第28話『リムジンの中の誓い』

 朝の空気は澄んでいた。

 窓辺に差し込む日差しが、静かなリビングをゆっくりと照らしていく。

 その静寂の中、カガリは鏡の前に立ち尽くしていた。


 ――スーツ。


 その単語は、カガリの人生でほとんど縁がなかった。

 遊女時代は華やかな打掛に、朱と金糸が踊る着物ばかり。

 支配人になってからも、和装を崩したことは一度もない。

 きらびやかさも、しなやかな布の感触も、“女”という鎧を着ることも、すべてあの世界での常識だった。


 けれど、今朝――

 ツカサがコンシェルジュに電話をかけ、「女物のスーツを一着。サイズは……」と淡々と告げたとき、カガリは自分の新しい一日が始まる予感をどこかで感じていた。


 それは、たった数十分で叶えられた。

 統樹ブランドのオーダーメイド。

 見た目はシンプルだが、細部に凛とした品と遊び心が漂う。

 ジャケットを羽織った瞬間、背筋がすっと伸びるような不思議な感覚。

 手首、ウエスト、バスト――すべてが吸い付くようにぴたりと馴染んでいる。

 (……寸法、いつの間に測られていたの?)


 驚きとともに、袖口を撫でる。

 和装とはまったく違う、洋服独特の“密着感”――だが、窮屈さは一切ない。

 むしろ包まれているような、守られているような、そんな安心感。


「スーツなんて……はじめてよ」


 小さく呟くと、胸の奥がとくん、と跳ねた。

 鏡の中には、見慣れない自分――けれどどこか誇らしげで、今までよりも少し強い眼差しをした“女”が映っていた。

 ジャケットの肩はほどよくシャープで、袖先まで細やかな仕立て。

 インナーシャツの淡いアイボリーが、ほんのりと素肌を透かして見せる。

 スカートは長すぎず短すぎず、歩けばふわりと軽やかに揺れる。


 初めて履くヒールはまだ不慣れで、何度もつま先を確かめるように歩いた。

 そのたびに、ふくらはぎから太ももへと布地がなじみ、まるで新しい自分が一歩ずつ形になっていくようだった。


(変わったわね、私……)


 ほんの一日前、料亭で佐藤に連れられていた自分が、まるで他人のように思える。

 ツカサの隣で、こうして新しい服をまとって立つだけで、心の芯から震えるほどの新鮮な自信が生まれてくる。


「似合ってる。そっちもいいな」


 ツカサがリビングのソファに腰掛け、足を組みながらぶっきらぼうに言った。

 しかし、その目にはかすかな驚きと、確かな熱が宿っていた。

 カガリはその視線に気づき、思わず顔を赤らめる。


「……ありがとう。でも、まだ少し落ち着かない」

「落ち着かなくていい。慣れるな。たまに緊張してるくらいが色っぽい」


 カガリは苦笑し、鏡越しにツカサの顔を見た。

 今までの人生で“色っぽい”と言われることには慣れていた。

 だが、今日のそれは、今までとまったく意味が違った。


(私は今、“誰かの女”じゃない。“自分のため”に、ここに立っている――)


