転生受付嬢の「神調整」:幸運値以外はポンコツ、だが結果は良し!

五平

第1話:社畜から「豊穣の神」へ(ただし方向音痴)

佐藤健太は、三十を超えても、まだ夢を見ていた。いや、夢などではなかった。ただ、ほんの少しの安穏を願っていただけだ。毎朝、満員電車に揺られ、定時などあってないようなサービス残業をこなし、パワハラ上司の怒鳴り声に耐え、到底達成不可能なノルマの数字に追われる日々。彼の心は、石のように重く沈み込み、体は鉛のように疲弊しきっていた。感情の奥底には、常に人から使われ、すり減っていくことへの微かな苛立ちと、抗えない諦めが沈殿していた。


「あー、もう、土でもいじって、ぼーっと生きていきてぇ…」


彼の口から漏れるのは、いつもそんな独り言ばかりだった。誰にも邪魔されず、ただ自分の手で、新鮮な野菜を育て、それを食べる。そんな、現世では到底叶わない、ささやかな願いを抱きながら、健太は深い眠りについた。その願いは、彼の中で膨らみ続けたストレスと疲弊が、ついに分裂を始めた兆しだった。


目覚めると、そこに広がっていたのは、見慣れない木の天井だった。光が、柔らかく差し込んでいる。

「あれ?ここどこだ?」

上体を起こすと、窓の外から眩しい光が差し込んでいることに気づいた。慌てて窓辺に駆け寄ると、視界いっぱいに広がるのは、見渡す限りの畑。土は、ふかふかと柔らかく、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。その光景は、健太の心を内側から照らし、乾いた心が水を吸うように、微かな期待で膨らんでいく。


「ま、まさか、転生…?」


半信半疑で、目の前の畑に立つ。ポケットにいつの間にか入っていたトマトの種を取り出し、試しに土に蒔いてみた。すると、わずか数時間で、小さな芽がみるみるうちに伸び、あっという間に青々とした苗になり、真っ赤な実をつけ始めた。その生命力溢れる成長に、健太の疲弊していた心に、久しぶりに「わくわく」という感情が満ちていく。

「は?もう収穫!?てか、これトマトでかすぎだろ!?」

健太は、自分の手のひらよりも大きなトマトを呆然と見つめた。異常な生産力。まさか、願いがこんな形で叶うとは、想像もしていなかった。彼の脳裏に浮かんだのは、過去の努力が報われなかった失望ではなく、今、この手で生み出したという確かな充足感だった。


数日後、健太はトマトとカボチャを山ほど抱え、村の雑貨屋へ買い物に出かけた。道中、すれ違う村人たちが珍しそうに彼に視線を送る。

「お兄さん、すごい量の野菜だねぇ!」

「豊作だねぇ、健太さん!」

健太は照れながらも、村人の温かい言葉に、自然と口元が緩んだ。現世では味わえなかった、人と人との繋がり。それは、彼の心をじんわりと温め、現世での孤独が溶けていくように感じられた。この穏やかな空気は、悪くない。彼の価値観の中で、「人との穏やかな繋がり」という新たな光が、ゆっくりと灯り始めていた。


雑貨屋で必要なものを買い込み、足取りも軽く家路につく。はずだった。

「あれ…ここどこだっけ?」

来た道を完全に忘れてしまい、村の広場で立ち尽くす。足元の石畳が、どこまでも同じに見えた。

「な、なんで俺、こんな簡単な道も覚えられないんだ…?」

焦れば焦るほど、頭の中は真っ白になる。地図を地面に描いてみても、三歩歩けばどちらが北か、わからなくなる始末だ。顔から血の気が引いていく。

「また健太さん迷子になってるよ!」

「おーい!こっちだ、こっち!」

村人たちが声をかけ、健太の元へ駆け寄ってくる。彼らは慣れた様子で健太を彼の畑へと導いてくれる。現世では、道に迷えば舌打ちされ、助けなど期待できなかった。それが、この世界では当たり前のように、皆が手を差し伸べてくれる。この優しい世界に触れるたび、健太の心は少しずつ氷が溶けるように癒されていくのを感じていた。彼は、自分の弱さを他者に晒すことへの抵抗感が、不思議と薄れていくのを感じていた。


そんなある日。

村に衝撃的なニュースが飛び込んできた。それは、領主の使いがもたらした、厳しい現実の宣告だった。

「大冷害だ!今年の冬は、他の作物が壊滅するそうだ!」

村人たちの顔には、一様に不安と絶望の色が浮かんでいた。しかし、健太の畑だけは例外だった。あの「生産物固定化」の能力が、皮肉にも幸いしたのだ。健太の畑一面には、巨大に育ったトマトとカボチャが、所狭しと実り続けている。

