芸術は壊れた後に始まる

相田 翔

第1話 祈りの絵画

夜の美術館には、光より先に記憶が降りていた。

 外は湿った風が街路樹の葉を裏返し、遠い交差点でタクシーのブレーキが猫の喉のように鳴いたが、この建物の中は別の季節だった。空調の息は一定で、乾いた紙の匂いと、木枠の古い樹脂が薄く溶け出した甘さが鼻の奥に居座る。磨かれた床は月光を薄い刃に変え、刃は展示室の隅を音もなく削いでいく。私はその刃の上に立っている気がした。


 《祈りの絵画》。

 母の遺作。縁の布端が光を吸い、黒の糸が細く立っている。画面の中央には少女。輪郭は意図的に曖昧で、目の焦点は描かれていない。だが瞳の奥に塗り込まれた色だけが、こちらを射抜く。祈りにしては、痛みが強すぎる色。祈りは通常、誰かに向かう矢印だが、この絵では矢印が自分自身の胸に戻ってくる。


「……ここに、母がいた」


 声に出すと、文字の重さが舌に残った。十年前、この絵を描き終えた直後、母は呼吸を置いていった。以来、私はここに立つたび、床下から微かな拍動を感じる。誰かの鼓動。たぶん私自身の。あるいはこの絵が記録した、絵具の層に閉じ込められた心臓の振幅。


 扉が軋む。

 靴音が近づく。乾いた、均一な間隔。展示室の空気が少し沈んだ。湿度計があれば、数字が一つ下がるだろう。


「紫嶋ソフィアさんですね」


 感情の影を持たない男の声。私は絵から目を離さずに答える。


「……誰?」


「修復技師です。カルロ・ロヴェリと申します」


 名前に、硬いガラスの感触があった。数日前、館の修復部門から連絡が来た――劣化の兆候、層間の浮き、微細なクラック。私は返信した。「来なくていい」。けれど来た。来るべき人は、来たがる人ではなく、来るしかない人だと知っている。


「修復は依頼されています。私はそれを果たしに来ただけです」


「母の魂に触るな」


「絵に魂は宿りませんよ」


 私は振り返った。

 灰色の瞳。癖のない黒髪。顔色は青白く、血の温度がどこかで止まったままの人の色。濃紺のスーツは布目の向きがぴたりと揃い、襟元は一本の線で閉じている。ネクタイの深紫に細い銀の斜線。立っているだけで、部屋の水平が正されるような男だった。


「あなたには、わからない」


「ええ。私は修復の対象としてしか見ません。情熱や伝説は、観察の邪魔になる」


 彼は一歩近づく。靴底が床に吸いついて離れる、わずかな湿音。月光が肩から胸へ、胸から指先へ滑り、指先で止まる。私は本能的に絵の前に身体を差し入れた。


「触らせない。もし触ったら――」


「壊れますか? 祟りますか?」


「――あなたが壊れる」


 カルロは短く息を吐いた。息に温度はなかったが、空気はわずかに震えた。


「芸術とは、壊れてなお残るものです。あなたの母も、おそらくそれを理解していた」


「母の何を知ってるっていうの」


「だから、知りに来たんですよ」


 その瞬間、画面の少女が瞬きをした気がした。幻視。そう言って自分をごまかすには遅すぎるくらい、心拍が跳ね上がった。少女が私を見る。あるいは母が、少女を通して私を見る。私は視線を動かせなくなった。


「この絵は、まだ完成していません」


「……は?」


「左下。祈る指の第二関節、線が途中で止まっている。層の厚みが足りない。画面下層に別のモチーフがあるはずです」


「違う。母は完成させた」


「あなたは、その場にいましたか?」


 言葉が喉で割れた。あの日の朝、私はアトリエの扉を開けられず、縁から匂いだけを吸い込んだ。油と樹脂、乾いた布、金属の粉の匂い。机の上には青のチューブの切れ端。母はいつも言っていた――色には癖がある。人にも癖がある。癖どうしが仲直りする瞬間が、一番綺麗ね。


「あなたに何がわかるのよ」


「私は事実を述べています」


 事実。冷たい単語が骨に触れた。怒りか、悲しみか、その間に横たわる別の色が喉の奥で溶け、言葉にならない。私はしばらく呼吸の形だけを繰り返した。


「……あんたに言われて、描けると思ってるの?」


「私はあなたに描けとは言っていません」


「じゃあ何のために来たのよ」


「あなたが描かない選択を、正しく選べるようにするためです」


「描かない……?」


「創造しないという選択も、創造の一部です」


 私は笑いかけて、笑えなかった。描かないことは、いつだって敗北の別名だった。けれど、彼の声は敗北の音ではなかった。必要な削除音。紙を一枚、正しく抜き取るときの音。


「診断をします。立ち会ってください」


 彼は展示室の灯を一段落とし、携行のライトで画面の表層を斜めからなでた。光の角度が変わるたび、筆致の山脈が浮き沈みする。私は息を潜め、画布が呼吸するのを見た。画布は生き物ではないのに、確かに淡い呼吸があった。塗膜の微細な凹凸が空気を掴んで離す、そのリズムが私の心拍と同期する。


