あぁ、私のご主人様
@Zarin
第0章「ただいまを待つ人」
「私、あなたのメイドになります…!」
それは、ある少女の、運命を決めた誓いの言葉。
――時計の針は既に午後十時を回っていた。
水無瀬澪(みなせ・みお)は居間のソファに腰を下ろし、膝の上で組んだ手をじっと見つめている。白いエプロンの端を無意識に指でなぞりながら、時間の経過を肌で感じていた。テーブルの上には、とうに冷めてしまった夕食が、まるで時が止まったかのように静かに佇んでいる。湯気の立たなくなったスープ、艶を失いかけた白米、丁寧に盛り付けたはずの料理も、今では単調な色合いに変わってしまっていた。
それでも澪は、料理を片付けようとは思わない。もしかしたら、ご主人様がお帰りになった時にお腹を空かせていらっしゃるかもしれない。その時に何もお出しできないのは、メイドとして、そして澪個人としても耐え難いことだった。
ご主人様は、今日もまだお帰りにならない。
いつものことだった。澪にとって、夜遅くまでご主人様の帰りを待つのは、もう何年も続く日常の一部である。高校生の頃からずっと、こうして待ち続けてきた。最初の頃は、まだ制服姿で宿題を広げながら待っていたものだ。あの頃の自分も、今と同じようにご主人様のことを心配していたのだろうか。
けれど、今夜はいつもより遅い。普段なら九時半頃にはお帰りになることが多いのに、既に十時を過ぎている。そのことが、澪の胸に小さな不安を宿らせていた。もしかしたら、お仕事で何かトラブルがあったのかもしれない。それとも、お体の調子でも悪いのだろうか。
「お疲れでいらっしゃるのでしょうね」
澪は小さくつぶやくと、無意識に右手で髪の一房をくるくると指に巻きつけた。母から受け継いだ癖だった。母も、心配事がある時や深く考え事をしている時、同じように髪を指に巻いていた。澪が小さい頃、母のその仕草を不思議そうに見つめていたことを、今でもよく覚えている。
「澪も大きくなったら、きっと同じことをするのよ」
母がそう言って微笑んでいた顔が、ふと脳裏に浮かんだ。本当にその通りになってしまった自分を、母は天国でどんな気持ちで見ているのだろう。不安な時や考え事をしている時、澪の指は自然と髪を求める。今夜も、その仕草が何度も繰り返されていた。
壁に掛けられた時計が、静寂を破るように時を刻んでいる。それは澪とご主人様が一緒に選んだ時計だった。澪がメイドとして働き始めて間もない頃、「家らしい時計が欲しいな」とご主人様がぽつりとおっしゃったのがきっかけだった。二人で家具店を回り、澪が「これはいかがでしょうか」と提案したシンプルな木製の時計を、ご主人様は「澪が選んでくれるなら」と迷わず購入してくださった。
あの時の嬉しさを、澪は今でも鮮明に覚えている。自分の意見を尊重してくださったこと、一緒に選んでくださったこと、そしてその時計が今もこうして、二人の時間を刻み続けていること。
澪はその音に耳を澄ませながら、ご主人様のことを思った。今頃はきっと、まだオフィスで書類と向き合っていらっしゃるのだろう。あの集中した横顔で、眉間に小さなしわを寄せながら。ペンを持つ手が疲れて、時々肩を回していらっしゃるかもしれない。
そんなご主人様の姿を思い浮かべると、澪の胸は切なくて温かい何かで満たされた。同時に、申し訳なさも込み上げてくる。自分のせいで、ご主人様にこんなに無理をさせてしまっているのではないか。もし自分がいなければ、ご主人様はもっと楽に生活できるのではないか。
そんな思いが頭をよぎる度に、澪は首を小さく横に振る。いけない。そんなことを考えてはいけない。今の自分にできることは、ご主人様がお帰りになった時に、少しでも心安らぐ時間を提供することだけなのだから。
澪は立ち上がると、キッチンへ向かった。コンロの前に立ち、そっと火をつける。既に作り置きしてある料理を、もういちど温め直すのだ。何度目かも分からない作業だったが、澪の手つきに迷いはない。ご主人様がお帰りになった瞬間に、温かいお食事をお出しできるように。それが澪の、小さなけれど大切な役目だった。
鍋からほんのりと湯気が立ち上る。澪はその様子を見守りながら、今日一日のことを振り返った。朝、ご主人様をお見送りした時の表情は、いつもより少し疲れていらっしゃるように見えた。肩の線も、ほんの少しだけいつもより下がっていた気がする。
もしかしたら、お仕事で何か大変なことがおありなのかもしれない。澪にはそれを直接お聞きすることはできないけれど、せめて家に帰った時くらいは、ゆっくりしていただきたい。そんな想いを込めて、澪は今夜も待ち続けている。
コンロの火を止めると、澪は再び居間に戻った。時計を見ると、十時半を過ぎている。少し心配になった澪は、携帯電話を手に取ろうとして、すぐに思い直した。ご主人様がお忙しい時に、自分が連絡をしては迷惑になってしまう。澪は電話を元の場所に戻すと、またソファに腰を下ろした。
