ハウスレスナイト

もちうさ

第1話 ホームレス、夜の街へようこそ

 目が覚めたら、家がなかった。


 硬い地面に背中を打ちつけた感覚で目を開けると、見知らぬ街が広がっていた。

 空は茜色。夕陽に染まるその風景は、どこか作り物めいていて、現実味がない。


 「人生は二度ある」──誰かが言っていた気がする。

 でも、俺に与えられたもう一度は、どうやらその類のものじゃない。


 チートも、ステータス画面も、親切な案内役もない。

 代わりにあるのは、ブルーシート、段ボール、それと──不気味な静けさ。


 言葉は通じる。看板も日本語だし、電柱の形だって見覚えがある。

 でも何もかもがズレている。妙に整いすぎた街並み。塵ひとつ落ちていない道路。濁りのない空気。

 綺麗すぎるがゆえの、異様さ。


 けれど──もっと異常なのは、夜だった。


 転がる空き缶を払いのけながら、俺は頭を抱えた。

 ほんの数時間前まで、普通に働いていたはずだ。

 コンビニのバックヤードでカップ麺をすすり、スマホをいじり、次のシフトのことを考えていた。


 それが気づけば、街角の植え込みの前で、泥だらけになって立ち尽くしている。


 服はボロボロ。ポケットの中は空っぽ。スマホも財布もない。

 唯一まともなのは、なぜか足に履かれていた新品のスニーカーだけ。


 (夢じゃない。これが現実だってのか……?)


 そう思うたび、心臓の鼓動がひとつ強くなる。

 息苦しさが喉に迫ってくる。


 とにかく歩くしかなかった。

 住宅街を抜け、見覚えのない大通りを渡り、シャッターの降りたショッピングモールを横切る。


 この街はどこかがおかしい。

 いや、何かが足りない。


 ──人だ。


 確かに、昼間はいた。

 通学途中の子ども、犬を連れた老夫婦、スマホに夢中なサラリーマン。

 誰もがそれなりに生きていた。


 だけど、午後五時を過ぎたあたりから、急激に人の気配が消えはじめた。

 六時には、道行く人とまったくすれ違わなくなった。

 七時には、車すら走らなくなった。


 そして、午後八時。


 目の前のアパートの一室──

 最後に灯っていた、窓の明かりが、ふっと消えた。


 まるで合図のように。


 (……なにこれ。なにが起きてる)


 立ち止まった瞬間、首筋を冷たいものが撫でていった。

 本能が、警鐘を鳴らす。


 ──ここにいちゃいけない。


 理由なんてわからない。ただ、その場に立っていること自体が命取りになる。

 そんな感覚が、脊髄からじわじわと這い上がってくる。


 でも、どこへ行けと言う?


 俺には家がない。

 鍵も金も、誰かに助けを求める術すらない。


 夜の帳が降りる。

 空に浮かぶ月が、不気味なほど白く輝いている。


 そして──


 世界が止まった。


 風がやむ。

 虫の声が消える。

 街から、音という音が一斉に間引かれたように静まり返る。


 ズル……ズル……ズル……


 何かが、這っている。


 どこからともなく、ぬめるような、ねっとりと湿った音が響く。

 まるで肉を引きずっているような、不快で、異質な音。


 (……来た)


 反射的に、植え込みの陰に身を滑り込ませる。

 全身が勝手に動いた。理屈じゃない。脳の奥、もっと古い場所が叫んでいた。


 ──動くな。息を止めろ。見られるな。


 音が近づく。

 ビルとビルの隙間──黒い影が、ゆっくりと這い出してくる。


 それは黒かった。異様に細長く、骨のような四肢をしていた。

 顔には目も鼻もない。ただ、皮膚の中で何かが呼吸しているように、かすかに波打っている。


 それは、まっすぐ目の前の一軒家に向かって這っていった。


 玄関のドアが、わずかに開いていた。


 ほんの数センチ。それだけ。


 だけど、それは見逃さなかった。


 細長い指が音もなく隙間に滑り込み──

 ぞっとするほど静かに、扉が開いていく。


 中から、一瞬だけ、悲鳴が聞こえた。


 すぐに、それはかき消えた。


 ──次の瞬間、それの姿はもうなかった。


 (……見ちゃいけなかった)


 歯を噛みしめ、目を閉じ、ただ身を縮める。

 心臓がうるさい。呼吸の音すら、恐ろしい。


 そのまま、夜が明けるまで、ただひたすら、震えていた。


 そして──気づく。


 俺は、モンスターが現れる世界に放り出されたんだ。


 しかも、よりによって──ホームレスとして。

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