第16話 フォーセット家
その朝、エリノアが起きると、マティアスは既に起きていて、紅茶を飲んでいた。
(珍しい。いつも、もっと遅くまで寝ていらっしゃるのに)
マティアスは夜遅くまで本を読んでいることが多かった。
「おはようございます」
「おはよう。紅茶、飲むかい?」
「はい!」
ティーカップに赤みがかった紅茶が注がれる。
マティアスが手をかざすと、紅茶が温かくなったのが分かる。
「どうぞ」
「ありがとうございます。……おいしい!」
「よかった」
マティアスはにこりと笑った。
「マティアスさま、今日は早いんですね」
「ああ、早い、というか、寝ていないというか――ずっと『グレゴワール・D・ドルレアン公爵の備忘録』を読んでいたんだよ。面白くてね」
「……鏡文字ですよね?」
「そうだ。大変興味深い内容ばかりだったよ」
マティアスはそう言うと、川の氾濫に関する、新たな情報をかいつまんでエリノアに伝えた。
氾濫が起きた時期魔素量が増えていた、星の数が少なくなったとの証言があった。また、百年の間に氾濫が二回起こったらしい。そして黒い森で金色に光る胞子が観測されていた――
「金色に光る胞子って、何でしょう?」
「分からない。そのことは、魔導学部の人間に訊いてみよう。魔導士の報告とあるから、何か分かるかもしれない。……ところで、ノア。君は伯爵家の血筋かもしれない」
「は? いやいや、あたしは平民です」
「ここを見て欲しい」
マティアスは真剣な眼差しで、整然と並ぶ、続き文字の鏡文字を指さした。
「――川の氾濫からの復興も随分進んでおり、現在のラグシア王国ベルティーユ王朝は安定している。しかし、メルロヒ王朝の頃は政権争いがあり、兄弟間による争いがあったようだ。政権争いに敗れ、爵位を剥奪された貴族もある。例えば、フォーセット伯爵家だ――と、書いてある」
「フォーセット伯爵家?……そのような話、聞いたことはありません」
「『グレゴワール・D・ドルレアン公爵の備忘録』はもう六百年程前に書かれたものだ。メルロヒ王朝はそこからさらに百年程前のことになるから、『没落貴族』ということすら忘れられていても、おかしくはない」
「でも、貴族は強い魔力を持っていますよね? あたしは、生活魔法は使えますが、貴族のような魔力はありません。姉もそうだし、両親もそうです」
「それは長い間に、血が薄まったからだろう。名だけが引き継がれていったのではないか?」
「分かりません。……もうすぐ、年末年始で、生誕祭に絡んで長いお休みがありますよね? あたし、そのとき家帰って、家の中を調べてみようと思います。雑多なものがしまわれている棚があるんです」
「もし、フォーセット家が伯爵家の血筋ならば、何か文献が残されているかもしれないね。ボクが書物や資料を集めたとき、そういうところから重要な文献が見つかることもあったよ。……それにしても、年末か。早いね。エリノアがヴァントリス(九月)にここに来てから、秋の季節が過ぎ、ヴィンデラル(十二月)の冬の季節が始まり、ヴィンデラル(十二月)も半ばを過ぎ、もう年の終わりが近づいている」
「はい。とても早かったです。そして、とても充実した日々でした」
「地味な作業だが、君はとてもよくやってくれた。ノアがいてくれて、本当によかったよ」
マティアスは紅茶を一口飲むと、フードの下で穏やかな笑みを見せた。
エリノアはこの四カ月足らずのことを振り返った。
来る日も来る日も、ひたすら書物と顔をつき合わせていた。その間に古代文字を覚えもした。『リリアーヌ・ロティエの日記』はとても興味深い内容だった。川の氾濫についての記述を見つけたときは、ものすごく興奮したし、また、読み物としてもとても面白い内容だった。エリノアはリリアーヌに親近感を抱いている。
(『リリアーヌ・ロティエの日記』の続きは、家に帰っても読みたい。今回は長いお休みだから長く家に滞在することになるから)
(そう言えば、お休みの日に家に帰ってはいたけれど、長く家に帰るのは初めてかも)
エリノアがそう考えていると、マティアスが目を細めながら言った。