待つことに慣れているつもりでも、やはり心配になる夜もある。今夜がまさにそうだった。いつもなら、澪は待っている時間を読書や家事で過ごすのだが、今夜はなぜか本を開く気にもなれず、掃除をする気力も湧かない。ただじっと、ご主人様の帰りを待っているだけだった。
ふと、澪は自分の胸に手を当てた。鼓動が、いつもより少し早い気がする。それは不安のせいだけではない。ご主人様に会える期待感も、確実に混じっている。一日の終わりに、あの優しい声で「ただいま」と言っていただけること。疲れた表情に、ほんの少しだけ安堵の色が浮かぶのを見ることができること。澪にとって、それは何にも代えがたい幸せな瞬間だった。
時計の針が十一時を指そうとした時、玄関の方から微かな音が聞こえた。澪の心臓が、一瞬強く跳ねる。耳を澄ませると、確かに鍵の音が聞こえる。
「お帰りなさいませ」
澪は立ち上がると、急いで玄関へ向かった。足音を立てないよう、でも急ぎ足で。胸の奥で何かが弾けるような感覚があった。やっと、やっと帰っていらした。
玄関のドアが開く音と共に、見慣れた背中が現れる。神崎悠真(かんざき・ゆうま)――澪にとって何よりも大切なご主人様だった。澪は自然と笑顔になった。心配していた気持ちが、安堵と喜びに変わっていく。
「お疲れさまでございました」
振り返ったご主人様の顔を見て、澪の胸が少し痛んだ。やはり、とてもお疲れのようだった。目の下に薄く影があり、普段ならまっすぐな肩の線も、今夜は重そうに見える。
「遅くなって、すまない」
ご主人様の声は、いつもより少しかすれていた。澪は首を小さく横に振る。
「とんでもございません。お夕食、すぐにお持ちいたします」
澪はご主人様のコートを受け取ると、丁寧にハンガーにかけた。その間も、ご主人様の様子を横目で気にかけている。今夜は特に、お疲れが溜まっていらっしゃるようだ。
「すみません、少しお待ちください」
澪はそう言うと、急いでキッチンに向かった。先ほど温め直しておいた料理を、手早くお皿に盛り付ける。湯気の立つスープ、柔らかく煮込んだ肉じゃが、ご主人様がお好きな卵焼き。どれも、ご主人様の疲れた体に優しい味付けになっている。
お盆に載せてダイニングテーブルに運ぶと、澪は少し離れた場所に立った。ご主人様がお食事をされる間、澪はいつものように、何かお手伺いできることはないかと気を配る。お箸が足りているか、お味はいかがか、飲み物のおかわりは必要ないか。
けれど、あまり近くにいてはご主人様もお疲れになってしまうかもしれない。澪は適度な距離を保ちながら、それでもご主人様の様子に注意を払い続けた。
「美味しい」
ご主人様がぽつりとそうおっしゃった時、澪の胸に温かいものが広がった。どんなに疲れていても、澪の作った料理を美味しいと言ってくださる。それがどれほど嬉しいことか、ご主人様はご存知ないだろう。
「ありがとうございます」
澪は深く頭を下げた。その時、ふと気づく。ご主人様は今日、まだほとんどお食事を召し上がっていないのではないだろうか。お箸を持つ手が、いつもより少し震えているように見える。
心配になった澪は、そっとキッチンに戻り、温かいスープをもう一杯用意した。栄養のあるものを、もう少し召し上がっていただきたい。そんな想いから、澪は無意識のうちに行動していた。
「こちらもいかがでしょうか」
澪がスープを差し出すと、ご主人様は少し驚いたような表情を見せた。そして、小さく微笑む。
「ありがとう」
その微笑みを見た瞬間、澪の胸の奥で何かが溢れそうになった。こんなにお疲れなのに、自分に微笑みかけてくださる。澪にとって、それはどんな言葉よりも嬉しいことだった。
食事が終わると、澪は手早く食器を片付けた。ご主人様には、もうゆっくりお休みいただきたい。そんな気持ちで、澪はいつもより静かに、でも手早く後片付けを済ませる。
「澪」
振り返ると、ご主人様がソファに座ってこちらを見ていた。
「はい」
「紅茶を、いただけるかな」
澪の心が、ぱっと明るくなった。お疲れでいらっしゃるのに、まだ起きていてくださる。澪との時間を作ってくださろうとしている。
「すぐにお持ちいたします」
澪は急いでキッチンに向かった。紅茶の準備は、澪にとって特別な意味を持つ時間だった。母から教わった通り、丁寧にお湯を沸かし、ポットを温める。茶葉の香りが立ち上る瞬間、澪は目を閉じてその香りを楽しんだ。この習慣も、母から受け継いだものだった。
そして今では、この紅茶の時間は澪にとって更に特別な意味を持っている。以前、澪が落ち込んでいた時、ご主人様がそっと淹れてくださった紅茶の味が、今でも心に残っているのだ。あの時の優しさを、澪は一生忘れることはないだろう。
