ある過去の夕暮れ
「──記憶が、ない?」
トナリが落ち着いた表情でそれらを話すと、オレだけでなく、チカマやマヨコもひどく衝撃を受けたようだった。チカマの顔にショックの色が滲み始める。
「記憶がないってどういうことよ! おいトナリ! ちゃんと説明しやがれ!!」
「ちょっ……! チカマさん落ち着いて……!」
「落ち着けるか、この馬鹿マヨコ!」
理不尽な怒りを一身に受けるマヨコも酷く動揺していたが、それでも懸命に宥めていた。その甲斐あってか、なんとか平常心を取り戻したチカマは「で?」と先を促す。
先程まで怒りに震えていた肩がまだその余韻を残している。荒い息をなんとか整えようと、必死で深呼吸を繰り返していた。
「自分のこと。どこに住んで、普段は何をしているかまでは覚えているんだが──」
「だが?」
「裏の仕事と俺たちについてはサッパリだ。同じ建物に住んで、たまに皆で飲むくらいには仲が良いという認識だな」
チカマはがっくりと肩を落とし、近くに設置されているソファにどかりと腰を落とした。
ショックのあまり自分がヘビースモーカーであることすら忘れているようで、煙草のかわりに絡みつくような溜息が部屋全体に広がる。
その様子を横目で見ながら、トナリは静かに自分の煙草へ火をつけた。いつもと同じ、それがどうしたと言わんばかりの瞳が相手を射抜く。
「……それ、治るんすか?」
そんな態度に、どうやらマヨコも苛立ちを隠せないようだった。半ば睨みつけるよう言葉を投げかけると、トナリは「正直分からない」そう淡々と答える。
その言葉に再び立ち上がって激昂しかけたチカマだったが、奴は
「正直分からない、が俺は戻ると思う。相変わらず何があっても驚かないし、疑問を持たないところも変わってない。驚かなすぎてこっちが驚いてるよ。それに──」
「それに?」
「瞳がおりんちゃんだよ。きっと戻る」
戻る。普段では考えられないトナリの湿った声に、チカマは鼻をずずっと鳴らした。我の強い奴らが集まっているのだから、今日みたいにお互いがぶつかることは大して珍しくない。
「おりんちゃんはさ、俺らが口論してても仲裁する気なんてこれっぽっちもないんだよねえ」
楽しそうに煙を吐く姿に、先程の湿った声すら忘れそうになる。それでも、トナリの言葉が未だに重く深く響いている。
あれは皆の塞がっていた道に光がさした瞬間だった。
*
「おい、熱が出るなんて何年ぶりだよ。とりあえず、林檎持ってきたから剥いてやるわ」
「リンジー、次こそは玄関から来てね……」
なんとか体を起き上がらせて窓を開けると、そのまま這うようにベッドへ戻った。暑くて寒くて、体がだるくて仕様がない。こんな時はリンジーの冷たい手が心地良いのだよね。
「おりんのことだから、どうせ薬もご飯もとってないんだろ。林檎は? 食える?」
ぐらぐらと揺れる頭で数秒程考えると、ほとんど無意識に「すりおろしと……、固形も一切れくらいなら……」と呟いていた。
たしかに熱が出てからというもの、水分以外を口にしていない。
「あとで何か作ってやるから窓の鍵開けといて」
「だから玄関から来いと……」
車に轢かれて
服から露出したリンジーの入れ墨を焦点の定まらない目で見つめていると、彼は八割程磨ったあと、いつの間にか器用にもウサギ型の林檎を生成していた。
「うさぎさんだ」
体がだるいにも関わらず、頬は自然と緩む。出来上がったウサギは摩り下ろした林檎の海に溺れており、お皿の傍らには見覚えのあるナイフがあった。
「……それ、仕事用のナイフじゃないの?」
「洗った」
「あ、そう……」
洗い終えたナイフの水気を拭うと、彼は腰のホルスターに収納していく。洗ったならまあ良いか。それに、発熱しているのだからこれ以上悪くなることもないだろう。
