Emergency Mission

部屋に着いて、少し香ばしい匂いを放つマリアをとりあえずソファの上に寝かせた。

ベットへの招待状は、シャワーの後に進呈するとしよう。

いつ目覚めるか分からないので、とりあえず簡単なスープでも作っておこうとキッチンへと立った。

確かまだ冷蔵庫にトマトがあったはず。米と合わせてリゾットを作る事に決め、ハムなどの具材を小さく刻み、コンソメを溶かしたフライパンの中に手早く放り込んでいく。

最後に米を入れて蓋をしたら、後は放置。

ついでに、新しい下着と部屋着をクローゼットの奥から引っ張り出しておいた。

心配しなくても彼女のスーツケースの中にまだ着替えはあるかもしれないけれど。

それにしても。

タクシーから部屋まで抱き上げて来たマリアは、随分と軽かった。

一体、いつ家を出たのだろう。

髪の縺れ具合からして昨日今日の話しではない。

この界隈は比較的平和ではあるけれど、それでも路地裏には日中でも危険が潜むし、夜間に女性が一人で外出できるほどの治安は有していない。

幸いにもマリアの身体に痛々しいアザなどは見当たらなかった。

「運が良かったとしか言いようがないわね。ん?」

微かな声をあげマリアが身動いだ。

起きる?

しばらく傍で見守っていると、再び小さな寝息が聞こえて来た。

「ふふ」

目にかかった髪をそっと指で撫でて、キッチンへリゾットの様子を見に戻った。

水分の減ったフライパンの中身を軽くかき混ぜ、チーズを加える。後は予熱で仕上げる事にして火を消した。これで準備は万端、後はマリアが目覚めるのを待つだけだ。

その時、ポケットの中のスマホが三度短く振動した。大人しくなったスマホを取り出してみると、見慣れた名前が表示されていた。

「あらあら」

予想通りというか、順当というか。

画面に映った名前に、セイカは口元を緩めた。

「はい、久しぶりね、シルヴィ」

「お久しぶり、セイカ」

リダイヤルしたスマホの呼び出し音が、ワンコールも鳴らない内に通話が開始する。

電話の主はロイの筆頭秘書、シルヴィ・ヴェネガー。

「2年ぶりね、シルヴィ。どう?ホテルで素敵な時間を過ごさない?」

「貴女はまたそうやって誤解を生む発言を」

美しい銀縁眼鏡を愛用する彼女の眉間に、皺が寄る様が目に浮かぶ。

かつてロイと夫婦であった頃、セイカの通話を傍受していた何者かが、シルヴィとの戯れに満ちた会話をすっぱ抜いた。あの時の記事の題名は確か、夫の秘書と夫人のロマンス!?禁断の愛に隠されたハラスメントの実態!だっただろうか。

要するにセイカがシルヴィに関係を強要していると言いたかったらしい。失礼な話しだ。私がシルヴィに強要しているのは、ウェットに富んだ会話だけだというのに。

「貴女がそういう発言をするから、ありもしないスキャンダルが生まれるんです」

「日本の諺に火の無いところに煙は立たぬって言うのがあってね」

「貴女が一人で焚き火をしているだけでしょ」

「一緒に燃え上がりましょうよ、シルヴィ。キャンプファイヤーみたいに。熱く、高らかに」

「過去に散々燃えたでしょう?まだ足りないんですか?」

「でもロイの為なら、火の中水の中敵の中、でしょ?」

「貴女とは違う意味でロイを守るのが私の仕事ですから。もし私とベットを共にしたいなら、ロイや会社にとって有益な情報を提示して下さい、セイカ。そしたらビジネスとしていくらでもお相手してあげますよ」

「やだ。ビジネスじゃなく私だけのものになってよ、シルヴィー」

わざと出した甘えた声に、彼女の短い鼻息が返った。

彼女との会話は実に楽しい。どちらも半分以上は冗談で、少しだけ本気だから。

シルヴィはロイの腹心であり、あらゆる取引での要ともいえる。

実のところ彼女にとって大切なのは会社であって、ロイではない。

その身体を使う事も、頭脳を使う事も、彼女にとってただの仕事。

セイカはその割り切った彼女のプロ意識が好ましくて仕方がない。

情熱を傾けられる仕事。それを誇りにしてる彼女が眩しく見えるほどに。

「ところでセイカ、先ほどロイのスマートフォンに貴女から着信があったようなのですが」

小さく咳払いした後、シルヴィが続ける。

「どういったご要件で?」

「あらあら、丁度ロイに有益な情報を私が持ってたみたい。ホテルの最速のチェックイン時間は10時だったかしら?」

「セイカ」

ため息混じりのシルヴィの声を聞きながら、ラグの上で小さな寝息を立てるマリアを見た。

華奢な肩がリズミカルに上下している。

さっきは感情的になって、思わず電話してしまったけど、ここでロイにマリアの居場所を知らせる事は彼女にとって果たして良い事なのだろうか。

目を覚ました後、本人の意志を聞いてからでも遅くないか。

「……なら、プリンセスホテルに……」

どこか諦めたような声で言いかけるシルヴィの声を途中で止める。

「なんてね、嘘よシルヴィ。間違えてボタンを押しちゃっただけ。残念ながら有益は情報はないわ」

疑わしげな沈黙が満ちる。

「あれ?シルヴィもしかして私と……」

「話しは変わりますがセイカ。ロイからの慰謝料を受け取る気は今もありませんか?」

急な話の矛先に今度はセイカが黙る番だった。

「ロイはあんな形で貴女と別れる事になり、今も後悔しています。慰謝料を受け取って彼を解放して頂けませんか?」

「貴女が言及するってことは、彼の仕事に支障が出ているの?」

「まぁ⋯⋯そうですね」

ふむ。後悔ねぇ。

ロイの顔を思い浮かべてみる。

キラキラと今をトキメク顔のいいCEO。サラサラの金髪に高級スーツ、完璧な笑顔を称えた彼がスポーツカーに乗って高らかに笑いながら、セイカの脳裏を横切って行った。

……。

懺悔とか後悔とか、そんな負の感情が彼の中に存在しているかどうかは、かなり疑わしい。

「まぁ……考えておくわ。その話、ホテ……」

「よろしくお願いします」

シルヴィとの通話が切れた。

「慰謝料を払ってない事がメディアに漏れかけてるってとこかしら」

ロイは大金持ちであり、大企業の社長だ。

良くも悪くも注目を浴びるし、失脚を狙っている輩も星の数ほどいる。

愛人が大勢いる事は既にバレているが、そこは富豪の戯れと流してもらえていても、愛人と再婚する為に別れた妻に慰謝料を払っていないと知れれば、またキャンプファイヤーでシルヴィが踊る事になる。

「分かるけど、別に欲しくないしなぁ」

そう呟いた時、またスマホが振動した。

シルヴィかロイだと思ったら、カールだった。

「はい」

「大変だ!すぐ来てくれセイカ!」

数時間前に聞いたようなセリフ。

「⋯⋯はい?」

なので、同じセリフを返したセイカだった。

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