「裏面を確認します」


 カルロが作業台に白い不織布を敷き、二人で絵を寝かせた。裏面の麻布はところどころに茶色い紙片を貼り込まれ、古い糊が飴色に透けている。鉛筆の数字、判読しづらい印。誰かがここに手順を残した。母か、別の誰かか。


「ここに、層のヒントがある」


 彼は赤外反射の機材を準備し、角度を少しずつ変えながらダイヤルを回す。紫がかった光が繊維を通り抜け、見えないはずの線を薄く引き上げる。私は肩を固めた。胸の中で、数字にならない鼓動が数を失って弾む。


 見えた。

 最初は錯視だと思った。暗い水に白い石。けれど、それは瞳だった。今の少女とは別の、柔らかくて疲れた瞳。まぶたの影が、誰かの優しさの重みで少しだけ沈んでいる。私は名前を言いかけて飲み込んだ。名前は現実を固定する。固定されると、戻れない。


「確定はできませんが、下に別の人物像があります。上から覆っている」


「覆った……」


 隠した、ではない。覆うことは、隠すことでもあり、守ることでもある。私は指先で不織布の端を摘み、布のざらりを確かめた。母は何を守ったのだろう。誰を隠したのだろう。


「祈りの手の向きが、途中で変わっている」


「向き?」


「視線の先が、別の対象に移っている。祈りは形として残され、内容だけが覆われた」


 私は表の少女を思い浮かべる。祈りの形は凍っている。けれど、その下で別の筋肉が動いていたのかもしれない。祈りはときに、別れの儀式に変わる。届かないと知りながら手を合わせる動き。私は喉の奥で音にならない問いを転がした。どうして――。


「剥離はしません。壊すと解くは違う。今日はただ、見えるようにする」


 カルロの手つきは丁寧で、無駄がない。細いスパチュラの先端で、極小の浮きを撫でる。撫でる、という行為がここでは測定に近い。触れずに触る。私はその手元を見ているうち、自分の呼吸が浅くなるのに気づいた。酸素は足りているのに、酸素より別のもの――記憶の粉のようなもの――が肺を満たす。


 母のアトリエの匂いが戻ってきた。

 夕方の窓。ガラスの内側に指で描いた丸の跡。乾きかけのパレット。青のチューブの口に固まった塊を、母は爪で少し砕き、笑って言った。「癖どうしが仲直りする瞬間が、一番綺麗」。私の手はいつも青に伸びた。叱られはしなかった。代わりに「その青はあなたの呼吸に合う」と言われた。呼吸に合う色。色に合う呼吸。生き方の話を、色でされた日のことを、私は一度も絵にできなかった。


「……あなた」


 私はカルロの横顔を見た。

 灰色の瞳は数値の向こうにありながら、浅い呼吸の影が、その数値の端に揺れていた。冷たいはずの人が、ごくわずかに温度を持つ瞬間。私は問いの形を整えずに、ただ言葉を押し出した。


「あなたには、何が見えてるの?」


「層です」


 短い答えは、刃物の背で触れるみたいに痛くなかった。

 彼は再び光を動かし、モニタに細い曲線を浮かせる。今の輪郭とわずかに違う、もっと柔らかい頬の線。線の内側に、小さな陰影――誰かを抱きしめているような影。


「……祈りじゃない」


「ええ。祈りの形に偽装された、別れです」


 別れ、という単語が耳の奥で反響し、展示室の四隅から少しずつ戻ってきた。私は椅子の背に手を置いて、体重を分散させる。心臓が規則を忘れた子供の足音みたいに跳ねる。落ち着け。落ち着きたくないなら、そのままでいろ。二つの命令が同時に走る。


「この先は、あなたが決める。剥がすか、留めるか。どちらも正解で、どちらも損失です」


 損失、という言葉に、なぜか救われた。正解に必ず損失が含まれているなら、私たちは失うことを怖がりすぎなくていい。私は目を閉じ、瞼の裏に見える薄い赤の粒子の動きに意識を合わせた。粒子は一定の方向を持たない。ランダムに揺れて、やがて揺れの中心が私の胸の奥に移った。


