第二章:滑走路のバディ

 その日から俺の玲の弟子としての日々が始まった。

 それは俺が想像していたよりもずっと地道で過酷で、そして奥深いものだった。


 俺はまず玲から膨大な量の課題を与えられた。


 日本の野鳥図鑑を丸暗記することはもちろん、空港周辺の生態系、一年間の気象データ、航空機の運航パターンに至るまで。毎晩官舎に戻ると俺は学生時代以上に必死で机にかじりついた。二度と彼女に「勉強してこなかったの?」とは言わせたくなかった。


 航空整備士を目指していた頃の勉強とは全く異なる分野だった。機械の構造や電気回路ではなく生き物の行動パターンや生態系の仕組み。しかし不思議と苦痛ではなかった。むしろこの新しい知識の世界に俺は魅了されていった。


 例えばカラスの社会構造について学んだ時のことだ。カラスには明確な階級制度があり、群れにはリーダーが存在する。そのリーダーの性格や経験によって群れ全体の行動パターンが大きく変わる。年老いた慎重なリーダーの群れは人間を警戒して遠くから様子を見るが、若く好奇心旺盛なリーダーの群れは積極的に人間に近づいてくる。


「知識は武器よ」と玲は言った。


「相手を知らずして勝利はない。これは戦いなのよ、蒼井くん」


日中は彼女と共に広大な空港敷地内をパトロールする。


「蒼井くん、あの鉄塔の上の影。何?」


「……ハヤブサです。おそらく獲物を探しているかと」


「そう。じゃあ彼がいることで周囲の鳥の動きはどう変わる?」


「……小型の鳥は警戒して草むらから出てこなくなります。カラスやトビのような大型の鳥は逆に縄張りを主張して攻撃的になる可能性が……」


「正解。じゃあ私たちはどう動くべき?」


 彼女は決して答えを教えなかった。

 ただヒントを与え俺に考えさせ判断させた。


 その繰り返しの中で俺はただ空を眺めているだけでは見えなかった世界の解像度が少しずつ上がっていくのを感じていた。


 風の匂いで天候の変化を予測する。

 雲の形で上空の気流を読む。

 鳥の鳴き声で彼らの感情を推測する。


 それはマニュアルには決して書かれていない生きた知識だった。


 そして俺は玲という人間そのものにも強く惹きつけられていった。


 仕事に対して一切の妥協を許さない厳しさ。その一方でハヤテに向ける慈しむような優しい眼差し。休憩中に水筒から飲むお茶を少しだけ地面にこぼすのは土地の神への感謝の印だと後で知った。彼女は現代に生きる最後の巫女のようでもあった。


 玲の指導は容赦なかった。

 俺が少しでも気を抜くとすぐに叱責が飛んだ。


「そんな雑な観察で鳥の行動が読めると思ってるの?」


「今の判断は十秒遅い。十秒あれば鳥は百メートル移動する」


「あなたの予測が外れたら航空機が墜落するのよ。乗客の命をなんだと思ってるの?」


 その度に俺の心は千々に乱れた。


 航空整備士になれなかった劣等感がぶり返し、自分には本当に空の安全を守る資格があるのかと自問自答を繰り返した。だが同時に、玲の厳しさの裏にある深い責任感と使命感を感じ取ることもできた。彼女は決して俺をいじめているわけではない。本当に俺を一人前のバードパトロール隊員にしたいと思っているのだ。


 それは最初はただの劣等感だったのかもしれない。


 航空整備士という具体的で現実的な目標に挫折した俺にとって、自然と対話しその一部として存在する彼女の生き方はあまりにも眩しすぎた。だが彼女の隣で同じ空を見上げる時間が増えるにつれて、その感情はより複雑なものへと変わっていった。


 劣等感を突き抜けた先にある強い憧れ。


 そして彼女のあの孤高な魂にもっと近づきたい、触れてみたいという抗いがたい欲求。それはまだ恋と呼ぶにはあまりにも青くて不器用な感情だった。


 俺と彼女の距離を少しだけ縮めてくれたのはハヤテだった。


 俺はハヤテの飼育小屋の掃除や餌の準備も手伝うようになった。最初はハヤテは鋭い目で俺を威嚇し決して心を開かなかった。俺が近づくと翼を広げて威嚇のポーズを取り、時には鋭い鉤爪で攻撃してくることもあった。


