花天月地【第53話 心の湖面に】

七海ポルカ

第1話




「時間が無いのは分かるが一度、話を整理してみよう」




 黄巌こうがんがそう言ったので、徐庶じょしょは頷いた。


 二人は燃え落ちた村を歩きながら、続ける。

 風が出て来ている。

 雨が降る気配だ。


軍はまだ涼州において、軍事行動は起こしていない。

 司馬懿しばい賈詡かく韓遂かんすい殿と協議を持ち、涼州騎馬隊の規模を調べ、出来るならば協調関係を結び、戦は回避するつもりだった」


 徐庶が頷く。


「涼州騎馬隊と涼州連合の長は今は……韓遂殿と言っていいんだよね?」


「そういう表現になると思う。……以前は一族の影響力が強かったけど、馬超ばちょう殿が蜀に行ってからは馬一族は涼州には一人もいなくなったし……領地も他の豪族が押さえたからね。涼州騎馬隊や涼州連合として協議するとき、とりまとめ役は韓遂殿だった」


韓遂かんすい殿は……魏軍に対してどういう考えを持っておられた?」


「どちらかというとやはり親和的な考えだ。あの人は戦は好きじゃないんだよ。

 でも、勿論涼州が他国から攻撃を受けても恭順を唱えるばかりの人じゃない。


 残忍な侵略を受ければ戦ってくれるし、自らの中に何か強い信念があるというよりはまず話し合い、誰とでも話し合い、その中で自分の考えを定めていくような人だった。


 勿論信念のある人からすると、日和見主義、なんて表現されることもあったけどね。

 でも韓遂殿は、自分がそう言われることもちゃんと知っていたし、だからこそ彼自身は強い信念を持って、涼州を守ろうとしていた馬騰ばとう殿や馬超殿のことは高く評価していた。

 潼関とうかんの戦いで袂は別つことになったけど、恐らく馬超殿がしょくへ行った今でも、その気持ちは韓遂殿の中で変わっていなかったと思う」


「なるほど……」


司馬仲達しばちゅうたつは涼州じゃ、かなり評判が悪い。

 しかし賈詡かく将軍なら天水てんすい防衛のみに関わっていて、まだ心証はマシだ。

 この際、彼が涼州出身であることも今回はいい方に影響したんじゃないかって思うよ。

 賈詡将軍が最初から築城目的で、侵略狙いでないのなら韓遂殿とは話し合いが出来たと思う。

 司馬仲達は長安駐留に帰し、騎馬隊の配置はまあ話し合い次第だが、韓遂殿と賈詡将軍だったら、互いにいいところで話の落ちどころは見つけたと思う」


「なら……韓遂殿が生きておられれば、協議や同盟は出来た可能性が高い」


 黄巌こうがんは頷く。


「そのはずだ。だけど韓遂かんすい殿が殺された。彼は涼州連合のとりまとめ役だったから、これから豪族達はバラバラになる。魏軍の支配を拒絶する人もいるし、協調出来る人もいる。蜀を頼ろうとする人もいるだろうし……涼州をもう、捨てて他の土地に向かう人もいる」


龐徳ほうとく将軍はどんな方だい? 俺は勇猛果敢で、清廉な人物と聞いたけど」


「龐徳殿は……確かに、勇敢な武将で、曲がったことが嫌いな人だよ。馬騰ばとう殿の元でも、韓遂かんすい殿の元でも、戦っておられた。

 でも彼は生粋の軍人だから……曹魏や小さな豪族達の集まりである涼州連合の長になって軍政をするには、荷が重いと思う。

 戦場では誉れの高い人物だが、政では広く人の意見を聞きながら涼州全体のことを考えて決断を下すようなことは無理だろう」


「そうか……」


 徐庶は一度立ち止まった。


「……馬超殿はどうだっただろう?」


「え?」

「俺は以前、新野しんや劉備りゅうび殿に会ったことがあるけど、その時馬超殿はまだいなかったんだ。

 彼の人となりを、知らなくて」

「あ……そうか……」

風雅ふうがは馬超殿には会ったことあるんだよね?」

「うん……。あるよ。小さい頃は、一緒に騎馬兵になる修行も受けたからよく知ってる。

 涼州において馬一族は特別な存在だったから。父親の馬騰ばとう殿は当時から涼州連合の長だったし。

 三人兄弟だったけど長男の馬超ばちょう殿はやっぱり、普通の少年とは違っていたな……。

 武芸は何をやらせても際立っていたし……なんて言うか……いるだろ? そこにいるだけで自然とその場にいる人たちの視線を奪うような、そういう存在感のある人」


 徐庶じょしょの頭には諸葛孔明しょかつこうめいの姿が浮かんだ。


「分かるよ。俺の友達にもそういう人がいた。

 物静かだけど、何故か存在感があるんだ」


 黄巌こうがんは頷く。


馬超ばちょう殿は武勇に秀でて身体も大きかったし、見るからに立派な人だったけどね。

 彼もどちらかというと龐徳将軍のように、生粋の武官だったけど……。

 ただ……馬超殿は同年代の俺達にとっては、兄貴みたいな存在だった。

 誰とでも分け隔てなく接してくれたし、困ってる人がいたら自分の一族だとか一族じゃないとか関係なく来てくれて、助けてくれた。

 彼は政が得意な質じゃないけど、でも頼りになる兄や父親は、一族をとりまとめられるだろう? 馬超殿は、そういうところがあった」



(……劉備殿と同じだ)



 劉玄徳りゅうげんとくも、特別優れた武官や政治家ではないと徐庶は思った。

 戦術家や政治家としても曹操そうそうに及ばない。

 だが彼の側にいると、無性に安堵した。

 明日をも知らない流浪の集団であった、新野しんやで出会った劉備軍の人々は火を囲みながら笑い合っていた。

 

 徐庶は、劉備に尋ねたことがある。


『貴方は、彼らをどこへ連れて行こうとしているのですか?』


 分からない、と言われた。

 だが言葉にして一番近いのは、彼らが行きたいと望む場所に連れて行きたいと思う。

 彼はそう言った。

 火の周りに集まった、彼らを見ながら。


『望むその、一番近いところまで連れて行ってやりたい。

 私はな、徐庶殿。

 自分の資質はよく理解しているつもりだ。

 例えば領主や王というものは政をするものだが。

 私に政の才はない。

 私は本来、人の上に立つ器ではないのだ。

 曹操や劉璋殿を見ていると、国の頂点に立つ者というのは大変なものなのだなといつも思う。


 私は良い国というものがこの世にあれば、そこへ彼らを導くまでの道案内のようなものだ。

 良い国や善政がどういうものかは、私は分かる。判断がつく。

 だからそういうものがあれば、そこへ彼らを導けばいいことは分かる。

 しかし自らが良い国を作り、善政を成したり維持することは、見つけることやそこへ人々を導くとは全く違う素質なのだ。


 私に王の素質があれば、彼らをこれほど長く彷徨わせたりしなかった。

 

 私は導くのだ。人心を想う、良き王の許に、彼らを』



『もしそこに彼らを導けたら、貴方はどうするのですか。

 人を導いた、そのあとは』


 劉備は笑った。


『そのあとは、私もその国の民として静かに暮らすよ。

 あの中にも才ある者達がたくさんいる。

 きっと新しき国でもその才は必要とされるだろう。

 任官を受けた彼らの活躍を聞いたり見ながら暮らすのは、嬉しいことだ』


 劉備が生まれた時、すでに世は乱れていた。


 黄巾の乱が始まり、

 董卓とうたくかん王朝を死へと追いやっていた。

 えん家の勢力も健在で、江東こうとうも乱れていた。

 もっと多くの領主や領地が乱立していて、

 些細なことで主が変わる世で、安全な地へ民を導くということは、口で言うほど簡単なことではなかったはずだ。

 良き領主でも武力で滅ぼされたりしたら、良識などは通用しない世だからだ。


 劉備は彷徨いながら、それでも人心を失わないまま、彼らが安寧して暮らせる地を探しながら歩き続けている。


 どこへ連れて行くのかと問いかけた時、

 分からないと答えた劉備の誠実さに――徐庶は強く、心惹かれたのだ。



『貴方が私を見て……私達の軍を見て、このままではいつか必ず大きな犠牲が出るから、軍師を持って欲しいと助言してくれた時、私がどんなに嬉しかったか分からないだろうな。徐庶殿。

 孤独が癒やされたような気がしたよ。

 そうして共に考えながら歩んでくれる者がいたら、きっと彼らをどこか良き場所へ導いてやれる』


「劉備殿が……」


 徐庶の話を黄巌こうがんがじっと聞いている。


馬超ばちょう殿もそうなのかもしれないな。優れた武将だけど、それだけじゃない。

 優れた政治家ではないが、自分に付き従う人々の幸せをいつも願ってる」


「……そうだね。信じられないくらい強かったけど。

 ……確かにとても、優しい兄貴みたいな人だった」


「彼は蜀に行って良かったんだ。風雅ふうが

 魏軍がいない涼州なら、きっと馬超殿が連合の長になれば全てが上手く収まったが、父親や一族や涼州の民を惨殺した魏軍と、手を結ぶという道は決して選ばなかったはずだ。

 袁紹えんしょうや曹操と、劉備殿が手を結ばなかった理由と同じだ。

 彼なら必ず劉備殿の苦悩を理解し、支えられる」


 黄巌こうがんは小さく笑んだ。


「……ありがとう。俺も彼のことは少し気がかりだったから。

 お前にそう言ってもらうとなんだか少し、気が楽になったよ」


「しかしそうなると韓遂かんすい殿が討たれたことは、魏軍にとっては余計に痛い」


 黄巌が頷く。


「魏の利点にならないということは、よく分かったよ。

 韓遂殿を魏軍が殺すのは、どう考えてもおかしい……」


「逆に考えると金城きんじょうを襲ったのは、涼州と曹魏をぶつけたい者の仕業という見方も出来る」


「涼州と曹魏を……? 元直げんちょく、それは……」

 徐庶は首を振った。

「起こったことを反芻し、消去法で言っただけだよ。

 今は大陸は三国に大きく分かれているけど、潜在的にはもっと多くの勢力が存在する。

 涼州だって三国に対してはその一つだ。

 彼らは潜在的というより、もっと明確な存在感のある存在だけど」


「……。君は、例えばどんな存在を思い浮かべてる……?」


「見えてこない。もう少し何かが分かれば、見えて来そうな気はするけど。

 ただ……黄巾こうきんの乱の頃は、首領の張角ちょうかくと面識もない人間が漢王朝に対する反意の証として、黄色の纏いに身を包んで各地で一斉蜂起して活動していた。

 彼らの多くは蜂起に大義は持たなかった。世を乱す流れを生み出す役割を負っていたから。

 涼州に住む君はあまり分からないかもしれないけど、涼州は三国全てに影響を及ぼす存在だ。

 どこかの国と手を結べば、他の二国の戦線に必ず影響が出る。

 だから三国は、いずれも他国と涼州との接触は警戒してる」


「俺達は曹操がまだ戦場に出て来た頃や、劉備殿が成都せいとに来る前は、誰も涼州に興味なんか持ってなかったのに、何で今になってちょっかい出してくるんだって思ってたよ」


 徐庶じょしょは瞳を伏せる。

 本当にそうだ。


 時代が進んだ。


 そう言うのは簡単だけど。

 時代が進み、戦の段階が進み、涼州に目が向き始めた。

 そこに住まう者にとっては、耐えられないことだ。

 戦乱の世に深く関わらず独立を守るための防衛だけを行っていたのに、三国で遣り合うだけ遣り合ったら、次は涼州だと目を向けられて狙われるなんて。


「だけどそう考えると、三国いずれも他国と涼州が結ぶことは望まないなら、裏返せば戦にもなっては欲しくないんだ。

 例えば曹魏が涼州と戦をすると、陸伝いの蜀は自ずと兵を送る選択を迫られる。

 涼州が曹魏と結んでも奪われても、蜀は脅威だ。

 呉はそれより遠くても、蜀が涼州方面につきっきりになると、赤壁せきへきの戦いの余勢に乗ってこの際江陵こうりょうまで取ろうという声も高まる。江陵を取られると呉軍の影響力があからさまに中原に及ぶ。それは曹魏は困るんだ。

 曹魏が涼州を得たいと思って侵略したとして、最終的に呉が動くことになれば意味は無い」


「だから国に属さない者達とお前は言ったんだな」

「姿は全く見えないけどね……」


 彼は顔を上げた。


元直げんちょく?」


風雅ふうが。ここで少し待っていてくれるか。もう少し村を見て来る」

「俺も行くよ」

「いや……村というか……犠牲になった人だ。

 敵の姿は見えなくても、敵の残した傷跡を見れば、何者がやったか分かることがある。

 傷を見て矢傷か、剣傷か、分かるようにね。

 この火の手の勢いでは、手がかりがあまり残ってるとは思えないけど」

「なら、尚更手伝うよ。二人して手分けして……」

「いや。君は……」

 黄巌こうがんは徐庶を見た。


「……辛いと思うから」


 徐庶が何を言おうとしているのか察して、黄巌は小さく笑った。


「そうか、ありがとう。

 けどいいんだ。俺も魏軍に焼かれた村の惨状は見たことあるし、このご時世旅をしていると道ばたで人の死体をよく見るよ。獣にやられたか、人間の賊にやられたかはすぐ分かるんだ。それこそ傷跡が違うから」


「黄巌……」


「嫌な言い方だけど、この五年くらいで随分人の死体に慣れてしまった。

 だから大丈夫だ」


 徐庶は黄巌を抱き寄せると、背を撫でた。


「わかった。……無理はするなよ」


 二人は歩き出す。

 すぐに徐庶が立ち止まった。

「どうした?」

「火を放たれたなら、村人は逃げたんじゃないかと思うんだけど、外に遺体がないなと思ってたんだ。これを……」

 地に染みがある。

 夜闇でも分かった。


「血の跡だ」

「引きずった跡がある」


 徐庶は指差した。

「向こうまで続いてるみたいだ」

 跡を追っていくと、村の脇、森林へ続く場所に答えがあった。

 土が盛ってある。

「お墓だ。誰かが道ばたの遺体を埋葬したんだ」

龐徳ほうとく将軍達かな……?」

「そうかもしれない。でも、その割には大勢が入ってきた足跡などの痕跡はあまりないんだけど……」


 ぽつり、と来た。

 二人が同時に空を見る。


「雨が降ったら更に痕跡が消えてしまう」


 急いで村を歩き回った。


元直げんちょく


 向こうで声がした。


 黄巌が家の側に立っている。

 そこも焼かれて屋根から崩れ落ちていたが、比較的家の形は残っていた。

 潰れて焼け焦げた木の間に人の足が見えた。

 燃えてない肌色が暗がりに浮かび上がるように見える。女性の足だ。

 

「土壁が倒れて覆っていたから燃えなかったんだ」

「どかせるかな?」


 二人で力を合わせると動きそうだった。

 奥へと押しやると、土壁に埋もれていた女の身体はやはり燃えていなかった。

 死んではいる。

 うつ伏せに倒れている。

 徐庶がしゃがみ込み長い髪をそっとよけた。思った通り、首の後ろに深い剣傷があった。

 慎重に動かし、気付く。

 

風雅ふうが。後ろを見ていて。……頼む」

「……分かった」


 黄巌が背を向けるのを見て、女の身体を引き上げる。

 覗き込んだ喉元。

 横に切り裂かれている。

 徐庶は女をうつ伏せに戻し、家を出た。

 埋葬してやりたかったが時間がない。

 覆い被せてやるようなものも見つからず、自分の外套を脱いでバサリと上から被せ、身体を隠した。

 出来たのはそれだけだ。


「何かあった?」


「断言は出来ないけど。やはり賊の類いじゃない気がする。

 あの遺体は致命傷は喉の切り傷だけど、首の付け根を突かれて留めを刺されてる。

 暗殺を生業とする【闇の剣】は、よくああいう殺し方をするけどはっきりは分からない」


「外に出た遺体は埋葬してくれた人がいるようだが、やはり家の中で焼けたものが多い気がする。とすると略奪より、殺しが目的ということ?」


「……そうだと思う。家の中の遺体が入り口に近い。

 先に火をつけられたから逃げようとしたんだと思う。それを見越して外で待ち、殺したあとに家の中に投げ込んだ」


「逃げることも許さないなんて……一体どんな残虐な奴らなんだ。

 さっきのだって……、女だぞ!」


 黄巌こうがんが吐き捨てるように言い、拳を握りしめる。

「……。金城きんじょうが襲われたと言ってたよね」


「その途上にある村も、こういう状態だったと聞いてる。

 少人数でも火はつけられるけど、一日の内にここまで周到な殺しは無理だ。

 それに金城には涼州騎馬隊だって守備についてた。攻略しにくい城なんだ。

 だから龐徳ほうとく将軍達は、魏軍の軍事行動だと疑わなかった。

 さっき『国を持たない人間達』の話をしたけど、いくら国に属さなくてもこんなことが可能な連中なら、それなりの手勢であることは間違いない。

 そういう者がいたら目についたはずだ」


「だから慎重に目撃者を殺したのかもな……」


 徐庶は額を押さえた。


「……風雅ふうが。俺は……今から魏の陣に戻る。

 君もついて来てくれないか。涼州の人として。

 魏軍も今、涼州騎馬隊の襲撃に驚いている状態だから、詳細を話してくれる人間は一人でも欲しいはずだ。

 君に何かしたりはしないと思うし……。


 ……。いや。俺が絶対に君を守るから、来て欲しいんだ。

 

 本当は俺がこのまま金城きんじょうへ行って、韓遂かんすい殿の遺体を確認し報告したいんだが、もう南で戦闘が始まってる。まずはこれを止めなきゃならないから戻らなければならない。

 君たちが見たことを、信じて話すしかない。

 でも涼州騎馬隊の意図ではなく、何者かが涼州と曹魏に戦をさせようとしたことなら、司馬懿しばい殿や賈詡かく殿は涼州騎馬隊とも停戦するはずだ。

 君を虜囚の立場には、絶対に俺がさせないから」


徐庶じょしょ


 何という力のない言葉だろう、と徐庶は思う。


 確かに総大将司馬懿に呼ばれて軍師という立場にあるが、それは今回の戦限りのことで、長安ちょうあんに戻れば軍において確かな地位があるわけではない。

 司馬懿や賈詡が黄巌こうがんを情報源として捕らえようとした時、一体こんな無名無冠で彼らとどこまで戦えるというのか。

 それでも言うしかなかった。

 情けない言葉でしかなかったが、目の前の黄巌は頷いてくれた。


「いいんだ。元直。俺もこのまま涼州と曹魏が、お互い望んでもないのに殺し合って欲しくない。涼州騎馬隊だって今、戻って情報が伝われば戦いをやめるはずだ。

 涼州騎馬隊が全滅するのは見たくない。

 そのためなら魏の陣に行くよ。むしろお前がいてくれて良かったんだ。徐庶。

 じゃなきゃ、魏軍に俺は近づくことも出来なかったんだから。

 お前がいれば話は聞いて貰える。

 俺の命は喜んでお前に預けるよ」


風雅ふうが……、ありがとう」

「雨が強くなる前に行こう」


 二人は歩き出した。


 命を預ける。

 本当にそうだ。

 自分は黄巌の命を今、預かったのだ。

 徐庶は自分の手の平を静かに握りしめた。

 かつてもっと気楽に、愚かな軽薄さで人の命を預かり、扱っていたことがある。


 あれは間違いだったと気付いた。

 本当は人間の命は、これほど重いものなのだ。


 黄巌こうがんの命を預かり『君を必ず守る』と約束すると言うことは、いざとなれば司馬懿や賈詡と斬り合う覚悟があるということだった。

 

 郭嘉かくかが言った、

 君はいずれ魏兵か蜀兵に殺される運命だという言葉を思い出した。

 どちらかを殺すことを躊躇えば、必ずどちからに殺される。


 黄巌は涼州の人間だ。

 友達だった。

 それなら自分の命を懸けて運命と戦う意味がある。


風雅ふうが。君は好きな人がいる?」


 馬に乗るなり、何を言われたのかと黄巌は首を傾げた。

「一緒に生きたいと思う人が」

 庵で話した時、黄巌は答えなかったが今は答えてくれた。

「いるよ。生涯、この人と生きたいと思う大切な人が」


「そうか。なら……必ず君をその人の許に、俺が帰すよ」


 徐庶が先に駆け出して行く。


 黄巌は振り返った。

 死んだ村。

 焼け落ち、灰となり、灰は雨風がいずれ押し流して行く。


 あと何度春が来たら、この焼き払われた村の跡に花が咲くのかな……彼はそんなことを考えた。


「必ずその人の許に俺が帰すよ、か……」


 徐庶らしくない言葉だった。

 以前会った時は、彼は多くを語らなかった。

 ただ自分は罪人でお尋ね者だから、友情を向けてもらったり親切にされて、感謝してもしきれない、とそんなことだけを語っていた。


 今回涼州に現れた徐元直じょげんちょくは、少し以前と雰囲気が変わった。

 もっと何か背負い込んで、思い詰めてる感じだ。

 折角罪を贖って、都で暮らせるようになったのにどうしてだろうと思う。

 

 多分、徐庶は愛する人がまだいないのだ。


 それが自分の過去に対する罪悪感から、自分には家庭など持つ資格はないなどと思っているのかどうかは分からないが、何かを一人で背負い込んでいる空気は分かった。


 胸が少し痛んだ。


 黄巌こうがんは、自分が何かを背負い込むのは別に辛くはなかったが、

 人が何かを背負い込み、思い詰めている姿を見ると胸が痛んだ。


 愛する人を持たない徐元直じょげんちょくが、

 愛する人の許に君を必ず帰すよと言った時、例え魏軍に関わっていても彼のことは信じようと黄巖は心に決めていた。

そこにあるのはひたすら、優しさだと思ったから。


(力がなくても、戦わなくちゃいけない時がある。

 それと同じなんだ。

 俺は昔から、そんなこと出来ないなら、最初から口にしないと決めてた。

 幸せに出来る自信がないなら、幸せにするよなんて言ってやれない。

 正直だけど狡いやり方だ。

 何も背負ってない。

 

 元直げんちょくの中には大きな不安がある。

 それでもあいつは守り、帰すことを誓った。

 それは背負い込むという優しさだ。

 俺は勝算がないなら何も約束しない)


 もっと大きな人間になりたいと、子供の頃は願っていた。

 いつしかそういう想いを忘れ失って行ったのだ。


(俺も君のように優しい人間になりたいよ。

 側にいる人を、安心させてやれるような)



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