第20話『甘い罠と、優しい獣』
ツカサの腕の中で静かに息を吸い込む。
首筋にそっと顔を寄せて、彼の体温や鼓動の震えを敏感に感じ取る――
それは十年以上も男の体の熱を“商売道具”のように割り切ってきた自分には、あまりに新鮮で、あまりに戸惑いに満ちた経験だった。
ツカサの手が、背中でゆっくり動く。
ただ守るだけのぶっきらぼうでも誠実な手。
けれどその手のひらの奥に本能と理性のせめぎ合いが、まるで火花のように揺らいでいるのを、カガリは本能で感じ取っていた。
(この人、理性で押しとどめてるんだ――)
女の肌に触れれば、男はみんな欲望を隠さないものだと思い込んでいた。
遊女として生きてきた年月は男の“本能”としか、向き合わせてくれなかった。
腕の中で酔わせて夜ごとに抱かれ、
“礼”も“愛”も“感謝”も、すべて体を重ねることで表現してきた。
それ以外の方法を知らないのは恥ではなく、むしろ当然だった。
――でも、ツカサは違う。
彼の腕はたしかに、男としての本能で熱を持っていた。
だが、カガリがいま。――“誰でもない女”としてそこにいること、
壊れそうな心の輪郭ごと受け止めていること、
その理性が腕の力加減や呼吸の仕方、ひとつひとつに現れていた。
(……この人なら、たぶん、私を本当に守ってくれるのかもしれない)
そんな思いがカガリの心の奥底で、じわじわと灯りをともす。
不安も疑いもすべてが。一瞬だけ――霧散しそうになる。
それは「一過性」なのか。それとも「運命」なのか――
答えは、まだ分からない。
ただ彼の呼吸に重なる自分の息が、やけに心地よかった。
――お礼がしたい。
でも、自分が知っているお礼は、「体」を差し出すことだけ。
この腕で包むこと、この唇で癒すこと。
夜を共にし、愛を囁き、心ごと差し出すこと。
(それしか、できない……)
カガリの指がツカサの首筋にからむ。
柔らかな髪をすくい上げ、唇をほんの少し近づけた。
その瞬間――
ツカサがごくかすかに肩を震わせた。
「あんまり挑発するなよ……」
その声は、まるで別人のように弱々しい。
いままでの、どんな命令口調とも違う。
ぶっきらぼうで荒々しい彼が、こんなにも脆く、
少年のような声で訴えてくるのを、カガリは初めて聞いた。
「抱きたくなるだろ」
その言葉に、カガリの心臓が跳ねた。
「……抱いても、いいのよ?」
その言葉は、これまでと同じように
身体を武器にするだけの媚びではなかった。
むしろ、自分でも驚くほど真剣で。
そして切実な――「ひとりの女」としての欲望だった。
ツカサは何も言わなかった。
ただ、抱きしめる腕の力をほんの少しだけ強める。
その圧は、欲望でも暴力でもなく、
傷を撫でるような、そっと沈黙を守る優しさ。
カガリの頬を涙が伝った。
悲しみでも痛みでもない。
こんなに誰かに求められることが、今までの人生で。
一度でもあっただろうか――
「どうして、そんなふうに我慢するの?」
カガリは胸の奥の不安をすべて言葉にしてみた。
「あなたなら、壊されてもいいと思ったのに」
そう口にしたあと、自分のあまりの本音に唇を噛んだ。
ツカサはそれでもしばらく黙っていた。
その沈黙は優しさでもあり、臆病さでもあり、同時に「相手を本当に大切にしたい」という――、大人の男のプライドだった。
「お前は、誰にも壊させないよ。……俺にも、だ」
低く、しぼり出すような声。
まるで自分自身を抑え込むための呪文のようだった。
「じゃあ、キスだけ――」
小さくそう囁いたカガリはツカサを見上げたまま、ごく自然に顔を近づけていた。
その距離は数十センチ。
唇がふれるまで、わずか一呼吸のあいだ――
息を呑むような緊張と微かな期待。
そして焦がれるような欲望が、カガリの胸をかき乱していく。
(自分から男にキスするなんてはじめて……)
その事実が信じられないほど、自然に身体が動いていた。
カガリは「与えられる」ことには慣れていたが、「自分から欲しい」と感じて手を伸ばすことは、これまでの人生で一度もなかった。
唇と唇がそっと触れ合う。
一回目はとても軽いキス――
試すように、確かめるように。
でも、その瞬間、全身がじわりと熱に包まれる。
この人の体温が、触れた場所から溶けていく。
ツカサが息を呑み驚きの色を浮かべる。
――けれどほんの一瞬でその目が優しく緩んだ。
二回目。
カガリが勇気を振り絞るまでもなく、
ツカサの大きな手がそっとカガリの頬を包み、今度は彼からゆっくりと唇を重ねてきた。
重なった唇は先ほどよりも深く、
どこまでも繊細に。
じっくりと味わうように動く。
舌先がごくやさしくカガリの唇をなぞり、やがて控えめに。
――けれど逃さないように、唇の隙間から中へと滑り込んできた。
粗暴な格好――ぶかぶかのシャツ。
無造作な髪、無遠慮な手つき。
そのどれもが、いまこの瞬間だけは信じられないほど繊細で丁寧だった。
女遊びに慣れきった男だけが見せる巧みな、けれど押し付けがましさのかけらもないテクニック。
まるで相手の心を探り、呼吸に合わせてリズムを刻むかのようなキス。
「……ん、ぁ……」
カガリの口から意識しない吐息が漏れる。
心臓が跳ね、腰がきゅっと締めつけられるような感覚。
唇の感触、舌のぬくもり、ツカサの指がそっと髪を梳く動き。
すべてが気持ちいい。
いやらしさも、見せつけるような力強さもない。
けれど、確かに“女”としての自分の奥底が反応している。
カガリは自分がこんなにも誰かの手で蕩けていくことに、驚きと戸惑い、そして嬉しさを覚えていた。
(……嫌じゃない)
これほど女遊びに慣れている男なのに、
まったく押し付けがましくない。
その距離感がむしろ心地よくてたまらなかった。
もっと――
もっと応えたい。
自分もこの人を求めていいのだと、
ようやく心が許した気がした。
カガリはツカサのシャツの裾をそっとつかみ、さらに自分の身体を寄せていく。
唇の動きが知らず知らず激しさを帯び。
ツカサもまた応えるように、ひときわ深く彼女の舌を包み込んだ。
「……ん、ツカサさん……」
息が乱れ、喉の奥から甘い声が漏れる。
キスだけ――
そう決めたはずなのに、
ふたりの距離はもう、理性の境界をどんどん溶かしていく。
(もっと――)
唇を離しても、まだツカサの顔を手で引き寄せ、
もう一度、何度でも――
それがどれほど幸せなことか、
今初めて知った。
やがてふたりは、重なったまま静かに息を吐いた。
カガリの唇にはまだツカサの名残が残っている。
鼓動が落ち着くまで、しばらく身動きすらできなかった。
ただ、互いの熱を感じ合いながら。
その熱が、際限なく温度を上げていく――。
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