「ハヤテは簡単には人を信用しない」と玲は説明した。「彼は一度信頼関係を築けば生涯のパートナーとなるけれど、それまでは徹底的に相手を試すの。あなたが本当に信頼に値する人間かどうかを」


 俺は毎日静かに敬意をもってハヤテに接し続けた。急な動きはせず、大きな声も出さず、ただ黙々と世話を続けた。ハヤテの餌は主に冷凍のウズラやマウスで、それを適切な大きさに切って与える必要がある。また飲み水は毎日新鮮なものに替え、止まり木や飼育小屋も清潔に保たなければならない。


 地味で単調な作業だったが俺は不思議と嫌になることはなかった。ハヤテの美しい羽毛や凛とした佇まいを間近で観察できることは貴重な体験だった。そして何より、この作業を通じて玲との距離が少しずつ縮まっているような気がした。


 ある日の夕暮れ、玲が俺に言った。


「蒼井くん。ちょっと腕出してみて」


 言われるがままに分厚い革の手袋をはめた腕を差し出すと、玲はハヤテの足に結ばれた紐を解き俺の腕へとそっと移した。


 ずっしりとした命の重みが腕に伝わってくる。


 ハヤテの鉤爪が革の手袋の上から俺の腕にきつく食い込んだ。そして至近距離でその全てを見透かすような賢い瞳と視線が交錯する。時間にしてわずか数秒。だが俺には永遠のように感じられた。


 ハヤテの体温が腕に伝わってくる。


 羽毛の下にある筋肉の張りと力強い鼓動。野生の生命力がダイレクトに俺の体に流れ込んでくるようだった。同時にハヤテの瞳の奥に深い知性を感じた。この鳥は単なる動物ではない。人間と対等にコミュニケーションを取ることができる知的な存在なのだ。


「……怖かった?」


「いえ……。ただ……」


 言葉が出てこなかった。


 ハヤテの瞳の奥に俺は自分と同じ孤独の色を見た気がした。大空を支配する絶対的な強者。その裏側にある誰にも理解されない孤高の魂。


 その日を境に、ハヤテは俺にだけは違う表情を見せるようになった。俺が近づくと喉を小さく鳴らすようになった。「クル、クル」という柔らかい音で、これは鷹が安心している時に出す音だと玲が教えてくれた。それは俺がこの場所で彼らの仲間として「認められた」証のようだった。ハヤテは口下手な玲の心を映す鏡であり、また俺自身の孤独を静かに受け入れてくれる言葉のない親友になった。


 玲も俺がハヤテに受け入れられたことを認めたのか、徐々に俺に対する態度が軟化していった。相変わらず仕事に対しては厳しかったが、休憩時間には時折雑談をするようになった。


「蒼井くん、前は何の仕事をしてたの?」


「航空整備士を目指してました。でも試験に落ちて……」


「そう」


 玲は特に驚いた様子もなく頷いた。


「この仕事に来る人の多くは何かしら挫折を経験してる。私もそう」


 それは彼女が初めて自分の過去に触れた瞬間だった。俺はもっと聞きたかったが、彼女はそれ以上は語らなかった。


 季節が夏から秋へと移り変わる頃、二人の距離がもう少しだけ縮まる出来事があった。それは空港の隅にある今はもう使われていない古い管制塔でのことだった。玲は時々一日の終わりにそこに一人で立ち寄り遠い空を眺めていることがあった。