「家で少しゆっくりするといい。そして、年が明けたとき、調べて分かったことをまとめよう」
エリノアが家に帰ると、そこは幸せなざわめきと慌ただしさに満ちていた。
「大変! ヴィヴィが泣いちゃったわ」
「ちょっと抱っこするよ。……よしよし、どうしたんだい?」
「おしめが濡れたんじゃないかしら?」
「どれどれ? あ、ほんとだ!」
フォーセット家全員で、赤ちゃん一人にかかりきりで、その様子はきらきらした光そのもののようだった。
「ただいま」
エリノアが言うと、母親のマノンが「あら! おかえり。気づかなくてごめんね」と笑った。
「姉さん。赤ちゃん、生まれたのね」
「そうなの、つい、この間ね。かわいいでしょう?」
ジョゼットが小さな小さな赤ちゃんを抱っこして、エリノアに見せるように言う。
「かわいい!」
「名前はね、ヴィヴィアンヌ。いつもはヴィヴィって呼んでいるのよ。生まれたことを手紙で知らせようと思ったんだけど、生誕祭の長い休みだから、すぐに帰ってくると思って、手紙は出さなかったの。ごめんね」
「うん、大丈夫よ」
「抱いてみる?」
「うん!」
エリノアはヴィヴィを抱っこした。小さいけれど、温かい重み。やわらかな幸福そのもの。そして、愛しさ――エリノアの中に、
望優菜もこんな小さな赤ちゃんだった。泣いてばかりで。でも、全てが愛しくて。
なんて懐かしい、温もりと重み。
一生懸命、育てた。おっぱいをあげて、おしめを替えて。
歩くようになると、どこにでも行ってしまうあの子を追いかけて。
その大変さ全てが、幸せだった。
エリノアの目から涙が溢れた。
大好きな望優菜。とても大切に思っていた。
望優菜。
死んでしまってごめんね。
乃愛を求めて、伸ばされた小さな手。――ううん。分かっている。大きくなってもずっと、手は伸ばされていた。そのことを、乃愛はよく分かっていた。
もっといっしょにいてあげたかった。
大人になるまでずっと。
小さな手を握って、一緒に歩いた。
すぐに抱っこをせがんだ。
抱き上げたときの、あの重みと温もりは、いつだってあたたかいものを乃愛の心にもたらした。
望優菜。
ただ愛しくて。
涙は止めることは出来なかった。後から後から溢れ、エリノアの頰を濡らした。
「エリノア? どうしたの? そんなに泣いて」
(姉さん)
「仕事、疲れたの? 無理しているんじゃない?」
(母さん)
「エリノア。とりあえず椅子に座ったら?」
(父さん)
「エリノア、椅子はここだよ」
(義兄さん)
エリノアはジョゼットの腕にヴィヴィを預けると、用意された椅子に座った。すると、すぐにマノンが温かい飲み物を持って来て、エリノアの前に置いた。
(なんてみんな優しいのだろう?)
(あたし、フォーセット家に生まれてよかった)
(父さんと母さんの娘で嬉しい。ジョゼットが姉さんで嬉しい。姉さんがイーヴと結婚してよかった。ヴィヴィもとても愛しい)
(あたし、エリノアとして、精一杯、この命を大切に生きる。もっと自分を大切にして生きて行く)
エリノアは温かい紅茶を飲む。
その紅茶は、マティアスが淹れてくれた紅茶を思い出させた。
それからその紅茶は、乃愛だった頃の夫との幸せな日々も思い起こさせた。
(そう言えば、結婚してすぐの頃、こうして夫が淹れてくれた紅茶を一緒に飲んで、話をしたりしたわ。心が通い合っていたときも、確かにあったんだ――)
しかしそのイメージはすぐに霧のように消え、ヴィヴィを中心に起こる、にぎやかな明るさの中に入り込み、エリノアは胸がいっぱいになった。
――その夜、エリノアは目的のもの見つけた。
家の中で、雑多なものがしまわれている棚の中に。
『シルヴェストル・フォーセット伯爵の回顧録』
表紙はぼろぼろで、かつてはきちんとした装丁であったことを忘れてしまうほど、ところどころ剥がれたりしていた。
(よく、捨てられずに残っていたものだわ)
エリノアは表紙を捲った。
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