夕方のマヨコくん
太陽を漸く正面に見据えられるようになってきた頃、私は重くなった車を走らせて何とか家に帰ってきた。家までの道を走っていく中、頭はがんがんとオーケストラを奏でている。
車と部屋の往復をなんと三往復はしたものの、意外や意外。吐く程でもない為、いつも通りの錠数を水で流し込む。
「つっっかれたあ」
消耗品や頭痛薬の買いまわりに加え、普段の倍のお肉と野菜を購入していたらこんな時間になってしまった。
そうやって今日分を冷蔵庫にしまい込み、残りを冷凍ストッカーに入れようと蓋を開けたところで、中の頭と劇的な対面を果たした。
「忘れてた」
そうだった。派手なワンピースの人がいたんだった。
私は一度蓋を閉め直した状態で黙考すると、お肉をジップロックで二重にしたものを何個も生成し、再びストッカー内に突っ込んだ。まあ、冷凍だし大丈夫でしょう。
そうして机上の灰皿と煙草を手にとると、窓からベランダに出やった。住んでいる場所が高台に面しているだけあって、此処からの眺望はとても良い。眼下に広がる町並みに、うんと遠くに見える海。
立地上冬に近付く程此処は寒くなるが、上着を羽織ればそう気にはならない。
私はベランダに置いてある屋外用のソファに腰をかけると、緩慢な動作で煙草に火をつけていく。柱建式のおかげで座っても景色がよく見えた。
太陽は徐々に地平線へと近付き、空全体を仄かな朱色に染めていく。今日は買い物で忙しかったけど、こんな風に何もない時間を過ごせるなら上々というものだ。
そんなことを考えながら肺に溜めた煙をゆっくり吐き出すと、一陣の風が何処かの部屋から服を運んできた。
咥え煙草に無言で拾いに立ち上がると、なんとも変わったTシャツが目に飛び込む。
「マヨコくんかな」
彼は確か変なTシャツを集めるのが好きだったはず。見上げると、205号室にだけ洗濯物が干されていた。
一階のベランダは二階のベランダよりも若干迫り出しているせいか、風で洗濯物が落ちてくることはそう珍しくもない。
「仕方ないなあ」
私は多少の面倒くささを覚えつつも、吸殻の入った灰皿を流し台に置いて205号室のチャイムを鳴らした。中に人の気配はするものの、どうやら応答するつもりはないようだ。
「マヨコくん? うち、一階のおりんだけど。Tシャツ降ってきたから、後で袋に入れてドアノブに引っ掛けとくね」
そう言い自分の部屋へ戻ろうとした瞬間、背中に「おりんさん?」と声がかけられた。
「なんだ。やっぱりいるんじゃん」
「自分は基本いますでしょ。でも、今忙しくって片手しか離せないんすよ。一人っすか?」
「うん」
「じゃあ今開けるんで、ちょっと待っててください」
片手は開いてるのか、と思っていると、鍵がかしゃんと開かれる乾いた音がした。中から「どうぞ」と促される。
「お邪魔しまあす」
玄関扉を閉め施錠すると、室内は思っていたよりも薄暗かった。お鍋で何かの花でも大量に煮ているのか部屋には甘い香りが漂い、そしてそれに混ざり何とも言えない臭いが鼻腔をさした。
マヨコくんは台所で作業をしていたが、目隠し用の家具により横顔しか見えない。
それでも、ばちばちに開けたピアスホールに自然と目がいく。また増えたかな? 彼は顔だけをこちらに向けて「いつもうちの服がすんません」と申し訳なさそうに言った。
「今度美味しいケーキでも買ってきますから」
「それなら毎日落としてもいいよ」
「ははは。とりあえず、服は奥の部屋にでも投げちゃってください」
私は軽く頷いてからリビングに上がると、上がったことで家具の向こうにいるマヨコくんがよく見えるようになった。
彼は服の前面が血でべっとりと汚れており、まな板には肘から下の腕がごろんと転がっている。なんて非日常的光景だろう。
「腕、だね?」
「ああ、これは昨日来た──、そっか。おりんさんは忘れちゃうんだよね」
「?」
「そうだな。じゃあ、おりんさんがもし身体のパーツを手に入れたら、自分にくれません? もちろん内臓以外で。あ、鮮度は気にしませんし、血抜きはどちらでも。骨は後でお返ししますんで」
身体のパーツって、そんな頻繁に手に入るものだっけ? というか、骨も別に返さなくていいんだけど……。まあ、いいかなんでも。
「そんなの手に入れてどうすんの?」
「どうするって、マニアに売る以外は食べますよ。あんまりにも酷い状態だったら、豚に喰わせますけどね」
「鮮度良くないと美味しくないんじゃない?」
「自分は臭みやエグみがある方が好きなんすよ」
「ふーん?」
そう言いながら、マヨコくんは血のついていない指で台所の電気をぱちりとつけた。
両耳のピアスが光に反射してキラキラしているし、肉と骨を切り離していく様は、なんだか惚れ惚れするような手つきだった。
私は奥の部屋にTシャツを置くと、今度は玄関扉を解錠する。彼の部屋は全体的に雑多な印象なので、良くいえば実家のような安心感があった。
「おりんさんって面白いですよねえ。普通はこういう時叫ぶんすけど、覚えてなくても動じないないんだから全く敵いませんよ」
彼はくつくつと笑いながら、氷の上に乗せてあった別の腕をまな板にのせていく。よくよく見れば、掃除がしやすいようコーティングやシートがひかれているではないか。じゃあ、あの煮詰めていた花は匂い消し用だろうか。
「マヨコくん、それって新しいピアス? 可愛いね」
「あざす。まあ、こういうのはおりんさんのが似合うんすけど、おりんさん開けさせてくれませんからね」
「これ以上あけたら会社に怒られちゃうよ。それより、ケーキ忘れちゃだめだよ」
「おりんさんの為なら幾らでも。だからおりんさんも忘れないで」
「? うん」
私は軽く手を振ると、開けた扉を素早く閉めた。マヨコくんの寂しげな顔が目眩になって降りかかる。「なんで私は──」そう言いかけて、すぐに何を思っていたのか忘れてしまった。
外は随分と暗く、太陽は既に海に沈んだ後のようだ。ひんやりとした風がなんとも気持ちよく、背中越しに聞こえる乾いた施錠音すら穏やかな気にさせる。
お腹も減ったし、今日ははやめにお夕飯を食べよう。私は階段を下りながら煙草に火をつけると、自宅である102号室のにおいにほっとしたような気持ちになった。
*この作品はフィクションです。実在の人物・団体・出来事とは一切関係ありません。
*また、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
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