 私は描けなくなっていた。

 それを否定することに、もう疲れていた。描けないことは、壊れていることだとずっと思っていた。けれど、壊れたあとに始まるものがあるのだと、今は少し信じられる。破片に触れた指の感触で、形の全体を想像するみたいに。


「……続けて」


 自分の声が、いつもと違う高さで出た。

 カルロは短く頷き、機材の電源を落とした。静かさが戻る。静かさは、何もないことではない。ここでは静かさの中に、見えない作業が積み上がっていく。


 私は絵の前に立った。

 少女の瞳に、色が宿っている。十年前と同じではない。十年分、私の見方が変わったのかもしれない。あるいは、絵が変わったのかもしれない。絵は変わらない、というのは嘘だ。見る人が変われば、絵は変わる。私はそれを仕事で何度も見た。客観と主観の境界は、額装の内側と外側より薄い。


 呼吸が合う色――青。

 私は胸の奥で、古いチューブの口を捻る。蓋は固いが、回る。中から出てくるのは、過去の残りではない。今の呼吸の色だ。私は指先でその色をすくい、見えない場所に触れる。触れるのは塗ることではない。確かめること。確かめるのは、絵ではなく、私の側の層。


「描かないことを、選ぶために、もう一度だけ描く」


 言葉にしてみると、分裂していたものが一つに戻る音がした。カルロの灰色の瞳が少しだけ細くなる。彼には笑わない癖がある。けれど、今のそれは、笑いにいちばん近い無表情だった。


 私は展示室の灯りをもう一段落とし、月光だけにした。

 暗さは恐怖を増幅するが、余分な意味を減らしてくれる。私はカバンからスケッチブックを取り出し、最初のページをめくる。白の面積が空気を冷やす。鉛筆を握る。握るだけで、肩甲骨の内側が少し開き、背中の筋肉が仕事の姿勢に入る。紙の上で、私の呼吸が水平線になった。線は一気に引かない。小さな波で進む。波の合間に、昔の母の言葉が差し込まれる。「癖どうしが仲直りする瞬間が――」


 線が、少女の頬を通り過ぎて、髪の影へ入る。

 祈る手の第二関節。止まっていた線を、止まっていたところから正確に続けるのではなく、止まっていたことごと上書きするように、別の方向にすべらせる。祈りの形は保つ。内容だけを、少しだけ別の場所へ移す。祈りを祈りのまま、別れにする。別れを別れのまま、祈りにする。矛盾は壊れるためにあるのではなく、二つの面を同時に持つためにある。


 鉛筆の芯が、紙の繊維の谷を踏む音が聞こえる。

 カルロは黙って見ている。彼が黙っていると、私は黙ることに罪悪感を持たなくて済む。沈黙は、会話の欠落ではなく、保存だ。保存とは、未来の誰かが開くことを前提に、今を密封する行為だと、今は思える。


 私は一度、鉛筆を置いた。

 目を閉じる。瞼の裏で、青がゆっくり立ち上がる。十年前の青は鋭く、私の肺を切った。今の青は柔らかく、肺の内側に薄い布を貼ってくれる。私はもう一度、画面に向き直り、見えない場所にだけ色を置く。置く、と言っても実際には空気に置いている。絵には触れない。触れないことが、最初の触覚になる夜もある。


「……ありがとう」


 誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。

 カルロは軽く頷いた。頷きは、仕事の動作に見えた。仕事の動作は、祈りの動作に似ている。結果が見えないのに、正しい角度で身体を傾ける必要があるからだ。


 私たちは絵を覆い、元の壁に戻した。

 展示室の灯りを上げる。色が少しだけ違って見えた。違いは、私の側にある。違いは、違いとして、そのまま受け取ればいい。


 帰り際、私はもう一度だけ、少女の瞳を見た。

 瞳の奥で、ひとすじの青が静かに息をし、私の胸の内側で同じ速さの呼吸が返された。往復の時間が同じだと、世界は一瞬だけ平らになる。私は平らになった床の上を歩く。外へ出る扉の前で、カルロが振り返った。


「選ぶのは、いつでも今です」


「ええ。今、選んだ」


 夜風が額の汗を薄く拭い、街の音が別の物語の始まりを知らせるベルに変わった。私はそのベルを背に、もう一度だけ心の中で青の蓋を閉め直す。次に開けるとき、癖どうしが仲直りする音が、もっとはっきり聞こえるはずだ。


 美術館を出る。

 空はほとんど黒。黒の中に、塗り残しのような薄い群青が一枚だけ浮いている。私はそれを見て、歩幅を半歩だけ広げた。壊れたあとに始まるもののために。

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