 ジャケットの裾をそっとつまみ、身体をひねってみる。

 鏡の中の自分が、小さな微笑みを浮かべる。

 柔らかさも、気高さも、すべてを一着の中に閉じ込めて。


「歩いてみろよ」


 ツカサの声が響く。

 促されるままに、リビングをゆっくりと歩く。

 ヒールの音がフローリングを軽く叩き、スカートの裾がリズムを刻む。

 スーツの生地が、カガリの身体に合わせて滑らかに馴染んでいく。


 窓の外には、東京の街並み。

 どこか遠い世界に感じていた都会の風景が、今日は自分の一部のように思えた。

 強く、美しく、そして新しい。


 歩き終え、カガリはツカサの前に立つ。

 彼の視線が、やや熱っぽく自分の全身を舐めるように見つめていた。


「……本当に似合ってる」


 たったそれだけの言葉に、心がどこまでも満たされていく。

 和装の煌びやかさとは違う、“信頼”や“期待”のこもった視線。

 カガリは思わず、ツカサの隣にそっと腰掛ける。


「今日からは、ツカサさんの隣に立つ女として――そう思って、頑張る」


 ツカサは、ただ静かに微笑んだ。

 手を伸ばして、カガリの頬に触れる。

「……無理はすんなよ。背伸びしなくても、お前はもう十分強い」


 その手の温もりが、何よりも力強く、カガリの背中を押してくれた。


 “新しい自分”――

 その姿を、窓の外の朝日に重ねて、カガリはそっと目を閉じた。


―――


 高級マンションの地下駐車場は、静まりかえっていた。

 コンクリートの無機質な壁に、早朝の冷たい照明が淡く反射する。

 その中心に、ひときわ存在感を放つ漆黒のリムジンが、静かに待機していた。


 カガリはエレベーターを降りると、戸惑いと緊張を胸にその長い車体に近づいた。

 昨日までは、こんな世界が同じ空の下にあることすら信じていなかった。

 ツカサが軽やかにリムジンのドアを開け、彼女をエスコートする。

 運転手は既に待機していて、一切の無駄のない所作で頭を下げる。

 後部座席――厚いガラスと遮音の壁で守られた、完全なプライベート空間。

 カガリが緊張して足を踏み入れると、ツカサもすぐ隣に座った。


 座席は広く、肌に吸い付くような柔らかなレザー。

 微かなレモングラスの香りが、緊張をほぐすように漂っている。

 車内の照明は落ち着いたアンバー色で、どこか舞台の幕間のような非日常感に満ちていた。


「あれ?でもここから5分くらい、よね?」

 カガリは思わず口にした。

 窓越しに見える街の輪郭は、昨日ツカサに連れてこられたときとほとんど変わらない。

 本社ビルはすぐ隣。

 これほど大袈裟に移動する理由が、まだピンとこなかった。


 ツカサは窓の外を一瞥し、ゆっくりと首を振る。


「プライバシーのあれこれだ。週刊誌の目も光ってるだろうし。あと、徒歩で通勤するよりも、こっちのほうが様になるだろ?」


 リムジンが静かに発進する。

 わずかな揺れもなく、車内は外界と完全に切り離されている。

 カガリは自分の手を膝の上に揃え、ツカサの横顔を盗み見る。


「あと、さっき言ったこと、冗談じゃねぇから」


 その言葉が、車内の静けさを破るように響いた。

 ツカサの声は低く、真剣だった。


「……、よ、嫁候補のこと……?」


 カガリの声は自然と小さくなる。

 鼓動が速まるのが、自分でも分かった。

 夢みたいな言葉だった。“嫁候補”――

 今までの人生で、そんな言葉をかけられることがあるなんて、想像したこともなかった。


 ツカサは、正面を向いたまま続けた。


「嫌か?……思ったより本気になっちまった」


 その声音には、遊びの余地が一切なかった。

 カガリの胸に、熱がふわりと広がる。

 しかし、嬉しさが込み上げるその一方で、心の奥底から溢れる不安が口をついて出る。


「でも、私……元遊女だし、あなたと釣り合わない……」


 本当は、誰よりも今この瞬間が嬉しくてたまらないはずなのに。

 心の奥で育った小さな恐怖――

 “自分はツカサにふさわしくない”

 その思いが、どうしても言葉になってしまう。


 リムジンはゆっくりと朝の街を進む。

 窓の外には、ガラスと鋼鉄の高層ビル群が流れていく。

 太陽がビルの隙間から差し込み、時折車内に金色の筋を描いた。

 その光が、カガリの頬や髪に柔らかく当たる。


 歳も一回り離れているし、身分もまるで違う。

 自分は、遊郭「雅」で生きた女。

 傷も痕も、穢れも背負っている。

 彼は、世界でも限られた一握りの権力者――

 その隣に立つには、あまりにも自分は遠すぎるのではないか。


 カガリは無意識に指を組み、膝の上でぎゅっと握りしめていた。

 言ってしまったあとで、なんだか泣きそうなほど不安になってくる。

 だが、ツカサは黙ってカガリを見つめていた。

 言葉にせずとも、その視線に力がこもっているのが分かった。


 やがて、ツカサがゆっくりとカガリの手に自分の大きな手を重ねた。

 指先から伝わる、温かく力強い体温――

 それが、今にも崩れそうなカガリの心を優しく支えた。


「……カガリ」


 ツカサの声は、思った以上に柔らかかった。

「お前がどんな過去を背負ってきたって、そんなもんは俺にとっちゃ大した問題じゃねぇ」

「肩書きや歳の差や、世間の目なんてどうでもいい。……“お前自身”を見てるんだよ、俺は」


 言葉の一つひとつが、カガリの胸の奥の氷を溶かしていく。

 それでも、すぐに信じきることはできない。

 今まで、幾度も裏切られ、利用され、捨てられてきたから。


 けれど、ツカサはそのまま、カガリの手を優しく包み込んだ。

「……お前は、俺の隣に立てるだけの女だ。いや――“隣にいなきゃ困る女”だよ」


 その言葉が、車内の空気を一変させる。

 いつしか車の中は、世界で一番あたたかな場所になっていた。


 カガリは小さく息を呑み、ツカサの顔を見上げる。

 彼のまなざしは、昨日ベッドで何度も自分を包んだときのそれと、少しも変わっていなかった。


 “信じていいの?”


