天音の事情
天音は自宅の最寄り駅方面の電車に乗って、音楽を聴きながらぼんやりと外の景色を眺めていた。
ガタンゴトンと、規則正しい電車の走る音がイヤホン越しに聞こえる。
この日の部活終わり、チューバ担当の同級生、松永弦太から酷いことを言われた天音。しかし、そこまで傷付いたり苛立ったりすることはなく冷静に言い返そうとしていた。
しかし、天音よりも先に理純が弦太に言い返していたのだ。
『弦太ってまともに海藤くんのフルートの音聴いたことないよね。聴いたことがあったら、そんなこと言えるわけない。海藤くんのフルートの音や海藤くん自身のこと、聴こうとも知ろうともしないでそんなこと言うなんて、本っ当に最低』
『それにさ、男子校の吹奏楽部の場合、フルートも男がやるよ。男がフルートやったら駄目とか、そんなルールないよね。一方的に決めつけて海藤くんを侮辱する弦太なんか、大っ嫌い。心底軽蔑するよ』
あまり良くない状況ではあったが、天音は思わず口角を緩めた。
(星野さんって、真っ直ぐな子だな。傘返してくれた時もそうだった)
『えっと、海藤くん、さっき海藤くんがフルート吹いてるの、聞いたよ。何か、音が良かった』
緊張気味で少しぎこちない笑みだったが、理純は真っ直ぐ天音を見てそう伝えてくれた。
(今思うと、多分俺はあの時から星野さんが……)
自分の気持ちを自覚すると、急に体温が上昇して顔が火照った気がした。
(それに、星野さんは……俺の考えを認めてくれた)
『やっぱり、楽しいのが部活の正しい在り方だよね』
天音は以前理純に対してそう言った。
それに対して理純はこう答えたのだ。
『うん。私も、そう思う』
その時の理純は、天音を真っ直ぐ見てくれていた。
この時、天音は少し救われたような気がしたのだ。
(だから、星野さんには言えるような気がした。俺の心の奥底にある部活に対する本音とかを……)
『俺、唄山学院とか強豪校で吹奏楽続けるよりも、音宮みたいにコンクールは基本的に地区大会ダメ金で、そこまで強豪校じゃないところで部活楽しんだ方が絶対に良いって思ったから』
天音はこの日理純に対して心の奥底にある本音の一部を吐露した。
(でもあの時の俺、あんまり余裕なかったから、星野さんを怖がらせたかも)
天音はふうっとため息をつき苦笑した。
気が付けば、電車は自宅の最寄り駅まで後一駅になっていた。
(それにしても、多分松永も星野さんのこと好きだよな。今日の松永、星野さんは俺のだ、絶対に渡さないって言ってるみたいだったな)
天音はフッと笑う。
(俺も負けないよ、松永)
♫♫♫♫♫♫♫♫
「ただいま」
天音は自宅に帰った。
玄関のドアを開けた瞬間、カレーの匂いが鼻を掠めた。
今日の夕食はカレーのようだ。
手洗いうがいをしリビングに入ると、専業主婦の母親が夕食を作っている最中だった。
「お帰り天音。ご飯もうすぐ出来るから、制服着替えてらっしゃい。
「分かった」
天音はそう答え、すぐに二階にある自室へと向かう。
自室に入る前に、『Mai』と書かれたプレートが吊り下げられた部屋のドアを軽くノックする。
中から「はーい」と返事があったことを確認し、天音はその部屋へ入った。
「天音、帰って来てたんだ。お帰り」
「ただいま、姉さん。今帰って来たとこ」
海藤舞。天音の姉である。現在高校三年生だ。
ショートヘアで、顔立ちは天音と少し似ている。
舞はまだ制服から着替えていなかった。
天音が通う音宮高校とは違う制服である。
「姉さん、制服シワになるって母さんから言われなかった?」
恐らく舞が帰って来たのは天音よりも一時間以上前だろう。
今になってもまだ制服姿の姉に、天音は苦笑した。
「いや、だってさ、もうすぐ
舞は穏やかだが楽しそうな表情である。
舞は時音学園高等学校という私立高校に通っているのだ。
現在舞は茶華道部に所属している。
「……そっか」
天音は一瞬だけ複雑な表情になったが、すぐに穏やかな表情に戻る。
「そうだ姉さん、母さんが晩ご飯もうすぐだって言ってた。早く着替えて下に降りた方が良いかもよ」
天音はそれだけ言って舞の部屋から出た。
天音の部屋と舞の部屋の間には、物置がある。
天音はそっと物置を開けた。
そこには譜面台、メトロノーム、チューナー、そしてフルートがしまわれたケースがあった。
それらには、『Mai』とシールが貼られてある。全て舞のものなのだ。
去年の六月以降、それらは日の目を浴びていない。
(姉さんが時音学園の吹奏楽部を退部してもうそろそろ一年が経つのか……)
天音の目に影が生じる。
(姉さんが今楽しそうだからこれで良かったのかもしれないけど……)
天音はグッと拳を握る。その拳は震えていた。
(姉さんを追い込んで潰した時音学園の吹奏楽部を……俺は許せそうにない……! 強豪校だからって、そこまでする必要あるのかよ……!? たかが部活ごときで……!)
天音は激しい怒りに支配されていた。
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