その日俺は勇気を出して彼女の後を追った。


「……玲さん。ここでいつも何を見てるんですか?」


玲は驚くでもなく静かに答えた。


境界線ボーダーラインを見てるのよ」


境界線ボーダーライン?」


「そう。空と陸の。人間が作ったコンクリートの世界と鳥たちが生きる自然の世界の。私たちはいつもその境界線の上に立っている。どちらか一方の味方をするわけじゃない。


 彼女は夕陽に染まる滑走路を見つめながらぽつりぽつりと自分のことを語り始めた。俺がずっと聞きたかった彼女の過去。


「私の父も鷹匠だった。でもただの鷹匠じゃない。父は獣害対策の専門家だったの」


 彼女の故郷は美しい里山だったという。だがリゾート開発の波が押し寄せ森が切り拓かれ、餌場を失った動物たちが人里に下りてくるようになった。


「テレビのニュースは連日のように畑を荒らすイノシシや民家に現れるクマを『害獣』と呼び駆除される映像を流す。でも本当に悪いのはどっちなんだろう? 彼らの住処を奪い生態系を壊したのは私たち人間なのに」


 彼女の声には静かな怒りが滲んでいた。


「父はただ殺すのではなく動物たちが人間社会とどうすれば適切な距離を保てるか、その『境界線』をもう一度教えようとしていた。鷹を使って彼らを傷つけずに森の奥へと追い返す。それが父のやり方だった」


 しかし、と彼女は言葉を続けた。


 彼女の父親は数年前山中で調査中にクマに襲われ命を落としていた。その事故は新聞で「害獣駆除の専門家、対策の失敗で死亡」と小さく報じられただけだったという。


 彼女の一家は周囲から「動物に甘いからだ」「危険なことをするからだ」と非難の目で見られた。


「確かに父の理想はただの綺麗事だったのかもしれない。でも……私は信じたいんだ。人間と他の生き物たちが互いの領域を尊重し合って生きる道を。だから私は父の跡を継いだ。父が見つけられなかったその答えを探すために」


 そして彼女は俺の目をまっすぐに見て言った。


「ただ同じ場所にはいられない。一つの場所に長くいるとどうしても情が湧く。その土地や人に。個人的な感情は時に冷静な判断を曇らせるから。それに一つの現場で得た知識と経験は別の問題を抱える別の場所に還元していきたい。空港で起きている問題も山の麓で起きている問題も根っこは全部繋がっているから」


「……だから玲さんは、渡り鳥なんですね」


「そう。私は父が守ろうとした『境界線』をこの国全体にもう一度引き直すために渡り鳥でいることを自分で選んだの」


 俺は言葉を失っていた。


 彼女のあのクールな仮面の下にこれほどまでに熱い情熱と深い悲しみ、そして壮大ともいえる使命感が隠されていたとは。


 それは俺の中で燻っていた感情がはっきりと形になった瞬間だった。


 ただの憧れじゃない。

 俺はこの人の力になりたい。


 彼女が背負っているもののほんの一部でもいい、一緒に背負いたい。彼女が守ろうとしているその境界線の上に彼女の隣に立ちたい。


 それは間違いなく恋だった。


 だがその想いを俺はどうすることもできなかった。彼女はいつかここから飛び立っていく渡り鳥なのだ。それに俺には彼女を引き留める翼も資格もまだなかった。


 俺の心境の変化にハヤテは敏感だった。俺が玲への想いに悩んでいると、ハヤテは俺の肩に止まりそっと頭を俺の頬に寄せてくれることがあった。まるで「大丈夫だ」と慰めてくれているかのように。


 そんな矢先、空港で緊急事態が発生した。


 激しい霧雨で視界が悪化した中、離陸したばかりの国際線の旅客機のエンジンに鳥が吸い込まれる「バードストライク」が起きてしまったのだ。幸いエンジンは完全に停止するには至らず旅客機は無事に空港に引き返し大惨事は免れた。


 しかし一歩間違えれば何百人もの命が失われていたかもしれない。原因は悪天候によって通常とは違うルートを飛んだ渡り鳥の小さな群れだった。俺たちのパトロール網から完全に漏れていたのだ。


 事故調査の会議で俺は自分の観察不足とシステムの限界を上層部から厳しく追及された。玲は俺を庇ってくれたが俺自身の無力感はどうしようもなかった。


 整備士にもなれず、ここでも俺は人の命を危険に晒す役立たずなのか。


 俺は滑走路の隅で雨に打たれながら一人膝を抱えていた。折れた翼がまたずきずきと痛んだ。

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