「お待たせいたしました」
澪はご主人様の前に紅茶カップを置くと、自分用のカップも用意して向かい側に座った。こうして二人で紅茶を飲む時間は、澪にとって一日の中で最も幸せな瞬間の一つだった。
「今日は特に遅くなってしまって、すまなかった」
ご主人様は紅茶カップを両手で包むように持ちながら、少し申し訳なさそうに言った。
「とんでもございません。お疲れさまでございました。お仕事、大変でいらっしゃるのですね」
澪は慎重に言葉を選びながら答えた。あまり踏み込んだことをお聞きするのは失礼かもしれないけれど、ご主人様の様子が心配だった。
「ああ、新しいプロジェクトでね。なかなか思うようにいかなくて」
ご主人様は紅茶を一口飲むと、少し表情を和らげた。
「でも、こうして家に帰って来ると、澪が待っていてくれる。それだけで、一日の疲れが癒される気がするよ」
その言葉に、澪の胸が熱くなった。自分が、少しでもご主人様のお役に立てているということ。それは澪にとって、何より嬉しいことだった。
「そんな、私は何も特別なことはしておりません」
「いや、澪がいてくれることが特別なんだ」
ご主人様は優しい目で澪を見つめながら言った。
「温かい食事、きれいに整った家、そして何より、澪がいつも笑顔で迎えてくれること。当たり前のことかもしれないけれど、その当たり前がどれほど有り難いか、澪は知っているかな」
澪は胸がいっぱいになって、上手く返事ができなかった。ご主人様は、いつもこうして澪の気持ちを大切にしてくださる。まるで本当の家族のように。
「私の方こそ、ご主人様にはいつもよくしていただいて」
「家族なんだから、当然だよ」
家族。その言葉が、澪の心の奥で静かに響いた。ご主人様にとって澪は家族なのだ。それは澪が密かに抱いている想いとは違う種類の大切さかもしれない。けれど、それでも十分に幸せなことだった。
「でも、澪も無理をしてはいけないよ。毎晩こんなに遅くまで起きて待っている必要はないんだから」
ご主人様の気遣いが、澪の胸に優しく響く。けれど、澪にとって、ご主人様をお待ちすることは負担ではなかった。むしろ、そうしていることが自然で、幸せなことだった。
「いえ、私は待っているのが好きなんです」
澪は静かに答えた。
「ご主人様がお帰りになる瞬間の、あの安堵した表情を見ることができるから。それが私にとって、一日の中で最も幸せな時間なんです」
その言葉に、ご主人様は少し驚いたような、そして温かな表情を見せた。
「そうか。それなら、私も安心だ」
紅茶を飲み終えると、ご主人様は立ち上がった。
「今日も、本当にありがとう、澪」
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
澪は深く頭を下げた。ご主人様が階段の方へ向かうのを見送りながら、澪は今夜の会話を心の中で反芻した。家族という言葉、ご主人様の優しい気遣い、そして自分への感謝の気持ち。全てが澪の心を暖かく満たしてくれた。
階段を上がっていく足音が聞こえなくなると、澪はひとり、静かになったリビングに佇んだ。時計を見ると、もう日付が変わろうとしている。長い一日だった。けれど、最後にご主人様との穏やかな時間を過ごすことができた。それだけで、澪は満たされた気持ちになる。
澪は窓辺に立ち、外の夜景を眺めた。街の明かりが、まるで小さな星のように瞬いている。こんな夜景を見ていると、澪は時々不思議な気持ちになる。この世界で、自分とご主人様だけが特別な関係にあるような、そんな錯覚を覚えるのだ。
もちろん、それは錯覚に過ぎない。澪は、ご主人様にとって大切な存在かもしれないけれど、それは家族としての大切さであって、澪が密かに抱いている想いとは違う種類のものだ。それは澪自身がよく分かっている。
けれど、それでも構わない。澪にとって大切なのは、ご主人様のお役に立つことができるということ。毎日、こうしてお帰りをお待ちし、お疲れを少しでも癒すことができるなら、それで十分だった。
澪は小さく息を吐くと、両手を胸の前で組んだ。そして、心の中でそっと祈る。
どうか、ご主人様がお元気でいらっしゃいますように。 どうか、明日も笑顔を見せてくださいますように。 そして、どうか、このまま私がずっと、ご主人様のお傍にいられますように。
それは澪の、小さくて大きな願いだった。
時計の針は、もうすぐ午前零時を指そうとしている。澪は最後にもう一度、ご主人様がお休みになった二階を見上げた。そして、静かに自分の部屋へと向かう。
今日もまた、一日が終わった。 そして明日もまた、澪は同じようにご主人様をお待ちするのだろう。 それが澪にとって、何より幸せなことなのだから。
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