おりんの朝 壱


「さぶ……」



 寒さに身をよじりながら目を覚ますと、仄明るい部屋がぼんやりと視界に入ってきた。朝方の部屋は全てが薄いスモークブルーに包まれ、その中で殺人的な明るさの携帯が私の目を潰している。


 時刻は六時前。仕事が休みでも、結局はいつもと同じ時間に起きるんだよね、とげんなりした。


 肩口をぽりぽり搔きながら身体を起こすと、予報通り朝方は冷え込んでいた。季節は十一月も終わりだというのに、面倒くさいからという理由で未だに厚手の布団を出さずに過ごしている。



 とにかく、今日こそは布団を出さないと。私はソファにかけてあったカーディガンを羽織ると、お湯を沸かす為にリビングの扉を開けた。悩みの種の頭痛が顔を出していないこともあり、気持ち的には随分と楽だった。



「あ、」



 扉を開けてすぐ、私はこちらに背を向けて垂れ下がっている首吊り死体を見た。リビングの窓から射し込む光で、まるで後光がさしているかのようだ。



「すっかり忘れてた」



 ヤカンに水を入れながら、そういえば、と昨日のことを思い出す。頭が痛すぎてそのままにしておいた死体は、一晩経っても消えてはいない。どうしたもんかなあ。そう思いながら、沸騰したお湯をインスタント珈琲用のカップに注いでいった。


 私は珈琲を一口啜りながら、下からその死体を見上げる。首が異様に伸びてはいるものの、鬱血は大して見られない。だが、幾ら頭の中で過去の人物フォルダを開いてみても、その女性を見た記憶は一度もなかった。


 昨晩の死にそうな状態でも思ったが、この人は一体誰なんだろうか。そしてこの状況にも驚かない私自身、なんだかそれが当たり前にも思えた。



「とりあえず、コレ下ろさないとなー」



 私は半分程飲み終えた珈琲カップをシンク横の作業台へ置くと、自分の部屋に取って返した。入ってすぐのウォークインクローゼットは二畳程の広さがあり、服や工具に書類など、とにかく雑多なものが山になっている。


 私は大きめの工具箱からロープカッターを取り出すと、再びリビングに舞い戻った。


 これは以前船を持っている101号室の人に「よく切れるから持っていて損はない」と押し付けられ、まあ確かに。思ったより役に立ちそうなことに、今現在驚いている。


 この建物はどの部屋も梁見せ天井になっていて、高さ自体は普通の賃貸と変わらないのに、梁が見えてるせいで圧迫感がなく広く見える。



「よっこいしょ、っと」



 リビングの死体は、その梁に縄を結んで吊るされていた。私はダイニング用の机を近くまで引き寄せると、それを足場に縄を切り始める。


 切りながら縊死にしては床が綺麗だなと思っていたが、どうやらこの女性自身でそれ相応の対策をしてから自殺に臨んだらしい。有難いことだ。いや、自殺の時点でそうでもないか。


 そんなことを考えていたら、思ったよりもロープカッターの切れ味が良かったようで、落ちないよう左手で掴んでいたロープに突然死体の重さが加わり、私は反射的に手を離した。




 ダァン───ッ




「あ、ごめんね。落としちゃった」




 朝の早い時間のせいか、派手な音が辺りに響き渡る。梁に巻き付いた残りの縄をとると、私はのそのそと机から下りた。


 死体は落ちた衝撃で足首がおかしな方向に曲がっていたが、私は皆が目を覚まさないかが心配だった。


 冷蔵庫の横には、実家から持ってきた大型の冷凍ストッカーが鎮座している。居住地が辺鄙な上に時折健啖家けんたんかになる私には、このストッカーの存在は大変有難い。


 私は残った冷凍品をストッカー横の冷蔵庫、──これまた大型の、にしまうと、料理用に買っていたニトリルゴム手袋をはめて死体に触れた。


 死後硬直し始めて何時間になるかは不明だが、さすがにこのままではストッカーに入らない。暫く考えあぐねた末に死体をうつ伏せにさせると、腕で押さえつけて自分の全体重を関節にかけた。




 ゴキン、




「悪いけど、あと五回は折るからねー」




 バキ、




 関節を折る度に腕に振動が走る。じょじょに人間の関節がマリオネットのような可動域にかわり、大きなゴム人形へと変貌を遂げていく。


 その後汚れないようストッカー内にビニールを貼り合わせていくと、死体を持ち上げて収納していった。やたらと派手なワンピースが視界いっぱいに広がるので、目がチカチカして仕様がない。



「あっっつ」



 こんな時間に此処まで汗をかく必要があるのだろうか。私はストッカーの蓋を乱暴に閉めると、手袋をその辺に放り捨て、昨晩の洗濯物を洗濯機から取り出した。


 綺麗になったとはいえ、仕事着はやはり仕事着のにおいがする。私は先程まで着ていた服を全て洗濯機に放り込むと、その足で熱いシャワーを浴びにいった。


 浴室は一瞬で湯気の世界で何も見えなくなり、とても心地が良い。今日はせっかくのお休みだというのに、なんだか忙しそうだ。


 ゴミ袋に足りない工具、食品や日用品の買い出しもしないと。ああそうだ。あとは薬に煙草もカートンで買って、それに布団! そうだ布団も出さないと。洗濯も……、あ、運転ボタン押すの忘れてた。ああもう───。



「めんどくさい」



 お湯にかき消されるくらいの声で呟きながら、私は頭から熱いシャワーを浴び、少しの間だけ穏やかな時間を堪能していた。


 脳裏にちらつく姿にハッとしたような気持ちになるが、気がつけばそれも方方へ散ってしまったようだった。






*この作品はフィクションです。実在の人物・団体・出来事とは一切関係ありません。

*また、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る