第10話『全部、よくやったよ』

 バスルームの扉を開けた瞬間、カガリの足元にひんやりとした風が通り抜ける。

 湯気の中から抜け出すと、すぐそこに淡い照明のともる洗面スペースがあった。

 目に入ったのは、きちんと折りたたまれて積まれたバスタオルと、その隣に美しく揃えられた着替えたち。


 タオルは、触れるまでもなく見ただけで質が違った。

 純白に月の光を織り込んだような艶やかさ。

 統樹ブランドの最高級品――「月繭つきまゆ」とタグに刺繍されている。

 掌に包んだ瞬間、その柔らかさと厚みにカガリの指先が思わず沈み込む。

 肌に滑らせるたび、湯の余韻をより深く、やさしく馴染ませてくれる。


 そのすぐ横には、ふたつの着替えが置かれていた。

 一つは、明らかにツカサのだろう。大きめの白いTシャツと、紺色のショートパンツ。

 もう一つは、薄絹のナイトガウン。淡い桜色の光沢が、指先に馴染む。

 何気なく袖に手を通すと、纏った瞬間に自分の肌が、まるで別のものに生まれ変わるような感覚が走る。


(……なに、この滑らかさ)


 そして、下着が四種類。

 シルクのレース、柔らかいリブ地、ほんのり香りのついた軽やかなサテン、繊細な刺繍がほどこされたもの。

 どれも、これまで自分が“仕事道具”として身に付けてきたものとは別格の、女性を甘やかすための“上質”ばかりだった。


 その一つ一つを、そっと指先でなぞってみる。

 “選んでいい”という自由に、胸がふわりと熱くなる。

 迷いながらも、自分の好きな色と手触りを確かめる――

 そんな当たり前すら、どこか夢の中の出来事のようだった。


 そのすべての隣に、紙片が一枚。

 乱雑な文字が、しかしどこか照れを隠しているような温度で並んでいる。


 『好みはわかんねぇから何着か選んだ。クレームは後で聞く』


 ぶっきらぼうで、飾り気のない走り書き。

 けれど、どこまでも優しい。


 カガリは、タオルで髪をくるみながら、小さく笑った。

 涙の跡もまだ残る頬を、思わずほころばせてしまう。

 心の奥までじんわりと温かさが染みていく。


 ――こんな夜が、人生に一度でもあっていいのだろうか。


 誰にも媚びず、誰にも縛られず、

 自分だけのために着るものを選び、

 自分だけの肌を、大切に扱う。


 たったそれだけのことが、どれほど遠い夢だったか――

 今さらながらに、痛いほど身に沁みる。


 カガリは、ショーツとガウンを選び、

 新しい夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 鏡の中の自分は、どこか知らない女だった。

 けれど、それが少しだけ誇らしくも思えた。


(“クレームは後で聞く”――ね)


 きっと、どんな文句を言ったところで、

 ツカサは変わらぬ顔で受け止めてくれるのだろう。

 その不器用な優しさが、今夜だけは、

 この部屋のすべてに満ちている気がした。


―――


「……聞こえてた?」


 バスルームのドアを静かに閉じ、リビングへと足を運ぶ。

 ツカサはソファでパソコンに向かっていた。

 カガリの足音に気づくと、何の迷いもなくその手を止め、画面を閉じる。


(きっと――全部、聞こえてたんだろうな)


 さっきまで湯の中で震えていた嗚咽。

 だけど、ツカサはそれについて何も触れない。

 優しさなのか、不器用さなのか――その“距離感”に、逆に救われてしまう。


「お仕事中?」


 そう尋ねると、彼はあくび混じりに「まあな」と短く答える。

 けれど、まるで“お前が優先”だと言わんばかりに、すべての動きをカガリに合わせていた。


「突っ立ってても体が冷えるだけだぞ。とりあえずソファに座れ。近くが嫌なら端でもいい」


 ツカサは淡々とした声で促す。

 リビングの奥には、夜景を一望できるソファ。

 その中央に座る彼のすぐ隣は、なぜだかぽっかりと空いていた。

 気を遣うわけでもなく、独占欲を滲ませるでもなく、ただ“そこはお前の場所”だと黙って示しているようだった。


 カガリは、タオルガウンの裾を気にしながらソファの端に腰を下ろす。

 自分の髪から、まだ水が滴っていることに気づいたとき――

 ツカサがじろりと一瞥する。


「ちゃんと髪は乾かせよ……せっかくの髪だろうが」


 その声音に、まるで小さな子どもを叱る母親のような厳しさがある。

 ツカサは立ち上がり、棚の奥から新品のタオルを取り出して戻ってくる。

 何も言わず、当たり前のようにカガリの背後に立ち、やわらかな動きで髪を包む。


 タオルは、指先だけでなく心までも包み込むような柔らかさ。

 ツカサの手は大きくて、ごつごつしているはずなのに――

 なぜかとても、丁寧で優しかった。


「……慣れてるのね」


 思わず、ぽつりと漏れる。


 ツカサはため息交じりに肩をすくめる。


「さっきも言ったろ、女癖わりぃんだよ」


 (やっぱり――)


