『8月の青い砂』

志乃原七海

第1話【完璧な恋人】



小説「8月の青い砂」 第一話


【完璧な恋人】


8月特有の、肌を焼く陽光が遠のき、潮風が心地よく頬を撫でる。

目の前に広がるのは、どこまでも続く白砂と、空の青を映して静かに寄せる波。そして、この砂浜を特別にしているのは、夕陽を受けて金色と青色にきらめく、ガラス片のような鉱石の粒だった。


「どうかな、気に入った?」


隣で、恋人の砂山隆が穏やかに微笑む。彼は30歳、大企業に勤めるエリートサラリーマン。いつもスマートで、落ち着いていて、私を完璧にエスコートしてくれる、非の打ち所のない恋人だ。


「うん、すごく綺麗……。隆が子供の頃に来ていたなんて、素敵な場所だね」


「君に、見せたかったんだ」


私は、耳元で揺れるお気に入りのシルバーのイヤリングにそっと触れた。これは、彼が私にくれた、初めてのプレゼント。小ぶりながらも、光を受けると繊細な虹色にきらめいて、私の顔周りをぱっと明るくしてくれる、魔法みたいな宝物。


波打ち際ではしゃいでいたら、思ったより大きな波が足元を攫おうとした。ぐらついた私を、隆がたくましい腕でぐいと引き寄せる。彼の胸に顔をうずめると、いつも通りの優しい匂いがして、どうしようもなく安心した。


「そろそろ帰らないと、真っ暗になるぞ」


隆が空を見上げた。燃えるような茜色が、濃い藍色に溶け始めている。幻想的な光景に、私はふと、この輝きを写真に収めたくなった。


「ねぇ、隆。このイヤリング、光に透かして写真撮ってもいい?」


「もちろん」と笑う彼に、私は宝物を見せびらかす子供のように、イヤリングを指先でつまんで外した。最後の夕陽にかざすと、シルバーの繊細な細工が影になり、きらり、と力強い光が反射する。その時だった。


「っ……!」


背後で、子供たちの甲高い歓声が弾けた。その声に意識が逸れた、ほんの一瞬。するり、とイヤリングが指先から滑り落ちた。


「あ……」


声にならない声が漏れる。重力に従って落ちた小さな銀の粒は、青くきらめく無数の砂粒の中へ、吸い込まれるように消えた。一瞬の出来事だった。


【展開:知らない横顔】


「どうしたの?」


怪訝そうな隆の声が、やけに遠くに聞こえる。


「イヤリング……落としちゃった……!」


焦る私の声は、寄せては返す波の音に、かき消されてしまいそうだった。


「えっ、どこで?」


隆が、私の隣にさっとしゃがみ込んだ。私も半ばパニックになりながら、先ほどまで立っていた辺りの砂を必死に手で探り始める。熱い砂、ざらつく感触。こんな広大な砂浜で、あの小さな、繊細なものを見つけ出すことの無謀さ。それは、痛いほど分かっていた。


「大丈夫、一緒に探そう。すぐ見つかるよ」


隆の声は、まだ穏やかだった。でも、数分探しても見つからないと分かると、彼の様子が少しずつ変わっていくのが分かった。口数が減り、その眼差しは、先ほどまでの優しいものではなくなっていく。


空はもう、ほとんど光を失っている。


「隆、もういいよ。私の不注意だし……。また、新しいのを…」

「ダメだ」


私の言葉を遮った彼の声は、低く、冷たかった。いつもの彼からは想像もできない拒絶の響きに、私は息を呑む。


「隆…?」


彼は私の声が聞こえていないかのように、一心不乱に砂浜に指を走らせ始めた。スマートフォンのライトをつけ、狂気的とも言える集中力で砂を掻き分けていく。その横顔は、私の全く知らない男の人のものだった。


「隆!もういいってば!日も暮れて真っ暗だし、危ないよ!」


彼の異常なまでの執着に、少し怖くなって必死に叫んだ。けれど、彼は手を止めない。


「お願いだから、もうやめて!」


私の制止の声に、彼は顔を上げない。ただ、砂を掻くその指は、まるで何かに罰せられているかのようだ。ライトが、彼の固く食いしばられた顎のラインと、浮かび上がった首筋の血管をなぞる。


その時、彼が苦しげに息を吐きながら、呟いた。


「……二度は、ないんだ……」


何が「二度」なのか、全く分からない。でも、その声に込められた、身を切るような絶望的な響きだけが、私の心に突き刺さった。どうしちゃったの、隆。あなたの心の中で、一体何が起きているの?


理由は分からない。でも、この人を一人にしてはいけない。

その直感だけが、私の体を動かした。


私は震える足で一歩踏み出し、彼の砂まみれの背中にそっと手を触れた。彼の肩がびくりと震える。


「隆……一緒に探そう。私も、諦めたくない」


あなたの大切なものは、私にとっても、大切だから。


私が彼の背中に触れた、その時だった。彼を照らしていた私のスマートフォンのライトが、ほんの少しだけ角度を変えた。


その光の筋が、彼の指先から数センチ離れた砂の上で、何かをキラリと反射させた。


彼の動きが、ぴたりと止まる。


「……あった」


震える声だった。砂をそっと払いのけ、彼が慎重に何かをつまみ上げる。


スマートフォンのライトに照らされた彼の手のひらの上で、砂にまみれた銀の粒が、紛れもない輝きを放っていた。


「あった……!さゆり、あったよ……!」


彼は、心の底から安堵したように、子供みたいに笑った。その笑顔を見て、私はようやく、止まっていた息を吐き出すことができた。

でも、安堵と同時に、胸の中に小さな棘が刺さったままだった。

彼の心の中には、私の知らない、深くて暗い海が広がっている。

今日、私は初めて、その海の存在を垣間見てしまったのだ。


(第一話・了)

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