第17話 ラテアートとマスター
「オレ渾身のラテアートなんだけど、どうよ?」
「どうって、言われてもな……」
言葉の割におずおずとした態度を見せている
「……ふふ」
真冬も笑いが堪えきれず小さく吹き出している有り様だ。
それもそのはず、テーブルの上に二つ置かれたカプチーノの表面に施されたラテアートはコメントに困る代物だった。
穏やかなラテのキャンバスに描かれていたのは、生気の抜けたヨレヨレのハートもどき。ハートと呼ぶにはまだ自信が持てないそれは、真冬に出されたものだった。一方俺に出されたラテアートは、デカい楕円形を頭に見立てるとするならば、その左右にまるで耳のように小さな円が二つついている白い泡の塊だった。遠くから、しかも薄目で頑張って見れば世間一般的にデフォルメしやすい動物の何かにも見えなくはないが、なかなか無理な話だ。俺の頭では到底真理に辿り着けそうにない。いや、俺以外であっても真理に辿り着ける人間はこの世で一握りいるかいないかだろう。
「わたしのはハート、かな? シノのは、ええっと……なんだろう」
雨夜を傷つけまいとモチーフを捻り出す真冬が不憫でならない。俺に差し出されたカップの表面をじっと険しい表情で見つめている。いつもならそんな真冬も可愛らしいで片付けられるところだが、思い詰めている理由が理由だ。とっとと答え合わせでもしようではないか。
「なあ、雨夜。これは、一体……?」
「真冬ちゃんのはリーフだよ、葉っぱの模様。確かにハートにも見えなくはないから仕方ないね。それでシノのはクマちゃんさ! 顔はまだ腕が追いついてなくて描けていないけど……それっぽくは見えるだろ?」
「く、クマ……ちゃん……?」
同意を求められても、全然クマには見えないとしか言いようがない。むしろ、どうにかすれば動物に見えなくもないと、無意識に正解に近づいていた俺がアホだった。何か悔しい。
「あっ。でも味はとてもおいしいよ!」
小さく手を合わせてから一口、カプチーノに口をつけた真冬が絶賛する。唇に白い泡がついてしまっているところが何とも愛らしい。でも、という逆説の接続詞は雨夜にとっては余計かもしれないけど。真冬もなかなか酷なことを言うもんだ。
「あ、本当だ。ミルクで苦みが緩和されていて飲みやすいな、これ」
ブラックコーヒーが苦手な俺でもこれならグイグイ飲めそうだ。その前に自称クマちゃんの泡の下から覗く熱々のコーヒーが、俺の舌に襲撃しかねないけどな。
「そう! そこなんだよなあ。コーヒーはうまく淹れられるようになったんだけどさ、ラテアートになるとなかなかモチーフを当ててくれなくてさ……」
見るからにしなしなと萎れる雨夜の背後から、見知らぬ男性が顔を覗かせてくる。コツコツと革靴を静かに響かせながら近づいてきたその人の手には、トレーの上に注文の品が二つ並んでいた。コーヒーの香りを中和するようにカレーのスパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。
「お待たせいたしました。こちら、カレーライスとプリンアラモードになります。プリンは食後にお持ちしますね」
この店のマスターが、俺と真冬に頼んだ品物を届けてくれた。白いご飯の半分にかかるカレーのルーは焦がしたように色が濃く、具沢山で食べがいがありそうだ。プリンアラモードはというと、揺れの少ない固めなプリンの周りを、色とりどりのフルーツがきらびやかに散りばめられていて華やかな見た目をしていた。
「わあ。おいしそう」
真冬も感嘆の吐息を漏らしていた。俺もカレーの香りが胃を刺激して、腹の虫が真冬と共鳴しやがる。
「マスター。もう一度、チャレンジしてきてもいいっすか!」
「ああ。頑張ってみなさい」
朗らかに微笑むマスターと呼ばれた男性は、キッチンに駆ける雨夜の背を見送っていた。
「君たちが、雨夜くんのお友達ですね。遠慮せず召し上がりなさい」
笑顔を崩さず、この店のマスターは机上に並べた渾身の一品を指し示す。俺と真冬がここに来ることは、雨夜がアルバイト先にもちゃんと伝えていたようだ。
「マスターはラテアート、作られないのですか」
促されるままカレーを頬張る俺は、マスターに何気なく問う。カレーのピリッとした辛味と程よく焦がした苦みが、口の中で微かに残っているカプチーノの酸味と相まって手が止まらない。
掘れども掘れども必ず具材が口に放り込まれて至福としか言い表せない。一口大に切られた牛肉は見た目によらず口の中で柔らかく溶けていく。乱切りにされた人参とじゃがいもは食感が口腔内でアクセントになってこれまた美味だ。時折顔を覗かせる玉ねぎもまた、とろっとした甘さが癖になる。コーヒーとの相性抜群のカレーは、喫茶店でないと賞味することができない特別品だと思う。俺の好物はカレーライスだったのかと錯覚してしまうくらいには、マスターのカレーが気に入ってしまった。
