第1話-2 絶望と太陽



「……当面の間って、いつまでよ」

誰かの不安げな声が、ざわめきの中から聞こえてくる。

すべてのオリエンテーションが終わり、解散となったのは午後の陽射しもだいぶ傾いた頃。重い空気のまま教室を出て、あおいは吸い寄せられるように校門脇の掲示板へと向かった。

そこには、A4サイズのコピー用紙が、風にはためいていた。

【女子サッカー部への入部を希望する新入生と保護者の皆様へ】

冷たい明朝体の文字が、夕陽に照らされて不気味に浮かび上がる。

背後で、潮騒のようにざわめきが大きくなる。

「『設立準備の遅れにより、当面の間、活動開始を延期いたします』……当面の間って、いつまでよ」

「ていうかさ、入学式の時、高木監督いなかったよね? 普通、新設部の監督なら挨拶くらいするでしょ」

「言われてみれば……。私、中学の時、高木監督のクリニック受けたことあるけど、本当にすごい人だったよ。あの人が来るから、清陵選んだ子、いっぱいいるはずなのに」

ざわめきの中に、不安と疑念が黒いインクのように滲んでいく。

すすり泣きに変わっていく声が、鼓膜を鈍く揺らす。

そんな中、ある生徒がスマホの通話を切って放った言葉が、その場の空気をさらに凍らせた。

「……嘘でしょ。延期って書いてあるけど、これ、実質的な中止だって。親が学校に問い合わせたら、監督との契約が白紙になって、後任も予算も、再開の目処も全く立ってないって言われた……」

その言葉は、絶望という名の波紋を広げ、一人ひとりの胸に深く沈んでいった。

夕陽が校舎の向こうに沈みかけ、あたりを支配し始めた濃い影が、泣き崩れる少女たちの輪郭を静かに飲み込んでいく。春の浮かれた空気はもうどこにもなく、ただ冷たいアスファルトの匂いと、行き場のないため息だけが、そこに満ちていた。

あおいは、絶望に駆られる周りの生徒たちの姿を呆然と見つめながら、大人たちの都合によって、簡単に予定を、いや、未来を変えられてしまうという現実に、虚しさを感じていた。



――これからどうしよう。説明会、行く?、それともバスケ?。

「おーい、あおいーっ!」

その声が聞こえた瞬間、世界が止まった。心臓が喉の奥で跳ね上がり、呼吸が一瞬、止まる。

なんだか、懐かしい声。ちょっとだけ大人になっているけど、間違いない。この声の主は…。

「え……うそ……レイナ……!?」

おそるおそる振り返った先に立っていたのは、記憶の中の姿よりずっと背が伸びた少女だった。健康的に日焼けした肌に、太陽の光をたっぷり吸い込んだような、クセのある明るい茶髪。制服のネクタイは少し緩められ、シャツの第一ボタンが窮屈そうに外されている。

間違いない。小学三年の終わりに、突然オーストラリアに引っ越してしまった幼馴染、南雲レイナだ。

「ちょっ、レイナ!? なんで日本に!? ていうか、なんで清陵の制服!?」


「あ、やっぱ似合う? 日本の女子高生の制服ってやっぱ可愛いよね」

レイナはくるりと一回転して、スカートの裾をひらめかせた。まるで質問に答える気がない。


「いや、可愛いけど、そうじゃなくて!」


「待って、いつ帰ってきたの!? 何も聞いてないんだけど!」


「昨日、こっち着いた。私もこの高校受けてたの。で、家、また近所だから。またよろしく!」

事もなげに言うレイナに、あおいは頭がクラクラした。


「……え、え、マジ!」

混乱するあおいの肩を、レイナが笑いながらバンバン叩く。身長はあの頃と同じように、レイナの方があおいより少しだけ高い。でも、六年の月日は、二人を九歳の子どもから、十五歳の女子高生に変えたものの、お互いの話し方まで昔のまんまだった。


―なんだこれ、春の嵐かよ―

そんなことを考え続けつつ、あおいは、はしゃぐレイナの顔を感慨深げに見つめていた。

あのレイナと、まさか、同じ高校で、同じ学年で、こんな形でまた会えるなんて。胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、桜の舞う景色が少しだけ滲んだ。



その日は、あまりの衝撃と喜びで、あっという間に過ぎていった。

二人は、学校近くのファミレスに駆け込み、ドリンクバーとポテトだけで話し込んだ。時間は、彼女たちの間に気まずい沈黙ではなく、尽きることのない質問の洪水を生み出していた。


「オーストラリアって、ほんとにコアラとかカンガルーいるの?」


「いるいる! てか、普通にそのへん歩いてるし」


「いや、さすがにそれはないでしょ!? あ、それでさ、小学校の時のさ……」

あおいが紡ぐのは、バスケに打ち込んだ日々の思い出。対するレイナが語るのは、あおいの知らない、太陽と青い空に満ちた異国の物語。少しだけ焼けた肌も、時折混じる英語のイントネーションも、そのすべてが彼女の過ごしてきた時間を物語っているようで、少しだけ眩しく、ほんの少しだけ、自分だけが取り残されたような寂しさも感じた。


「……それでさ、あおい。部活、どうすんの? やっぱりバスケ?」

レイナの問いに、あおいは力なく首を横に振った。


「ううん……実は、女子サッカー部に入ろうと思ってたんだ。新しいこと、始めたくて」


「……サッカー部か」

レイナは、ポテトをつまむ手を止め、何かを確かめるように呟いた。


「大変だったみたいだね、掲示板の前」

その言葉に、あおいは小さく頷く。


「見てたんだ」


「まあね。……で、あおいはどうすんの?」


「うーん……」

あおいは、ストローでグラスの中の氷をかき混ぜながら、数時間前の光景を思い出した。

泣き崩れていた子たち。

血の気の引いた顔で立ち上がった、同じクラスの高梨沙耶。


「なんか、バスケって感じでもないんだよね、今」


「そっか」

レイナは、短くそう言うと、窓の外の街並みに視線を移した。

その横顔は、何かを深く考えているように見えた。


ファミレスを出る頃には、すっかり夜になってしまっていた。同じ帰り道、同じ住宅街。それだけが、あの頃と変わらない唯一のことだった。

「じゃあ、また明日ね」

あおいの家の前で、レイナが手を振る。

「うん、また明日」

二人がまた親友に戻れたことが、あおいにとっては何よりうれしかった。

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