶コーヒーを受け取ると、沙耶はまるで悪気のない子どものような、いつもの笑顔を見せた。
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