第10話 土曜日の事件前(3) イシュラ・マールⅡ
――イシュラ=マールは、微睡んでいた。
陽光が瞼を透かした。イシュラは顔を背けて、眉を寄せた。誰かに額を撫でられた。小さな風が吹いて……髪がそよいだ。汗が散って、麗を感じた。彼女の顔に、影が落ちた。影が……彼女を覗き込んだ。
「さあ、着いたわよ……ちょっと……寝てましたの?」
ミナの声がして、イシュラは目を覚ました。囁くような声が、イシュラを揺らした。彼女は、欠伸を噛みころして起き上がった。何かの匂いがした……フルーティー・ジャスミン。
「ふぁ……気を失っていました……」
とイシュラは小さく呟いて、ミナを見上げた。白い顎とアメジストの瞳があった。ミナがそっと屈んだ。イシュラは、ミナの首を離して…手をついた。ミナの腕から降りると、腰を伸ばして立ち上がった。
――地面だ!!
イシュラは、ミナの後ろを見つめて言った。
「あそこから、飛んできたんですよね……行き成り……突然……抱えられて――危うく、粗相をするところでした」
イシュラの言葉を聞いて、ミナは目を見開いた……いそいそと制服を調べ始めた。
「冗談です……」
イシュラは口の端を上げて、ミナを見返した。ミナは抗議の声をあげた。イシュラは彼女の声を無視して、目の前に広がるパノラマを眺めた。
蒼天の下に、山の稜線が見えた。緑の山腹に高台があり、駐車場の柵があった。風が彼女の金髪を揺らすと、遠くから、香ばしい匂いがした。――焼いたソーセージ、チーズ、酢の匂い……バニラエッセンス、柑橘系の果物……。
――午後の始まりを知らせるサイレンが鳴った。
イシュラは、ポケットからタブレットを取り出した。
「PM13:30 ……丁度! 間にあいました!」
イシュラはそう言って、タブレットに目を走らせた。
<<到着:任務に変更なし。そのまま待機せよ>>
彼女は、ホログラフのメッセージを読み、よかったと呟いて、はぁっと大きく息を吐いた……。
ミナはイシュラを見つめて、言った。
「さて、私はホームまで行くから、ここでお別れね。またね、イシュラ少尉!」
ミナの言葉を聞いて、イシュラは手を挙げて頷いた。
ミナはイシュラの後ろを通り、改札口に滑り込んだ。無人の改札には、腰の高さのゲートが4つ並んでいた。ホログラフ看板が『海底列車 ノクティス・エスカ駅』と表示していた。――終点の儚さを告げるように……明滅していた。
改札の奥にはホールがあり、ホームへの階段が3つ見えた。ミナはホールに立っていた。彼女は、イシュラに手を振ると、真ん中の階段に消えていった……。
――そして、誰もいなくなった。
「ご到着は、まだかしら……お腹がすきました」
イシュラが呟くと、甘い匂いが後ろから漂ってきた。彼女が振り返ると、紙袋を持って通り過ぎる人がいた。――カスタードクリーム。
「そうだ、お昼はあれにしましょう」
イシュラが顔をあげると、高台が見えた。緑の金網があり、白い階段に続いていた。白の石段が、左斜めに降りてきて、途中で折り返し、林に消えていた。
手前には民家の屋根が見えた。茶色…水色…グレー…の幾何学模様が、積み木細工に見えた。右に目を移すと、古代樹が林立していた。その右手に新都市が見えた。――林の境界線が、ネオンの花咲く近代を遠ざけていた……。
「任務も、やっと折り返し地点です。帰りの道のりも、頑張りましょう……」
彼女はそう言って、高台の彼方にあるヒエリオン台地を見つめた。アイギス本拠地の要塞群が見えた。
要塞群から巨大な柱が建っていた。まるで、巨人の手のようだった……――第三起動エレベーター『ヴァル・レムナント柱』――人類を異なる宇宙へ導いた、異世界の門。
「ここから見ても、大きいですねぇ。明日は……あれに乗って……成層圏です」
空は全天が水色で、アストラリス海まで続いていた。大洋は穏やかで、小さな漁船が、白い積乱雲を背景に、点々と浮いていた……。
――誰かに肩を叩かれた。
「君がイシュラ中尉かな?」
イシュラが振り向くと、黒髪の女性が立っていた。彼女の制服は黒く、金のボタンが並んでいた。
彼女は続けた……。
「私は、黒のアイギス所属 ヴァルク=ノイアス隊のヴァルク大尉だ」
イシュラは頷くと、ヴァルクは、さらに続けた。
「後ろが、副長のエリダ…その後ろ、左からロウ、それに…ネイラだ。本日は世話になる……宜しく頼む」
ヴァルクが言い終わると、短い沈黙が流れた。イシュラはハッと息を吸い込んで、返礼を始めた。
「輸送部門、 ナディア部門長配下の――」
イシュラが言い始めると、ヴァルクが右手を挙げた。イシュラは言葉を飲み込んで、沈黙した……。
「すまない。リアナの部隊より、早くセラフィナ基地に着きたい。急ごう……」
イシュラは眉を寄せて、彼女を見返した。口を少し開いて、彼女の後ろに視線を移した。すると、3人の黒のアイギスが静かに頷いた。
「あの、何のことでしょうか……」
彼女の質問に答えるように、突風が巻き起こった。
ヴァルクの制服が、エナメルのように光沢を帯びた。黒の衣装に写り込んだ……自分の顔が、彼女を憐れむように見つめ返した。白い炎が、ヴァルクから噴き出した。ヴァルクが両手を広げると、黒い影が……滝のように流れだした。――黒のアイギスの攻撃形態!!