「ありがとう」
そう呟くと、リンジーは私の肩に厚手のブランケットを巻いた。無駄に整った綺麗な顔を間近に見て、思わず溜息を吐く。
「なんだよ。ったく、皆心配してんだから早く治せよな」
「うん……」
「じゃないとチカマとトナリは突撃してくるし、マヨコも差し入れに人肉持ってくるかもしんねえぞ」
「リンジーは窓から来るもんね……」
けらけら笑う姿を見ながら林檎を齧ると、彼は「大丈夫だよ」と呟いた。何に対しての大丈夫なのか。でもリンジーが大丈夫というなら、きっと大丈夫なんだろう。
瑞々しさを残したウサギは熱い体に広がっていき、それは驚くくらいよく染みた。
*
「ちーちゃん、タバコ吸いすぎ」
「ちーちゃんは良いんですー。ほら、こっちおいで。髪梳かしてあげるから」
「もう!」
「チーカマさん、自分の髪も梳かしてくださいよ」
「おう、やってやるからバリカン持ってこいよ」
「それは梳くとは言わねえす」
「えー、俺にもおりんちゃんの髪の毛梳かせてよお。俺、女の髪なんて血のついたもんしか触ったことないもん」
「おりんの髪触ったら、予備の眼鏡ぜんぶ叩き壊してやるからな」
「ええ……? 皆して眼鏡への殺意高くない……?」
「トナリさん。おりんさんじゃなくて、チーカマさんでも良いんじゃないすか?」
「えー? なんか髪硬そう」
「殺すぞ」
「おりんちゃん、チカマが怖いよお」
「あは。トナリさん嬉しそうだね」
「ええ……? フィルター、バグりすぎでしょ」
「おりん」
「なに? リンジー」
「こっちおいで」
「えー、めんどくさい」
「んじゃ、これ。次の依頼きたから、後で確認しといて」
「今度は誰?」
「政治家」
「あーん、おりんを連れてかないでよー」
「その死姦野郎に生きた人間の扱い方でも教えとけ」
「無駄よ、無駄。眼鏡のレンズでも抜いてあげた方がよっぽどタメになるんだから」
「どういう理論……?」
「おりんさん、どうやったらチーカマさんみたいな猛獣が手懐けられるんすか?」
「喧嘩売ってんのかクソガキ」
「わあこわい」
「手懐け方? んー、勢いだよ。勢い」
「なんにも分からないすね」
「じゃあ、おりんちゃん。仕事終わったら一緒にご飯でも行こうよ」
「おいチカマ。トナリの予備眼鏡どこあんだよ」
「天板がガラス仕様のセンターテーブルの中」
「ええ……? 何で知ってんの……?」
*
愛しい記憶。生ぬるい血液に浸ったような、どうしようもなく優しい現実だ。誰一人として記憶の消えた私を責めたりせず、何も隠したりしなかった。
時折寂しそうな表情をするだけで、ただただいつも通りに、ただただいつもと同じように。
踏み潰す死体は日に日に増え、それがいつしか山になる。私たちが笑って過ごす世界の裏では、蝿と蛆がいつだって湧いていた。それでも、この世界は異常なんかじゃない。
人の不幸に成り立つ幸せが長く続かないことくらい分かっていた。むしろ、十年以上続けられていることが奇跡的なくらい。
こんな世界に意味があるのかと聞かれれば、それは大いに意味がある。少なくとも私にとっては。
側頭部に手をやると、相変わらずそこにはミミズ腫れのような線が存在している。表面が滑らかで、指先にあたる感触は心地よい。
きっといつかは終わってしまう。そのいつかが来てしまっても後悔なんてしない。私たちはこの生ぬるい血液の中を誰一人欠けることなく、いつか一緒に沈んで行くのだから──。
*この作品はフィクションです。実在の人物・団体・出来事とは一切関係ありません。
*また、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
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