第15話『幸福は、過去の痛みを連れてくる』

 ツカサがベッドからいそいそと起き出した。


 その動きは、彼らしくぶっきらぼうで、どこか急ぎ足だった。

 何も言わず、裸足のまま、無駄な音も立てず、するりとシーツを抜け出す。

 カガリは、半分夢のなかのような感覚で、その背中を目で追っていた。

 わずかに乱れた髪、くしゃくしゃのTシャツ、広い背中。

 まるで昨夜の現実がそのまま繋がっている証拠のようだった。


 (どこへ行くんだろう)


 無意識のうちに、体がついていきそうになる。

 だが、ベッドサイドまで来たツカサが、振り返ることもなく一言だけ投げかける。


「眠かったらまだ寝てていいぞ。朝飯、簡単につくるから」


 そう言うと、さっさとドアを開けて、部屋の外へ消えていった。

 残された空間には、ふたりの体温と、かすかな石鹸の香りだけが残る。


 ベッドの上にひとりきり――


 少しだけ、胸が寂しさで満たされた。


 朝ご飯、という言葉が、耳に残る。

 その響きが、カガリには少し奇妙だった。

 “朝ご飯”――それは、遊女時代も、佐藤の“愛人”として飼われていたときも、

 いつも孤独で、むなしく、ただ空腹を満たすだけの作業だった。


(朝――誰かが隣にいてくれる、なんて)


 思い返せば、十代の頃からずっと。

 夜は“女”として、あるいは“母”として、誰かのために尽くしてきた。

 けれど朝だけは、いつもひとりだった。

 布団の中の寂しさ、冷たいお粥の味、

 部屋の隅で小さく息を殺すような、あの静けさ。


 ツカサがドアの向こうに消えただけで、

 その古い記憶が、胸の奥からじわじわとせり上がってくる。


(まだ、少しだけ、まどろんでいたいのに――)


 彼のぬくもりが消えたベッドは、途端に空虚になる。

 ついさっきまで腕の中に抱かれていたはずなのに、

 その安心と幸福は、指の間から零れ落ちていく砂のように、形もなく消えてしまう。


 ――自分でも驚くほどに、寂しい。


 ツカサのことは、何も知らない。

 名字も、家族も、過去も、なにも。

 けれど、“彼のいない朝”が、これほどまでに空虚で切ないものだったとは思いもしなかった。


 窓から差し込むやわらかな朝の光。

 部屋の静けさは、あまりにも優しく、あまりにも残酷だった。

 孤独な朝の癖で、カガリは思わず天井を見上げる。

 胸の奥が、きゅうっと縮む。


(私は、なぜ――こんなにこの人に執着してるんだろう)


 たった一晩、守られただけ。

 たった一度、腕に抱かれただけ。

 けれど、ツカサの体温は、もうカガリの心と体に深く染み込んでいる。


 どれほど多くの男と夜を重ねても、

 こんな朝の感覚は、初めてだった。


 自分の素肌の上に、彼の手の余韻が残っている。

 うつ伏せになったまま、指先で胸元をそっと撫でてみる。


(“寂しい”なんて、思いたくなかったのに)


 カガリはそっと、シーツを握りしめた。

 自分でも、こんなに脆くなった自分が信じられなかった。


(……もう、昔の私には戻れないのかな)


 遊郭の支配人。

 孤独な女。

 “贄”として差し出された夜の女王。


 そのすべての仮面が、今はもうどこか遠くに感じられる。


 今、ただ“女”として、

 「隣にいてほしい」と思う相手がいるだけで、

 こんなにも、心の奥が波立ってしまうのだと――


 まどろみの中、カガリはもう一度シーツに顔をうずめる。

 遠くでキッチンの物音がかすかに響いた。

 ツカサの気配。

 その存在だけが、カガリの全身を内側から温めていく。


 やがて、もう一度だけまぶたを閉じた。

 ツカサの手が戻ってきてくれるかもしれない、という期待を抱きながら。

 自分の中に芽生えた新しい執着と渇望を、

 そっと誰にも見えないように抱きしめる。


 やがて、体の奥に微かな熱がともる。


 朝ご飯。

 たったそれだけの言葉が、こんなにも心を乱すのだと、

 カガリは静かに、甘く苦い幸福に包まれていた。


―――


 眠りの端で、カガリの意識は揺れていた。


 朝のベッドはまだぬくもりが残っている。

 キッチンからは、ツカサが何かを用意している微かな気配。

 けれど――

 その静寂と穏やかさに身を委ねれば委ねるほど、どこか心の奥底で、

 澱のような不安が蠢きはじめる。


 突然、佐藤との日々が、濁った水のように脳裏をよぎった。


(――やめて)


 幸せなはずの朝なのに。

 抱きしめられた余韻が、まだ肌に残っているのに。

 なのに、記憶は容赦なく過去へと引き戻す。


 あの男――佐藤貴臣。


 最初は「雅」を守るためだった。

 赤字を埋めるため、女たちを守るため、自分の身体と尊厳を天秤にかけた。

 それが“仕事”だったはずなのに、気づけば、あの男の都合だけで呼び出され、

 まるで“都合のいい女”として飼いならされる日々が続いた。


(あのとき、何をされた?)