イシュラは、「ひぃ」と一声漏らし、涙を浮かべた。目を固く閉じた時、お腹の辺りに重い物が当たった。――足が浮いた……音も消えた……。
彼女は唇を噛んで、両手を頭の後ろに回した。切り裂くような音がして、体重が消えた。――飛んでいた……。
――カスタードの甘い香りがして、『Blue in Green』が聞こえた。
「大丈夫かね……。ああ…この曲、好きでね。」
ヴァルクがイシュラを覗き込んで、優しい声で語り掛けた。
彼女は仰向けになっていた。目を開けると、路地のトタン屋根が流れていった。音もない世界に、ジャズが溶け込んでいた……一行は、空気の泡の中に包まれていた……4人のアイギスが走っていた。彼女たちの暖かい手がイシュラを支えていた。
「階段を昇るぞ……少し傾くから、慌てないように」
イシュラの目の前に、ノクティス・エスカの全景が広がっていた。モザイク画のような家々……深緑の海……緋色の道に……白い駅舎。ガラス瓶のように並ぶ、高層ビルが見えた。――空はやはり水色だった。
イシュラの顔を黒いマントが覆った。イシュラは目を閉じて、息を吐いた……。
――マントが払われると、そこにヴァル=セリオンがあった。
「良い訓練になったな……」
声を見上げると、ヴァルク大尉の顔があった。イシュラはヴァル=セリオンの前輪に肩を預けて座っていた。アスファルトが尻に食い込み、パンプスが片方だけ、つま先に引っ掛かっていた。
「はい……」
イシュラは答えた。目の端に、エリダが見えた。彼女は、兵員輸送用ハッチに手をかけていた。イシュラは、胸のボタンにそっと触れて、小さく呟いた……ガチッという音と共に、ハッチが動き……ゆっくりとスライドした。
「ありがとう!」
エリダは、手をひらひらと振って、イシュラを見つめ、滑り込むように車内に消えた。――二つの黒い影が彼女に続いた。
「済まなかった。どうしても、先に着きたくてな。今日だけは、リアナに負けられない……そういう事情があってだね」
ヴァルクはそう言って、立ち上がった。彼女は、ノクティス・エスカ駅の方を見つめた。イシュラは首を傾げると、立ち上がって彼女に顔を寄せた。
「見えるか? 白の悪魔だ……」
イシュラがヴァルクの視線を追うと、白い光が4つ……近づいてくるのが見えた。ヴァルクは、イシュラを見降ろして言った。
「今日は、ナディラの代打がミラと聞いた。これなら勝機は十二分にある。君の腕に賭けるぞ! セラフィナ基地まで、白の悪魔より先に到着するのだ!」
ヴァルクはそう言うと、イシュラの肩に手を置いた。
駐車場に突風が吹いた。大尉のストレートロングの黒髪が風に舞った。切れ長の眼に、濡れた瞳……睫毛は長く、眼差しは柔らかかった。――そして血と火薬の匂いがした。
――兵員輸送用ハッチは音もなく、静かに閉じた。
ヴァルク大尉が、小さくウィンクすると、白い炎が彼女から揺らぎ出た……。空間が捻じれ……彼女の輪郭から、虹色の光が漏れた……。そしてヴァルクは、残像をのこして消えた……。――爆音と共にヴァル=セリオンが揺れた!!
「え?」
イシュラが声を漏らすと、車内から悲鳴が上がった。「隊長」と叫ぶアイギスたちの声が聞こえた。ヴァルク大尉は膝をつき、ヴァル=セリオンの兵員輸送用ハッチに顔をうずめ……縋り付き……そのまま崩れ落ちた。
「だ……大丈夫ですか……」
とイシュラが駆け寄ると、ヴァルク大尉は彼女を見上げて……言った。
「済まん……壊すところだった。これは……ご内密に出来ないだろうか……?」
イシュラとヴァルクは、ハッチを見つめた。――陥没していた。
「それより、お怪我は……」
とイシュラが言うと、ヴァルクは問題ないと言って笑った。彼女の額から、赤い雫が一筋流れ落ちた。
――イシュラ・マールⅡ(了)――
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