第二部

第9話:不穏な波動 - 賢者の予見と警告

 司令室の重い扉が閉ざされた後も、田中大将と佐藤外務大臣の間に沈黙が続いた。時雨悠真が持ち込んだ「核兵器」という言葉は、彼らがこれまで築き上げてきた世界の常識を、根本から揺るがすものだった。田中大将は、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。その破壊力が、これまでの日本の戦果を一瞬で無に帰す。その恐怖は、これまで経験したどんな戦場の比でもなかった。佐藤外務大臣は、外交官としての冷静さを保とうと努めたが、その表情には深い苦悩が刻まれていた。


「……賢者殿の言葉は、信じがたい。だが、彼がこれまでもたらした奇跡は、疑いようのない事実だ」


 田中大将が、絞り出すように呟いた。声には、まだ微かな戸惑いが滲んでいた。しかし、時雨が示す情報と、彼の確信に満ちた眼差しは、彼らの「信じたくない」という感情を打ち砕くには十分だった。二人は、国家の存亡に関わるこの未曾有の脅威に対し、時雨の指示に従い、水面下でアメリカの核開発を妨害する秘密工作『オリオンの暗号』を開始することを、重々しい決断と共に承認した。


 その頃、遥かアメリカ大陸の、極秘に建設された研究施設では、日夜、世界の運命を変える研究が続けられていた。肌を刺すような高圧電流の唸り、金属が擦れ合う微細な音、そして化学薬品の刺激臭が、実験室を満たしていた。マンハッタン計画の中核を担う若き天才科学者、アダム・フォックスは、連日徹夜で実験データを睨んでいた。彼の研究室では、数週間前から不可解なトラブルが頻発していた。高純度ウラン試料の微量な消失。精密な測定器が示す、原因不明の「誤差」。彼はそれらの現象に、強い違和感を覚えていた。それは、彼の理性が「ありえない」と叫ぶにもかかわらず、確かなデータが示す現実だった。


「またか……なぜ、こんなことが起こる?」


 フォックスは、自分の解析結果と実際のデータとの間に生じる僅かなズレに、苛立ちを隠せない。彼の科学者としての信念が、「説明できないこと」を許さなかった。彼は、これらの「エラー」が単なる機器の故障や人的ミスでは説明できないことに気づいていた。まるで、見えざる手が実験を弄んでいるかのようだ。彼は周囲の同僚たちが「単なる不良品だ」と一笑に付すのをよそに、膨大な実験データの中から、不自然な規則性や微細なエネルギーの揺らぎを検出し始めた。彼の脳裏に、「何か」が動いているという強い直感が芽生え始めていた。それは、彼の理性とは異なる、研究者としての深い部分から湧き上がる衝動だった。


 時雨は、日本から魔導探知能力でアメリカの核研究施設を「観測」していた。彼の意識は、ロスアラモスやオークリッジといった場所の奥深くまで届き、ウラン精製工場の稼働状況や、核物質の輸送ルートを正確に把握する。彼は、特定のウランやプルトニウム試料に対し、空間を歪ませる未知の力を加え、微量ながらも消失させたり、重要な実験装置に不可解な干渉を加えることで、意図的にトラブルを引き起こした。それは、核開発の進行を遅らせるための、見えざる妨害工作だった。時雨の唇の端に、かすかな笑みが浮かぶ。


 アメリカでは、原因不明のトラブルが続発した。原子炉の出力が不安定になったり、ウランの精製量が計画よりも減少したりする。計画責任者たちは、設計ミスや技術的な問題、あるいはソ連のスパイ活動を疑い、頭を抱えていた。開発スケジュールは遅延し、完成は遠のく。しかし、その真の原因が、遥か太平洋の向こうから干渉してくる「賢者の力」であるとは、彼らは夢にも思わない。彼らの無線からは、困惑と苛立ちが混じった報告が飛び交っていた。「原因不明の誤差が頻発しています!」「また試料が規定量に足りません!一体、何が起きているんだ!?」


 アダム・フォックスは、その全ての異常データを独自の視点で分析し続けていた。彼は、これらが単なる偶発的なエラーの集合体ではないことを確信し、ある種の「パターン」を見出し始める。微細なエネルギー変動の痕跡、空間の歪みを示唆する測定値……。彼の狂気にも似た探求心は、遂に、その力の源が「生きた知性」によるものである可能性へと肉薄していく兆候を見せ始めた。フォックスの瞳には、謎を解き明かそうとする執着の炎が燃え盛っていた。彼は、この未知の現象を突き止めることが、自身の科学者としての存在意義であると確信し始めていた。


 時雨は、アダム・フォックスの存在と、彼の天才的な分析能力を魔導探知で捕捉していた。フォックスが自身の妨害工作の痕跡を執拗に追っていることに、時雨はわずかながらも焦燥感を覚えた。彼の冷静な思考は、フォックスの天才的な分析能力が、いずれ核兵器の完成を早めかねないと警告する。単なる妨害では、時間稼ぎにしかならない。賢者の内では、単なる妨害ではない、より高度で、そして根本的な戦略の練り直しが、静かに始まっていた。彼は、この目に見えぬ「天才」との戦いが、核兵器を巡る新たな局面へと突入することを予感していた。

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