「健太さんの畑の野菜があれば、この冬は越せる!」

「健太さんは、まさに豊穣の神様だ!」

村人たちは健太を崇め、心からの感謝を述べた。彼らの真っ直ぐな視線を受け止めるたび、健太の胸には、じんわりとした温かさが広がる。望んでいなかった「人に必要とされる喜び」と「自己肯定感」。それは、健太の心の奥底を、かつてないほどの充足感で満たしていった。


しかし、その噂は、あっという間に領主の耳にも届いた。

領主は、飢饉で困窮する自身の領地を救うため、健太の莫大な生産力を利用しようと画策する。

「あの『歩く迷子』を連れてこい!どんな手段を使ってでもな!」

領主の命を受けた兵士たちが、健太の住む村へとやってきた。甲冑をきしませながら、兵士長が冷たい声で告げる。

「お主のその能力、我らが領地のために貸してもらおう」

村人たちは、健太を守ろうと兵士たちの前に立ちはだかった。彼らの顔には、決意の光が宿っている。

「健太さんは、私達の大事な神様だ!渡せるもんか!」

だが、領主の権力は絶対だ。兵士たちは、抵抗する村人たちを力ずくで押しのけ、健太に掴みかかった。村人たちの目には、涙が浮かび、唇を震わせながら「健太さん!」と叫ぶ。その光景を前に、健太は全身から力が抜けるのを感じた。せっかく手に入れた穏やかな生活が、またしても「人に使われる」形で脅かされる。現世での社畜の記憶がフラッシュバックした。毎日毎日、会社に搾取され、心身ともにボロボロになった日々だ。胃の奥から込み上げる吐き気に、健太は顔を歪めた。

「結局、俺はどこに行っても搾取されるのか…」

健太は肩を落とし、視線が床に貼りついたまま、言葉を失った。村人たちは、彼を守ろうとしながらも、領主の権力には抗えず、ただ涙を流しながら健太を見送るしかなかった。彼の背中が、どんどん小さくなっていく。


領主の元へ連行される馬車の中で、健太は自分の運命を呪った。なぜ、こんなことになったのか。領主の館に到着すると、そこにはすでに村人たちが集まり、涙を流しながら彼を見守っていた。彼らの視線は、健太の胸を締め付ける。領主は健太の生産力に驚嘆し、彼を丁重に扱うが、健太の心は晴れないままだった。


その夜、健太は館の一室で一人、静かに横になっていた。窓の外は、凍えるような冬の闇が広がっている。村人たちは、どうしているだろうか。やはり、俺はいない方がよかったのだろうか。そんなことを考えていると、控えめに扉がノックされた。開くと、そこには見慣れた村人たちの顔があった。皆、両手いっぱいに何かを抱えている。村の年老いた女性が、湯気の立つ大きな鍋を差し出した。湯気で彼女の目が潤んでいるのが見て取れる。中には、真っ赤なトマトと、ゴロゴロと入ったカボチャ。彼がこの村で最初に作った、あの巨大な野菜で作られた特大シチューだった。


「健太さん、これ、あんたの好物だろ?」

彼女は、震える唇でそう言った。その声には、深い愛情が滲み出ていた。

「領主様には内緒で持ってきたんだ。あんたに元気出してほしくてな」

別の村人が、泣き笑いのような顔でそう告げた。彼の頬には、乾いた涙の跡が残っている。

「健太さん、どこに行っても、あんたは私達の『豊穣の神』だよ。いつでも帰ってきていいんだからね!」

その言葉が健太の心に直接響き、彼の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。村人たちが本当に自分のことを心配し、家族のように思ってくれている。これまで誰にも求められず、ただ消耗するだけだった人生の中で、健太は初めて「自分の居場所」と「真に必要とされている」という感覚を得た。シチューをすくいながら、村人たちの笑顔に囲まれている自分に気づき、胸の奥がじんわりと温かくなった。その温かさは、彼の凍てついていた心臓をゆっくりと溶かしていくようだった。


健太は、領主の元でも、以前のように「搾取される」のではなく、自らの意思で村人のために、そして新たな土地のために、持てる力を最大限に発揮しようと決意した。彼の隣には、温かいシチューを囲む村人たちの顔がある。彼を支える村人たちの温かい眼差しと、新しい場所でも「役立っている」という実感が、健太の心を真に癒し、深い心の安らぎをもたらした。彼は、自らの手で生み出す喜びだけでなく、人との繋がりの中で生きる喜びを、確かに掴んだのだ。彼の内側で、感情の点と点が繋がり、一本の確かな線となって、新たな未来へと向かう必然性を生み出していた。

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