第42話『残された熱、残された言葉』
朝の光が、障子の隙間から静かに差し込む。
昨日までの、何もかもを蕩かすような熱の余韻が、
薄く、けれど確かに空間に漂っていた。
カガリはまだ、薄紅色のシーツの中――
雅の支配人室の仮ベッドで身を横たえていた。
肌の奥に残る熱も、唇に滲んだ甘い感覚も、
すべてが夢の名残のようで、うっとりとした幸福感に包まれていた。
――あれから一週間。
カガリは支配人の業務に戻っていた。
支配人の一日は比較的、遅い。
朝に最後の客を見送ってからツカサの部屋に戻り。
ツカサと共に昼まで眠る。
起きたらツカサと愛情あるスキンシップを重ねたあと、昼食。その後夕方まで、ツカサとの生活を送る。
夕方になればまたツカサの部屋から雅に向かい、支配人として生きる。
けれど――
今日は、その“朝”が少し違っていた。
カガリが目を覚ましたとき、
いつもならその大きな手で抱き寄せてくれているツカサはもうすでに、起き上がっていた。
部屋の片隅で、淡々と身支度を整える音。
シャツの生地が肩を滑る音、ベルトを通す音、腕時計のバンドを締める小さな金属音。
その一つ一つが、カガリの眠気を少しずつ現実へと引き戻していく。
「……少し、出る」
ツカサは、背中越しにそれだけを呟いた。
ボタンを手早く留める指は、いつもよりどこか急いていて、
けれど顔を見せたとき、
その表情には“戦闘”前のような静かな覚悟が宿っていた。
カガリは、シーツの中で小さく身じろぎしながら、
その言葉にぴくりと反応する。
「……私も行きたい」
思わず、口から漏れる。
昨日の熱の余韻がまだ胸の奥に残るまま、
ただ隣にいたい――そう願ってしまう。
だが、ツカサは即答した。
「ダメだ」
それはまるで、ぴしゃりと扉を閉じるような響きだった。
だがその声色には、決して冷たさはなかった。
何かを必死に押し隠すような、
それでいて、カガリだけは守りたいという、やさしい突き放し――
そんな不器用な愛が滲んでいた。
「でも、どこに……」
カガリが食い下がると、
ツカサはほんのわずか口元を引き締めて、
「……少し、野暮用だ。すぐ戻るから」
と、静かに言い放つ。
『野暮用』――
その言葉の裏に何かがあることを、
カガリは直感的に悟った。
ツカサが本気で『野暮用』と言うとき、
それは決して他人事や、単なる用事で終わるものじゃない。
(……嘘は下手な人なのに。
隠していることがあると、すぐに表情に出る)
彼はベルトを締め、腕時計をはめ、
最後に一度、部屋の中をゆっくりと見回した。
そのまなざしは、まるでカガリの存在ごと脳裏に焼き付けているようだった。
「……俺が外に出てる間、ここで待ってろ」
短く、しかしどこか名残惜しげに。
ツカサはカガリの方へ歩み寄ると、
シーツごと包み込むようにカガリを抱きしめた。
その抱擁は、どこかいつもよりも強い。
全身を覆い尽くすほどに、
“お前だけは離したくない”という意思が、
無言のまま伝わってきた。
(なにか、大きなことが起きる前触れのような……)
カガリは、ツカサの背中に腕を回す。
その逞しい背中――
昨日、何度も自分を包み込み、守ってくれた背中。
今も、その体温にすがるように抱きしめ返す。
「今日はせっかくのお休みなのに……。
……私、本当にここで待ってればいいの?」
その問いに、ツカサは短く「大丈夫だ」と答える。
それは、決意と優しさが同時に滲む声だった。
一瞬、カガリの中に、
不安と寂しさ、そして信頼が、
入り混じった複雑な感情が湧き上がる。
ツカサの指が、カガリの頬をそっと撫でる。
その動きには、言葉にできないほどの愛情が込められている。
「ちゃんと、帰ってくる」
それだけ言い残して、ツカサはドアを開けて出ていく。
扉の閉まる音が、
カガリの心臓に深く沈む。
(本当に……ただの“野暮用”なの?)
シーツの中で体を丸める。
残された余熱と、ツカサの香りだけが、
彼の不在を慰めてくれる。
(ツカサさん……大丈夫、よね?
あなたの“野暮用”が、どうしても危ない物に聞こえてる……)
シーツをぎゅっと握る手が、かすかに震えていた。
でも、
心の奥底には、信じたいという想いもあった。
ツカサはいつも、何かを守るときだけは決して自分を見失わない。
どんな修羅場に立たされても、
決して帰る場所を見失わない――
そう、カガリにはわかっていた。
だからこそ、
彼の帰りを、この場所で待つことが、
いまの自分にできる“最大の信頼”なのだと。
カガリは、ゆっくりとシーツから身を起こし、
障子の向こうに小さく呟く。
「……ちゃんと、帰ってきて」
その声は、朝の静けさに溶けて消えた。
けれどその願いだけは、
きっと、ツカサの背中を強く押す力になるはずだと信じて――
カガリは、しばらくの間、じっとその場に座っていた。
ふたりの熱が、どれほど遠く離れても、
きっと、また重なり合うことを信じて。
朝の光が、静かに部屋を照らしていた。
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