Theotokos&azimech
雨音亨
プロローグ
蜘蛛の巣を払いながら、小型の懐中電灯を片手に、天井裏を腰をかがめて進む。軋む足元が心許ない。
「お姫様のご帰還だ。準備はいい?」
耳に差し込んだイヤホンから、カールの少し高めの、しかし渋い声が無茶なオーダーを告げる。
「あのね、急すぎるの。何もかも。今、ここにいるだけでも優秀すぎるぐらいなんだけど?」
片方の眉を上げて、小声で抗議を返す。
カールから緊急依頼の電話がかかってきたのは、数時間前。依頼内容は人命救助、および逃走補助。目的地は、この辺り一帯を取り仕切るマフィアの一角、フィラー一家のトップ、エリナ・フィラー、通称マダムの屋敷の一つだ。FBIも監視しているであろう物件なだけに、見取り図は既に入手済み。見た目は豪奢な大豪邸だが、元々あった古い建物を改築しているらしく、天井裏にさえ入れれば目的地までは障害がない。いくら家の外の警戒が厳重でも、中に入ってしまえばこっちのもの。とはいえ、ここまで順調に見つからずに来れたのは、部下の大半が人探しに外に出ていたためだ。
「ねぇ、私たち、一昨日まで平和に浮気調査してたわよね?」
「そろそろ火薬の匂いを嗅いでもいい頃じゃないか?」
「冗談はよしてよ。銃を撃てない人間が火薬を恋しがるわけないでしょ?」
「まあまあ、任務は人を逃がすだけだから。うまくやればこっそりと抜け出して終わりさ。君の探偵としての腕前を、僕は信じているんだよ」
「これ、絶対探偵の仕事じゃないと思うけど」
「たまには本部にも貢献しないとな。いろいろ大変なわけよ、予算とか」
「とりあえず頑張れと?」
「そういうこと、よろしく」
ため息をついて、目的の部屋へと急ぐ。くぐもった声が徐々に鮮明になり、内容が分かるようになってきた。
「遅かったわね」
怒りを含んだ耳障りな声。
そっと隙間から下を覗くと、椅子に座った傲慢を絵に描いたような女が見えた。長い赤毛が背中で柔らかなウェーブを描いている。美しい身体の曲線。それを強調するようなぴったりとしたスーツから、長い足が伸びている。
あれがエリナ・フィラーか。
初めて見る実物の放つオーラに圧倒され、呼吸がしづらくなる。マダムの声にこもる怒りに、女性を連れて入ってきた男も縮み上がっている。
「まぁ、いいわ。下がりなさい」
軽く手で払われ、男は部屋の外へと出ていった。
「こっちにいらっしゃい、シンディ」
呼ばれるままに、シンディと呼ばれた女性がマダムの前まで歩いていく。短い髪に細身の身体。どうやら彼女が今回救出すべきお姫様らしい。
突然、マダムがシンディの頬を打った。口の端が切れて血が流れる。
「今週は勝手に外出しない約束じゃなかったかしら」
「近所を散歩するだけだから大丈夫だと…」
言い終わらないうちに、反対の頬が打たれた。
「口答えしろと私が言った?」
「いいえ。ごめんなさい、マダム」
立ち上がるマダムに従い、ベッドへ向かう。
「最近、少し甘やかしすぎたのかしら」
凍えるほど冷たい声と共に、嫌な気配が増幅していく。
「ちょっとカール。まだなの?」
小声でマイクに話しかけると、「もうちょい」と返事があった。
マダムの爪がシンディの頬をそっと撫でる。
「躾け直してあげるわ、シンディ。たっぷりとね」
よくは見えないが、マダムの顔は今、さぞ残忍に歪んでいることだろう。楽しそうで何よりな、どSっぷり。まあ、怯えているシンディを見れば、嗜虐心を刺激されるのも分からなくはないけれど。それでもいきなり平手打ちとは、全くもって度し難い。マフィアってのはこれだから。
マダムの唇が開き、シンディの耳に今にも噛みつこうとした次の瞬間、激しい爆発が起きた。建物が大きく振動し、床に低く伏せる。
「カール!合図してよ」
「僕じゃない!誰かが勝手に爆発させたんだ!」
小声の怒声に言い訳がましい声が返る。
階下に広がる緊張が急激に膨張していくのを感じながら、近くにある小さな窓から外を覗き見た。芝生に覆われた広大な庭の向こう側。コの字になった建物の反対側から煙が上がっていた。突如として響き始める銃声の先にいる人物を見て、絶句する。
「嘘でしょ……」
見慣れたはずの姿をした彼女は、一人、銃声を背に楽しそうに走っている。かなり目がいいのか、ちらりと視線がこちらを向いた。花咲く笑顔と顔の横でのピースサイン。そして、後を追ってきた男たちを撃つべく、躊躇なく銃を抜いた。
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