第9話
「ヒゲと誇りと電気の逆鱗」
飯塚誠司 四十代独身 無趣味
朝の洗面所には、緊張が漂っていた。
鏡の前に立つ誠司は、深いため息をつく。
額には汗。頬には昨日の会議の疲れ。そして、鼻下には……まだ未処理のヒゲが残っている。
「ヒゲ丸……今日こそ頼むぞ。時間がないんだ」
彼がそう語りかけた相手は、洗面台に鎮座する、黒光りする電気シェーバー。
名は《ヒゲ丸》。最新式……だったはずの、ちょっとクセのあるシェーバーである。
「フゴゴゴ……フゴ……」
電源を入れると、低く唸るようなモーター音が響く。
「……おい、誠司。てめぇ、また俺を乾いたまま使おうってんじゃねぇだろうな?」
「えっ? あ、いや、化粧水……今から塗る!今すぐ塗るから!」
「やれやれ……俺の刃は、繊細なの。潤いなき皮膚に斬りかかるなど、職人としての誇りが許さねぇ!」
誠司は慌てて、ポンプからローションを出し、顔に塗りたくる。
だがヒゲ丸の機嫌はすぐには戻らない。今日も面倒くさいモードだ。
その時、横から
「またヒゲ丸はん怒らせたんか〜? あんた朝、顔洗ってへんやろ?」
「洗ったよ!たぶん……いや、寝ぼけてたかも……」
「やれやれ、ワイシャツにヒゲつけて会社行ってみ、営業先でクスクス笑われんで」
「余計なお世話だ!」
そしてついにヒゲ丸が動き出す――が。
「……シュイィィン……ズズッ……ちょ、ちょっと!途中で止まるな!」
「誠司。お前、俺の刃をメンテしてないな?
昨日の夜も帰ってきてそのままだっただろ。髭のカスが詰まってるの、見えてんだよ俺は!」
「わかるのかよ!? っていうか髭のカスって言うな!」
その隙に、鏡の上からドライヤー《ドライヌス》が口を挟む。
「フフ……ヒゲを剃れぬ者に、髪型を整える資格などない。ま、俺の出番はまだ先だな」
「いいから黙ってろ! なんでお前ら朝からそんなに会話量が多いんだよ!」
仕上がった顔は、右頬だけツルツルで、左はモサモサ。
しかも髭を剃ってる途中、ヒゲ丸のバッテリーが尽きたらしい。
無音で沈黙する機械のボディは、誇り高き戦士のようでもあり、ただのポンコツでもある。
結局、誠司はガムテープで左頬を覆って出社する羽目になった。
――この家では、静かな朝など存在しない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます