第二話:調チョウワ和

「……朝か」


 ぼんやりと目を開けると、畳の縁が視界に入った。静かだ。あまりに静かすぎて、時計の秒針の音すら風のように聞こえる。


 ふわりと、味噌と焼き魚の香りが鼻をくすぐった。


「おはよう、碧」


 声のする方に目向けると、ご飯を食べている千歳の姿があった。


「そなたが寝返りを打つ音で、目が覚めた。ちょうど小腹も空いてな」


 白米、味噌汁、漬物、そして焼き鮭。……和定食、完璧な朝食だ。


「どんだけ眠りが浅いんだよ……って、え、ご飯食べてる……?」

「うむ。朝は一日の柱なり、とな。しっかり摂るに越したことはない」

「……その朝食、どこにあった?」

「ん? 台所のテーブルに、きれいに用意されていたぞ?」

「――それ、僕の朝ごはんだよ!!」


 千歳は湯呑を置いて、きょとんと目を丸くする。


「なに、そうだったのか? 見事な配置だったので、我への供物かと……」

「そんな供物あるかっ!」


 ◆


「今日は休みか、碧?」

「そんなわけ……って、やば、時間!」


 食器を洗って時計を見た瞬間、心臓がキュッと縮んだ。


 急遽自分の朝ごはんをつくることになり、大慌てで出発の用意を済ます。


「あと15分で1限開始……っ!」

「そなた、あまりに落ち着きがない。扇の柄が曲がりそうだ」

「いや、それ僕のせいじゃないし!」


 トートバッグを掴み、靴を突っかけて玄関を飛び出す。ドアの向こうから、千歳の声が柔らかく追いかけてきた。


「風はそなたを、遅刻から守ってはくれぬぞ」

「名言風に言われても困る!」


 ◆


 教室の扉を開けた瞬間、ほとんどの席がすでに埋まっていた。


「……っと、失礼」


 空いていたのは窓際の二つ並んだ席。そのひとつに、宮代 鏡花が座っていた。


 黒髪を一つに束ねた彼女は、タブレットを覗き込みながら、ちらとこちらを見た。


「おはよ」

「……おはよう」


 軽く頷き返して席に着く。春の陽射しがガラス越しに差し込んで、鏡花の髪がきらりと揺れた。


「またギリギリだったでしょ?」

「セーフ、1分前」

「まったく……。」


 鏡花が不思議そうにジロジロと僕の全身を見回す。


「......道具は?」

「あ....」


 ごっそり忘れてきていた。千歳のせいだ.....


「まったく……。」


 苦笑する。日常の、いつものやりとり。


 一つだけ違うのは、胸の感覚。


 そこには、千歳――父の遺品である蒔絵扇子が収まっている。


“風が吹いた”。


 昨日を境に、僕の中の“普通”は音を立てて崩れ始めた。


 ◆


 講義が終わり、廊下に出たところで、鏡花に声をかけられた。


「ねえ、常盤木くん。今日このあとって予定ある?」

「ごめん、今日はちょっと用事があって。急ぎでバイト先に行く必要があってさ」

「……そうなんだ。そっか、じゃあまた今度でいいや」

「うん。なにかあったら連絡して」


 そう言って別れる。


 彼女が見せたほんの一瞬の沈黙が、なぜか妙に気になったが今は自分のことで手一杯だ。


 ◆


 向かった先は、昔から世話になっている古道具屋「霜垣堂(しもがきどう)」だ。


 古い木造建築の引き戸を開けると、香しい白檀と、埃っぽい紙や木の匂いが混じり合った、独特の空気が僕たちを包み込んだ。


 店内には、年代物の置物や書物、ガラクタと見紛うようなオブジェが無造作に並んでいる。


 一見乱雑に見えるが、不思議と埃一つない。そのどれもが、長い時を刻んだ“物語”を宿しているかのようだった。


 店主の霜垣 鶴代しもがき つるよさんは、僕が幼い頃から店をやっている。長身でがっしりした体格に、白髪交じりの長髪を後ろでまとめている。


 いつも着流しに羽織を崩して着こなしていて、熟練の古物商の雰囲気万歳だ。


 物静かで、一見すると少しとっつきにくい印象だけど、不思議と居心地のいい場所だ。何より、鶴代さんの“物を見る目”は確かで、色んな人からよく何か困ったことがあれば、相談を受けている。


「おう、碧くん。久しぶりじゃないか」


 鶴代さんは、カウンターの奥で壊れた時計を直しながら、ちらりと僕たちに目を向けた。


 その視線が、一瞬だけ千歳に吸い寄せられたように見えたのは、気のせいか。


「こんにちは。……あの、今日はちょっと、奇特な相談があって」

「ほう。碧くんが“相談”とは珍しい。ま、座りなよ」


 雑多な場所に腰を下ろす。


「で、相談っというのは?」


 鶴代さんは皮肉げに笑う。だけど、その口元は少し緩んでいる。


「いや、相談っていうのは、その……百聞は一見にしかず、っていうか……」


 僕は胸元の扇子を取り出した。


 扇を握り、ゆっくりと開く。


 その瞬間、扇子が微かな光を放ち、風と共に、黒髪の少女の姿へと変わった。


 空気が、一瞬で張り詰める。


「――っ!」


 鶴代さんの手が、修理中の時計の上でピタリと止まった。普段は決して表情を崩さない鶴代さんの、憂いを帯びた目が、驚きに微かに見開かれる。


「……驚いたねえ」


 霜垣さんは目を見開いたが、慌てる様子はなかった。


「こりゃあ、何かと思ったけど……付喪神ってやつだね」

「知ってるんですか?」

「まぁ、古物商を長くやってりゃ、一度や二度は似たような話を聞くさ。でも、こうして“顕現”したのを見るのは初めてだよ」


 千歳は、僕の様子を静かに見守っている。


「付喪神、か。……聞いた話だけど、碧くん。長年人の情を受けてきた道具には魂が宿るという。本来は、持ち主に幸福をもたらす“神”の一種だと、言い伝えられているよ。」


 鶴代さんは、カウンターに肘をつき、千歳をじっと見つめた。その眼差しは、好奇心と、長い時を生きてきた者だけが持つ深遠さを湛えている。


「まさか、碧くんの扇子に、それほど深い“情”が宿っていたとはな。……これは、ずいぶん立派な風紋だ」


 鶴代さんの言葉に、千歳は少し驚いたように、けれどすぐに口元に扇を当てて小さく微笑んだ。


「フフ。」


 千歳も満更でもなさそうだ。


 鶴代さんの言葉に、千歳は少しだけ肩の力が抜けたようだった。


 チリン-----。


 店の入り口の鈴が鳴った。


 お客さんが来たようだ。


 ◆


「あの……すみません。聞いていただきたいお話があるのですが……」


 入り口に立っていたのは、僕と同年代くらいの女性だった。素朴でおっとりした雰囲気で、少し困ったような顔をしている。


 彼女は山添 朋美やまぞえ ともみと名乗った。23歳。喫茶店で働いているという。


「実は、祖母が亡くなって半年になるのですが、遺品整理の中に三味線がありまして……」


 朋美さんは、話を続けた。


「思い出の品なので、本当は手放したくなかったのですが、私も弾けませんし、家に置いておいても、埃をかぶってしまうだけなので……」


 彼女は、まるで言い訳をするように呟いた。


「それで、先日一度、思い切って処分したんです。粗大ごみに出した……はず、なんですけど...」


 朋美さんは、まるで信じられないものを語るかのように、声を震わせた。その瞳には、恐怖と困惑がにじんでいる。


「捨てたはずの三味線が、次の日の朝、玄関に、戻ってきていたんです!」


 僕と千歳は、無言で顔を見合わせた。鶴代さんは目線を動かさず朋美さんを見ている。


「家族の誰かが回収したということはないですか?」

「一応みんなに確認しました。だけど、誰も回収してないと.....」


 朋美さんの話は続いた。


 それ以来、夜中に突然、と三味線の音が鳴ったり、誰もいないはずの部屋の家具が揺れたり、妙な現象が続いているという。


「こんなこと、誰に話しても信じてもらえないと思って……でも、ここなら、何か分かるんじゃないかと……」


 彼女は縋るような目で鶴代さんを見た。


「街のはずれに、一風変わった古道具を扱うなんでも屋さんがあると聞いたんです。正直、当てにはしてなかったんですけど、藁にも縋る思いで……」


 朋美さんは、自分を納得させるように呟く。鶴代さんの口元が、わずかに緩んだ。


「なるほど。そういうことかい。……正直な気持ちを、ありがとう。ここに来たこと自体が、もうその三味線との『縁』ということなのだろうね」


 そういった鶴代さんの憂いを帯びた眼差しは、遠い昔の何かを見通しているかのようだった。


 鶴代さんの憂いを帯びた目が、僕に向けられた。


「ちょうどいいし......碧くん。お願い。」


 ……え、僕が?何がちょうどいいんだ?


 突然の依頼に、僕は目を剥いた。千歳も、驚いたように僕の顔を見ている。


「もう、知ってしまったことだし。……それに、その器の“声”を、きっと碧くんは聞けるだろう?」


 鶴代さんは、そう言って、静かに、しかし確かな信頼を込めて頷いた。まるで、千歳の存在も、僕の心の中すら、すべて見透かしているかのように。


 ◆


 鶴代さんの半ば強制的な依頼を受け、僕は千歳と共に朋美さんのアパートへ向かった。


 霜垣堂を出発する直前、鶴代さんはこんなことを言っていた。


「これは余談だけど、物が愛された果てになるのが付喪神。反対に、憎しみの果てになるのが怪異と言うそうだよ。今回は、怪異絡みの問題かもね、碧く。気をつけてね。」


 そんなこと言うなら自分で対応したらいいのに……と思いながらも、僕は千歳と共にリビングの扉を開けた。


 三味線は、リビングの隅に置かれていた。埃一つないその姿は、丁寧に手入れされていたことがわかる、美しい漆塗りの。だが、弦はなく、塗装も少し破れている。


「本当にすみません……」


 朋美さんが何度も頭を下げる。


「大丈夫ですよ。とりあえず、見せてみましょう」


 僕は三味線に一歩近づいた。


「――待て。」 


 千歳の声が鋭く響く。


「その器に不用意に触れるでない、我が所有者よ」

「え?」


 戸惑う僕の前で、千歳がそっと前に出る。そして、三味線に手を伸ばしかけた――その瞬間。


 ベンベンベンベンベベベベン!!


 空気を裂くような、異常に大きな音が部屋を貫いた。絃のないはずの三味線が、まるで怨嗟を込めたような叫びを上げる。風が逆巻き、室内のカーテンが激しく舞い、窓ガラスが鳴った。


「きゃっ……!」


 朋美さんが耳を押さえてしゃがみ込む。


「下がっておれ、二人とも!」


 千歳が手に扇を構え、風が彼女の足元から吹き上がる。風が螺旋状に巻き上がり、三味線の放つ騒音を相殺する。


「この器、寂しさと執着が混じって暴れておる。情が強すぎるゆえに、形を保てぬ……!」


 千歳は追撃を試みようと扇を持っている手を大きく振りかぶるーーー


「待って、千歳!」


 僕は叫んだ。


 千歳の扇がさらに振り上げられたその瞬間、僕の言葉が彼女の動きを止める。


「壊しちゃダメだ……! その三味線、ただ怒ってるだけじゃない。……きっと、何かある!話せばわかる!!」


 直感だった。


 千歳がこちらを見た。その表情に宿る、僅かな逡巡。そして――


「……ならば、聞いてみようぞ。」


 彼女は扇を閉じた。


 次の瞬間、風の中から影が滲み出る。三味線の上に、ぼやけた人影が立ち上がる。


 それは――白髪の老人。朋美さんの祖母の姿だった。


 その影は、三味線を抱え、微かに震えていた。表情は曖昧で、悲しげで、それでいて何かを伝えようとしていた。


「おばあちゃん……?」


 朋美さんが声を漏らす。


「語れ、魂の想いを。我らは、それを聴く用意がある」


 千歳が静かに促した。


 そして、三味線を通して語られたのは――“忘れられること”への恐れと、“遺された者への想い”だった。


 ◆


 風が静まった部屋に、ぼんやりとした光が差し込む。


 三味線の上に浮かぶ面影が、ゆらりと揺れた。


「……朋美はね、ほんとによく私の音を真似してくれたんだよ。小さな手で、見よう見まねで棹を握ってさ。まだちゃんと音になってなかったけど、楽しそうに笑ってたよ」


 優しさを含んだ声だった。けれど、その奥に滲むのは、切なさと寂しさがある。


「でもね、私が寝込んでからは、朋美、三味線に触らなくなってしまったんだね。音も聴こうとしなくなってね。……きっと、辛かったんだろうね。私のことを思い出して、胸が締めつけられるようだったんだと思うよ。それでも……」


 声が揺れた。部屋の空気まで、切なさに染まっていく。


「だけど――まさか、捨てられるなんてね……。それがいちばん辛かったのさ。せめて最後に、気にかけて欲しかった。一度だけ弾いてくれれば……もう少しだけ、頑張れたのにね…」


 空気が震える。言葉は絞り出すように続いた。


「まだ弾けた。もっと弾いてほしかった。――まだ、終わりたくはなかったのよ……!」


 その想いが、まるで喉を詰まらせるように部屋に満ちる。


 朋美さんは、両手で顔を覆いながら、肩を震わせていた。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 涙に濡れた瞳を、ゆっくりとおばあちゃんに向ける。


「わたし、おばあちゃんが使ってたものは全部、きれいに残しておいたんです。でも、あの三味線だけは……触れられなかった……」


 声がかすれていく。


「見るたびに、おばあちゃんの声が聞こえてくる気がして、つらくて、苦しくて……」


「だからって、適当に処分しちゃって……それがどんなに……どんなに酷いことだったのか、分かってたはずなのに……」


 朋美さんおばあさんの姿がそっと震えた。淡い哀しみの風が、部屋をゆっくりと巡る。


 朋美さんの肩が、小さく震えながら、


「……ごめんなさい……おばあちゃん……」


 彼女は、膝をついたまま顔を伏せ、声を絞り出すように続けた。


「怖かったの。その三味線を見てると、おばあちゃんの声が聴こえてくる気がして……毎日、泣いてばっかりで……。でも、本当はわかってた……。寂しかったんだよね……」


 彼女は、そっと三味線に触れる。


「ごめんね……ひとりにして……。最後まで、ちゃんと大事にしてあげられなくて……」


 そして、絞り出すように。


「……ありがとう。ずっと一緒にいてくれて。わたし、ほんとおばあちゃんの音が、大好きだった」


 僕は隣で、その光景を見つめながら言った。


「……正しいやり方はわらないかもしれないけどさ。ちゃんと、お別れをしましょう。」


 朋美さんは顔を上げた。


「……お別れを、ちゃんと……」


「忘れるんじゃない。捨てるんでもない。思い出のまま、大事にして、“ありがとう”って伝えて――そして、見送るんだよ」


 彼女は、小さく頷いた。


 その言葉に応えるように、三味線が一度だけ静かに“ベン”と音を鳴らした。


 それはどこか、ほっとしたような、優しい別れの響きだった。


 ◆


 後日、僕たちは霜垣堂に居た。


「この三味線、引き取ってもらえますか?」


「うん……よく頑張ったじゃないか、碧くん」


 鶴代さんは、三味線をそっと受け取ると、まるで友人を見送るように、丁寧に撫でた。


「……うちにもね、どうしても処分に困った道具がいくつかあってね。ちゃんと“終わらせる”ってのは、持ち主にも、道具にも必要なことだよ」


「だからこそ、最後まで大事にしてあげたいんです。ちゃんと、供養してほしいんです」


「もちろんだよ。一度キレイに整備にして、新しい持ち主にみつけてもらおう。」


 そう言って、鶴代さんは三味線を抱え、奥の保管庫へと歩いていった。


 ◆


 帰り道。


 風が、穏やかに頬を撫でていった。


「……物って、ただの道具だと思ってた。でも、違った。道具にも……があったんだな」


 僕の言葉に、千歳が横で静かに頷く。


「物は“使われる”ことで存在する。そして、“忘れられる”ことで終わる。けれど、想いがそこにあり続ければ……終わることすらできぬ」


「……怖いけどさ。でもそれって、きっと人も同じなんだよな」


「左様。そなたが“聴こう”としたこと……それが何より、器の救いとなった」


「……千歳はさ、もし僕が……もし、使わなくなっても」


「我は、そなたが限り在り続けよう」


 千歳の指先が、風をすくうように動いた。


は、忘れることではなく。想いを形にして、手放すことだ」


 その言葉に、僕はふと千歳の元の姿を思い浮かべる。


「……じゃあ、僕も。ちゃんと向き合っていかないとな。最期まで、ちゃんと。」


 優しい風が、やわらかく吹き抜けた。


 千歳の黒髪が揺れ、静かに空を仰ぐ。


 そして、物語は、またひとつ終わりを迎え――


 新しい風が、吹き始めていた。




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