「ラテアートはね、雨夜くんが考案したものなのですよ。見てのとおりこの店は古くてねえ。新しい風を吹かそうと若いアルバイトくんを雇って、気持ちを新たにみんなで頑張っているのですよ」
アルバイトという身分で何とも重い期待をかけられているのかと驚いてしまうが、ラテアートが雨夜考案の品だという事実に感心が上回る。確かにこの店内の雰囲気にはラテアートなんて現代的な洒落たものは似合わない。どちらかというと、モクモク煙のタバコに合う重厚な苦みの深いコーヒーが似合う純喫茶って感じだもんな。若年層の新規顧客の獲得に力を入れたいということだろう。
アルバイトを始めて一か月程度だというのに、ここまで信用されているのは雨夜の人当たりのよさが功を奏しているようだ。多少の負荷をかけている分、給料だけではなく賄いと称してお店で提供しているものと同等、いやそれ以上においしいご飯を食べさせているのかもしれない。そんな推測ができるくらい、マスターの雨夜を見る目は優しく見えた。
「それはそうと、そちらのお嬢様はどこかで見たことがあるような気がするのですがね」
「わたしは、
俺から真冬に目を移し、はてと首を傾げるマスターだった。真冬がその疑問に答えるように正体を明かすと、マスターは晴れ晴れとした表情となり深く頷いた。
「
「わたしのことをご存知なのですか」
しみじみと感慨深く真冬を見つめるマスターに、今度は真冬が不思議そうに首を傾げる。今のマスターはまるで実の孫を慈しむかのような目をしている。
「先代とは知り合いでしてね。幼い頃のあなた様をお見かけしたことがあるのですよ。お姉様の後ろに隠れて人見知りをされていたのに、ここまで立派になられて」
「おじいさまの……」
真冬のプリンを掬おうとした手が止まる。この喫茶店の古さから、神水神社の先代の神主とマスターが知り合いだと言われても特に疑問は持たない。店内からは参拝客にも昔から長く愛されてきたのだと歴史の重みを感じる。
それにしても、人見知りをしていた幼い頃の真冬の話が気になるのは自明の理だ。真冬と春香さんの関係性を間近で見た後だからなおさら、昔はもっと仲のよい姉妹だったのだろうかと想像が膨らむ。一方で、二人の関係性にあんなにも距離ができてしまった原因は一体何なのか謎は深まるばかりだった。
「ああ、失礼。長話をしてしまったね。今日は遠慮なくゆっくりしていきなさい。雨夜くんのラテアートにも、よければまた付き合ってくださいね」
再び騒がしくなってきたキッチンの音で、マスターは時間の経過に気づいたらしい。では、と深々とお辞儀をすると、俺と真冬に気を遣ってかマスターも雨夜の消えていった厨房へと姿を消した。
「真冬。それ、おいしい?」
マスターの口から神水神社の先代の話が出てからというものの、それまで口に運んでは幸せそうな笑みをこぼしていた真冬の手はぱったりと止まってしまっていた。真冬を現実世界に引き戻そうと声をかけると、真冬は口の中で小さく、あ、と呟いた。
「う、うん。固めでとってもおいしいよ。周りの果物も瑞々しくてプリンとよく合うんだ」
真冬は手から離れかけていたスプーンを改めて握り直す。掬ったプリンの欠片と薄くスライスされたイチゴをスプーンに乗せ、ゆっくりと小さく開いた口の中へと運んでいく。
「そっか。俺も、この後来るプリンが楽しみになってきたよ」
真冬が我を取り戻してくれたようで何よりだった。だが、変わらず浮かない顔をしているところを見ると、やはりマスターの言う先代のことが気がかりになってしまう。そんな俺の様子に気づいたのか、真冬はスプーンを置くと顔を上げた。
「マスターのおっしゃっていた先代は、わたしのおじいさまなの。おじいさまは、わたしたち姉妹を厳しくも優しく育ててくださった。でも……」
真冬の瞼が伏せられる。プリンアラモードでもカレーでも、へんてこなラテアートが施されたカプチーノでもない。ただ当てもなく視線を机上に浮遊させていた。
「おじいさまが亡くなって、
口にせずとも俺の疑問を感じ取ったのか、真冬は先代について話し始める。途切れ途切れで声も震えを隠しきれていないが、無理もない。
春香さんの圧倒的な威圧感。それは生まれつきのものではなく、神水神社の跡を継いだ時から発現したものなのか。でも、俺は真冬が思う程、春香さんが人間離れしたように恐ろしい存在だとは思わなかった。時折見せる哀愁漂う表情は、ただ威圧感を振りまいて周囲を平伏させているだけとは到底思えなかったからだ。
神主を継いだのは両親ではなくて春香さんなんだね、とか、できることならもっと深堀りしたいけれど。複雑そうな表情で言葉に詰まる真冬からは聞き出せる自信がなかった。思っていた以上に神水家は込み入った事情を抱えているようだ。
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