 小さな声が心の奥から響く。

 でも、ツカサはすべてを見透かしたように、もう一度、カガリの指をぎゅっと握った。


「本気だよ。……不安になるなら、これからいくらでも証明してやる。だから、もう一人で泣くな」


 カガリは、どうしようもなく、涙があふれそうになった。

 今まで、どれほど強く生きてきても、こんなにも“救われた”と思ったことはなかった。


―――


 リムジンの中は、どこまでも静寂だった。

 高級車特有の分厚い防音ガラスが、外の騒音――朝の都心の喧騒、クラクション、スーツ姿のビジネスマンたちの小さな叫び――それらをすべてシャットアウトしていた。

 聞こえるのは、かすかに空調が巡る音だけ。それさえも、研ぎ澄まされた車内では空気の流れとして感じるほどだった。


 カガリはふと、窓の外に目をやる。

 都市の高層ビル群が、まるで無声映画のセットのように滑らかに流れていく。

 昨日までの人生には、想像もつかない世界。

 けれど、こうしてツカサの隣に座っていると、不思議と「今ここに居る自分」が嘘じゃない気がしてきた。


 ツカサは広い車内で足を組み、顎に手をあてていた。

 長いまつ毛が伏せられ、うっすらと前髪がその頬にかかる。

 意識が遠くに飛んでいるような――深い思索のなかに没頭しているその横顔。

 高級なスーツが彼の身体に完璧に馴染み、組んだ脚の角度まで絵になる。


 (雑誌のグラビアモデルみたい……)


 目を離せなくなってしまう。

 この人の指先に触れた夜、腕の中で眠った朝、朝日に溶けるようなキス――

 そんな記憶が一瞬で胸の奥に蘇り、カガリは自分でも驚くほど、ツカサに惹き込まれていく。


 衝動的に、彼の頬にかかる前髪を指先ですっと梳いてみたくなった。

 もう一度、あの端整な唇を奪いたい――

 そんな誘惑をぐっと飲み込んで、カガリは代わりに自分の太ももをぽんぽんと叩いた。


「……ツカサさん。空いてるわよ、ここ」


 唐突な声に、ツカサの眉がぴくりと動く。

 足を組み直し、ようやくカガリの方へ視線を向けた。


「は?」


 思わず目を丸くするツカサに、カガリはにっこりと微笑み返す。

 堂々と、けれどどこか子供のような無邪気さを携えた笑み。


「膝枕。どう?」


 自分の太ももを軽く撫でてみせる。

 スーツのタイトスカート、その下の黒いストッキング越しに柔らかな感触が伝わる。

 普段は着物で包まれている自分の足が、今はすこし大胆に彼の目にさらされている。

 思いがけず、自分が“女”としてそこにいることを、改めて意識してしまう。


「ツカサさんに、してみたいなって思ってたの。……膝枕」


 車内に沈黙が落ちる。

 ほんの数秒だったが、二人の間では長い沈黙に感じられた。


 やがてツカサが、あきれたように鼻を鳴らした。


「……それは、後で執務室でしてもらうか」


 その一言に、カガリは自分の頬が一気に熱くなるのを感じた。

 執務室――あの男の“本拠地”だ。

 自分の太ももにツカサの頭をのせて、静かな部屋で彼を休ませている光景。

 想像しただけで、心臓が高鳴る。


「いいの……?執務室で、そんなことして」


 震える声で問いかけると、ツカサは小さく肩をすくめる。


「まあ、鍵閉めときゃな。人払いもできるし」

「でも、見られたら――」

「それはお前が隠してくれ。スカートでな」


 からかうような声。

 カガリはたまらず頬を膨らませる。


「……っ、意地悪」

「そういう顔、好きだよ。意地悪されてとろけそうな顔」


 ツカサの目が細くなり、わずかに口角が上がる。

 その声音に、優しさと独占欲が混ざっていた。


 カガリは、無意識に目が潤んだ。


「……ツカサさんって、ほんとずるい」

「そういう職業だからな、俺。女を着飾らせて、悦ばせて、惚れさせる」


 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。

 ツカサが自分に向ける視線の意味が、少しずつ分かり始めている。


「……もう……」


 思わず、ツカサの手を握った。

 指の温もりが、皮膚の奥にまで溶けていく。


 リムジンはやがて、減速を始めた。

 地下の専用エントランスが近づくと、重厚なガラスドアが無音で開かれる。

 温かく澄んだ朝の光と、どこか緊張感のある空気が流れ込んでくる。


 ツカサがちらりと時計を見て、静かに言った。


「……いくぞ」


 カガリは、少しだけ深呼吸して微笑む。


「はい。……旦那様」


 その冗談めいた呼びかけに、ツカサは本気で顔を赤くした。


「おい、まじで言うなって」

「ふふ、顔赤いわよ?」

「――うるせぇ」


 そんな小さなやりとりにも、どこか“家族”のようなあたたかさが滲んでいた。


 ドアが開く。

 冷たい外気が頬を撫で、車内と外の世界をきっぱりと分かつ。

 けれど、そのとき二人の指は――しっかりと絡められたままだった。


 これから始まるのは、権力と競争と男たちの世界。

 けれど、もう怖くはない。

 隣にツカサがいる限り、どんな場所でも“自分”でいられる。


 カガリは、その確信を胸に、ゆっくりと一歩を踏み出した。

 高層ビルの谷間へ、朝の光のなかへ。

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