 そう思って、少しだけ胸が苦しくなる。

 けれどツカサは、乾かしながらさらに言葉を重ねる。


「じゃあ私もただの気まぐれ?」


 問いかけると、タオル越しの手が一瞬だけ止まる。

 だが、次の瞬間には再び動き始める。


「気まぐれで俺名義のブラックカード渡すような男に見えるか?」


 その声は、ぶっきらぼうなのに、どこまでも真っ直ぐだった。


 カガリは、思わず笑いそうになる。

 けれど、その笑みは自然と滲んでしまった。


「……変な人」


「お前ほどじゃねぇよ」


 髪を拭くツカサの手つきは、不器用なのにどこまでも優しい。

 少しだけ力を抜いて、身体を預けてみる――

 それが、こんなにも心地いいことだなんて、知らなかった。


 髪の先に残る水滴を、丁寧に、何度もタオルで受け止める。

 その合間、窓の向こうで東京の夜景が静かに瞬き続けていた。


 カガリは、はじめて“誰かに守られている”という実感を、髪の一本一本にまで染み込ませていくのを感じていた。


――――


 ドレッサー前の低いソファ。

 ツカサはカガリの背後に静かに座り、バスタオルからさらに繊細なヘアドライタオルへと手を換えて、髪の水分をていねいにぬぐい取っていく。

 その指先は驚くほど手慣れていた。

 耳の後ろや襟足、細く柔らかい毛先まで、決して荒く扱わない。

 髪の美しさを大切に扱う、そんな不器用な優しさが、カガリの身体の芯まで沁みていく。


 鏡越しに、カガリはそっとツカサの顔を見た。

 彼は余計なことは一切言わない。

 ただ、目の前の髪と向き合い、時折、指の動きだけで「こっちを向け」と無言の指示を送る。


 カガリは、少しずつ、心の鎧が剥がれていくのを感じていた。


 ――話しても、いいのだろうか。


 迷いながらも、ぽつりと声がこぼれる。


「……私、今は“雅”って遊郭の支配人をしてるの」


 タオルがそっと頭皮を拭い、ツカサの手が一瞬止まる。

 けれど、口を挟むことはしない。

 再び手が動き始める。


「……昔は、ただの遊女だった。“夢神楽”って、呼ばれて……五年も、頂点にいた」


 苦笑まじりに話す自分の声が、妙に遠く感じる。


「今は、身寄りのない子や、行き場のない女の子を引き取って――

 遊女として生きていく方法や、男に搾取されずに“利用する”方法を教えてる」


 ツカサは、ただ静かに、タオルで髪を撫で続ける。

 うなじの産毛まで丁寧に扱い、パサつきやすい毛先には、自然と手の温度を長く添えていた。


「……それでも、雅は今、苦しいの。

 エース級の女の子は、もうほとんど引退してしまったし、

 法律も、世間も、昔よりずっと厳しい。

 ……赤字が増えて、どうしようもなくなって……」


 そこで、ツカサの指が、ほんの一瞬だけ止まる。


「……だから、佐藤のところに通うようになったの」


 カガリの声が小さく震える。

 自分の中の“恥”や“屈辱”を、こんなに素直に言葉にするのは、どれだけぶりだろう。


「毎回、あの人に身体を弄ばれて……。

 “贄”みたいなものだったわ。

 でも、そうしないと、みんなを守れなかった。

 どこかで自分は、もう壊れてもいいって……そう思ってた」


 ツカサは、長い沈黙のあと、低く、静かな声で相槌を打つ。


「ああ……」


 たったそれだけ。

 でも、その一音が、深く胸に落ちていく。


「それでも、やっぱり怖かった。

 誰かに助けてほしかった。

 でも、そう思うことすら、間違いだと思ってた」


 髪の毛がほぼ乾ききり、ツカサの手つきが、仕上げるように毛先を整える。


「……俺は、偉そうなこと言える立場じゃねぇが」


 カガリがふと息を止める。

 ようやく自分のほうへ視線を向けてくれる、その“待っていた”瞬間にだけ、ツカサは言葉を選ぶ。


「全部、よくやったよ。

 お前が選んだことも、守ったものも。

 ……偽善でもなんでもねぇよ」


 カガリの胸の奥が、静かに揺れた。


「……ありがとう」


 今夜、何度目かわからない。

 でも、ようやく本当に“救われた”気がした。


 ツカサは何も求めず、ただ、カガリの髪に最後の優しい手を添えただけだった。

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