さっきまで悪魔が、

邂逅

俺は新しい戸籍が与えられ、新しい名前が与えられ、新しい部屋が与えられた。俺の両親は『あの事件』に巻き込まれて死んだ。俺には身寄りがほぼいない。警察に入ると叔父に伝えた途端、叔父家族とも疎遠になった。叔父は警察嫌いだ。もう二度と会うこともない。俺が『光抱く扉』の農場付近で重症に遭ったことはマスコミには伏せてある。

俺は今、新しい部屋にいて、課長からもらったタチバナに関するとても短い資料を読んでいる。

俺はタチバナの顔写真を見つめていた。

黒黒とした髪をセンターで分けて、少し前髪が目にかかっている。目は細く切長だ。気のせいだろうか、瞳が蒼く見える。顔は面長で鼻が鷲鼻だ。唇は薄く艶がいい。外国人の血が混じっているように見える。年齢は分からない。なぜならタチバナには戸籍が無いからだ。本人は当時36だと証言している。現在は42か…、

以下:『タチバナ』に関する極秘（コ）103号調書(抜粋)

当該本人（以下タチバナ）には戸籍がない。あらゆる調査を行ったが、戸籍は発見されなかった。タチバナが現れたのはある殺人事件の犯行の容疑者として自首した時に遡る。タチバナは黒ずくめのスーツ姿で現れ、今まで、どこで何をしていたのかに対しては黙秘を続けたが、タチバナの証言通り、高橋雅彦（24）が東京都坂橋区南東常盤台一丁目11-9のトランクルームの中で発見された。

被害者はトランクルームの中で監禁され、裸にされ、拘束の後、両手両足の爪が全て剥がされ、身体中の至る場所に無数の手縫い針が刺さっていた。最終的な死因は『餓死』と見られる。

殺害の動機は「殺す価値もない人間を殺してみたかった」と証言。

被害者・高橋雅彦（24）は3年前に婦女暴行、監禁で逮捕、起訴、実刑で3年服役していた。暴行・監禁された女性は事件の半年後に自殺している。

タチバナと被害者、および高橋雅彦による被害を受けた女性の間に面識は全くない。

「ん？」次のくだりを読んで俺は少し驚いた

この事件の取り調べの際、タチバナは1時間後に起きるある殺人事件に関することを喋り始めた。タチバナは事件の、犯行、顔は見えないが犯人・被害者の性別や特徴・服装、犯行場所、凶器の場所を告げた。捜査人は訝しがったが、実際に事件が発生した。タチバナの証言に基き現場を捜査した。凶器、血痕の着いた犯人の物と思われる衣服などが発見された。その凶器に犯人の指紋が付着し逮捕に至った。警察はどうしてもタチバナとその殺人事件との関連性を見つけることができなかった。単にその事件の情報を事前に知っているに過ぎないと言うのが捜査関係者の大部分の意見だった。しかし、タチバナは今度は、当日他県で2時間後に殺人事件が起きると予告した。そしてもう一つの他県でも殺人事件が起きると予告した。

いずれも事件は発生し、予告通り犯行、顔は見えないが犯人・被害者の性別や特徴・服装、犯行現場、凶器などを予告していた。

捜査一課は起訴をあぐねていた。

公安部公安総務課は『タチバナ』を引き取ることにした。

後々のことだが『タチバナ』の件（ケース）を担当した捜査一課の刑事たちは皆、ノンキャリアでも異例の昇進をしたり、かなり条件のいい転職先に天下りしている。

「上が動いて『タチバナ』の事を『忘れろ』という代わりに。ご褒美をあげたというわけか。それにしても『タチバナ』はどうやって事件のことを知ったんだ、結局、公総はアイツをスカウトしたのか」

俺は資料を手に取り、ガスコンロまでいくとスイッチを点けてて炎が燃え上がるとそのまま燃やした。焦げる匂いがしてファンを回した。焦げた紙を水に濡らしさらにシュレッダーにかけた。

俺は着替えた。閉まっている分厚い遮光用のカーテンからでも日差しが見える。太陽の光が、こんなにも落ち着いて、人を安心させてくれるものだと純粋に思われた。美しく思った。今まで感じなかった感覚がして、久しぶりに外に出ることにした。

ドアを開け、エレベーターは やめた。階段を使い、一階まで降りた。道を歩いた。ただの一軒家たちが美しく、空が青く、高い。ここは閑静な住宅地だ。俺がいた世界とはほど遠いようにも思える。でも蔓延（はびこ）る何かを感じる。ここでも暴力があって、薬物が氾濫し、新興宗教が暴力と高額な金を請求し、得体の知れない奴らから特殊詐欺の連絡がくる。

俺はたんに偏屈で、冷たく、普通の人として、は終わっているのか。

「坂口さん」

後ろから声が聞こえた。

新しい名前になっても瞬時に、俺は振り向いた。

黒ずくめのスーツ姿。

写真のあの顔。

恐ろしい。

『タチバナ』だ。

「少し歩きませんか」

凍りついた。

俺は言われるがまま、

タチバナについて行った。

続く。