 いくら心を切り離そうとしても、身体の感覚ははっきりと覚えている。


 料亭の薄暗い個室。

 畳の上、佐藤の脂ぎった手が、ためらいもなくカガリの着物の襟元を引き下ろす。

 浴びせられる下卑た笑い声と、耳障りな誉め言葉。

 少しでも抵抗すれば「そんなに嫌がるふりして、結局は楽しんでるんだろ」と嗤われた。


 帯をほどかれる。

 脚を開かされる。

 舌を這わせられる。

 唇や頬に付けられたキスマークは、むき出しの所有欲と見せつけの道具だった。


「金さえ払えば、なんでもできる女」

「これも雅のためだろ?」

「お前みたいな美人が、こんなふうに俺のものになるなんて――運がいいよな」


 触れられたくない場所を、無遠慮に何度もまさぐられた。

 痛みも、屈辱も、涙も、全部“役割”として飲み込んできた。

 拒めば、女たちが路頭に迷う。それが何より怖かった。


(そうやって、私は――壊れていった)


 朝ご飯、という単語ひとつで胸が騒ぐ。

 “人並みの幸せ”を手に入れかけている自分が、

 いつ、またあの泥沼に引き戻されるか分からない。

 幸福になればなるほど、不意に訪れる不安と恐怖。

 どんなに暖かなベッドで目覚めても、

 心の奥には、あの冷たい畳の感触と、佐藤の汗ばむ指の感覚がこびりついている。


(本当に、私はここにいていいんだろうか)


 今は、ツカサがいる。

 朝になれば、彼が温かなご飯を用意してくれる。

 でも――

 「幸せ」が長く続くはずがない、と無意識に身構えてしまう。


(また、あの地獄に戻るかもしれない)


 幸福なほどに、過去の痛みが鮮明になる。

 あの夜の、佐藤の獣じみた吐息。

 無理やり開かされる身体。

 泣きたくても泣けなかった朝。


 カガリは、シーツに顔を押しつけ、声にならない溜息をついた。

 自分の中に、まだ癒えきらない傷があることに、改めて気づかされる。

 そして、その傷がどれほど深いか――


 どうしようもなく、不安になった。


 どれほどツカサが優しくても。

 どれほど今が暖かくても。

 自分の中の「傷」は、きっと簡単には消えない。


 幸福と絶望のはざまで、カガリはただひとり、

 心の闇に呑まれていくのを、静かに耐えていた。


―――


 胸の奥で、不安が静かに膨らんでいく。

 いくら目を閉じてみても、温かなはずのベッドは急速に冷えていった。

 ツカサの温度は、さっきまで腕の中にあったはずなのに、

 佐藤の汚れた手の感触が、その記憶に泥を塗りつけてくる。


(このままじゃ、また――沈んでしまう)


 カガリはシーツの端をきゅっと握りしめ、深く息を吐いた。

 何度も、「今ここにいるのはツカサだ」と自分に言い聞かせる。

 けれど、心の闇は容易に晴れなかった。


 気づけば、体が勝手に動き出していた。


 ベッドからそろりと抜け出し、裸足のまま、静かに廊下を歩く。

 足裏に感じる床の冷たさは、現実へと自分を引き戻すための唯一の感触だった。

 すべてを壊してしまいそうな不安が、

 一歩ごとに静かに、だが確実に、和らいでいく。


 キッチンからは、かすかな物音と、出汁のやわらかな香りが漂ってきた。

 鉄鍋の蓋が揺れる音、包丁がまな板を叩く音、

 お湯の沸く小さな泡の音――

 ツカサが朝食の支度をしているその日常的な気配だけが、

 過去の不安を薄く上書きしていく。


(――この人がいる)


 それだけが、今のカガリにとって唯一の“救い”だった。


 キッチンの入り口で立ち止まり、ツカサの背中を見つめる。

 彼はエプロンなど身につけることなく、Tシャツ姿のまま、慣れた手つきで味噌汁をかき回している。

 その姿は、ごく自然で、どこまでも頼もしかった。


(どうして――こんなにも、安心するんだろう)


 もう一歩、もう一歩と、近づいてしまう。


 ツカサは気づいたようで、振り返る。

 ぶっきらぼうな顔のまま、

 でもその視線には、まるで全部わかっているかのような穏やかさがあった。


「……どうした、もう起きたのか。寒かったか?」


 カガリは、わずかに首を振る。

 理由なんて、もう説明できなかった。

 ただ、「そばにいたい」。それだけ。


 ツカサのいる場所――

 それだけが、どんな闇も跳ね除ける“現実”だった。


 カガリはそっとキッチンの壁にもたれ、

 ツカサの朝食の香りに包まれながら、

 ようやく自分の心が“いま”に戻ってきたことを知る。


(――ありがとう)


 その言葉を、胸の奥で何度も呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る