第2話-5 決意と笑顔 6 胎動と試練

5.決意と笑顔



金曜日の放課後。


あおいとレイナがいつもの空き地に着くと、そこには先客がいた。

夕陽を背に、一人でじっと立っている。風になびく、凛としたポニーテール。

「……高梨さん」

あおいが思わず声を漏らす。

沙耶は、その声にゆっくりと振り返った。

その瞳には、静かで、深く、澄み切った覚悟の色をたたえていた。


彼女は、あおいとレイナの二人をまっすぐに見つめ、一歩、また一歩と、二人の元へと歩みを進める。

そして、二人の目の前でぴたりと足を止めると、深く、息を吸い込んだ。


「教えて」

それは、命令でも懇願でもない、静かな問いかけだった。


「どうすれば、あなたたちみたいに、笑えるの?」

予想外の言葉に、あおいもレイナも一瞬、息をのむ。

沙耶は続けた。その声は、震えていなかった。


「私にも、やらせて。ラグビー」

そして、お守りのように握りしめていた何かを、レイナに向かって差し出した。

それは、中学時代に使い古した、サッカー用のスパイクだった。紐は解かれ、いつでも履けるようになっている。


「全国大会、なんて……私にはもう、口にする資格がないから。勝つとか負けるとか、今はまだ、そんなこと考えられない。ただ、もう一度……」

言葉が、途切れる。


「……ただ、もう一度、ボールを追いかけたい。それだけじゃ、ダメかな」

その問いは、彼女が捨ててきたはずのプライドと、それでも捨てきれなかった純粋な衝動の、痛々しい告白だった。

レイナは、そのスパイクを見やり、太陽のような笑顔を浮かべると、隣のあおいから楕円形のボールをひょいと奪い取る。そして、それを沙耶の胸に、そっと押し当てた。

ずしり、とした重みが、沙耶の胸に伝わる。


「全国大会、目指すに決まってんじゃん」

レイナは、当たり前のように言った。


「てか、高梨さんみたいな人がいて、目指さない理由、なくない?」


「でも、私は……」


「大丈夫」

レイナは、沙耶の言葉を遮るように、力強く頷いた。


「笑い方なんて、走り出したら、そのうち思い出すって。それに、忘れちゃったら、隣でウチらが腹抱えて笑っててやるからさ!」

その、何のてらいもない言葉が、沙耶の最後の心の壁を、優しく溶かしていった。

彼女は、胸に押し当てられたラグビーボールを、ぎゅっと抱きしめる。

そして、顔を上げた。

その瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいたが、その口元は、確かに、ほんの少しだけ、笑っていた。

それは、小学五年生の、泥だらけのグラウンドで浮かべた笑顔にはまだ遠い。

でも、確かに、ここから始まる新しい物語の、最初の笑顔だった。




6.胎動と試練



週が明けた月曜日の放課後。あおいは再び職員室の扉の前に立っていた。

今度は二人じゃない。

隣には、瞳に強い意志を宿したレイナ。

そして、後ろに、静かな覚悟をたたえた高梨がいる。

設立申請用紙の部員欄には、三つの名前が並んでいた。


柚木 あおい

南雲 レイナ

高梨 沙耶


ようやく三人になった。

でも、それはまだスタートラインにさえ立てていないことを意味していた。この清陵学園で活動団体として認められるには、最低五人の部員と、責任者である顧問が必要なのだ。彼女たちの前には、依然として分厚い壁がそびえ立っている。


「よし、行くよ」

レイナが、まるで試合前の円陣のように短く呟き、ためらいなく扉を開けた。


「失礼します!」

放課後特有のざわめきと、チョークの乾いた匂いが混じり合う職員室。

彼女たちの声に、何人かの教師が迷惑そうに顔を上げたが、すぐに手元の書類へと視線を戻す。まるで、そこに存在しないかのように扱われる感覚。その冷たい空気が、肌をぴりりと刺した。

あおいたちの目標は、ただ一人。

一番奥の隅。

積み上げられた資料の山に埋もれるようにして、あの無気力な体育教師、武田は座っていた。


「武田先生!お願いします!」

レイナは一直線に彼の元へ向かうと、三人の名前が記された申請用紙を机に差し出した。


「部員、三人になりました!だから、もう一度、女子ラグビー部の設立を……!」

武田は、読んでいたラグビー雑誌から目を離さない。ただ、指先でページをめくる音が、やけに大きく響いた。


「……だから、無理だと言ったろ」

温度のない声が、彼女たちの熱意を真正面から否定する。


「三人じゃ試合もできねえ。それに、顧問のなり手もいねえ。前例のない、怪我がつきものの部活なんぞ、誰も面倒見たくねえんだよ」


「そんなこと、やってみなければ分からないじゃないですか!」

レイナが食い下がる。その時、それまで黙っていた沙耶が、静かに一歩前に出た。


「先生」

その凛とした声に、レイナがはっと口をつぐむ。

沙耶は、武田の目をまっすぐに見つめて言った。


「人数や前例は、問題の本質ではありません。先生は、私たちの覚悟を試している。そうではありませんか?」

その言葉に、職員室の空気が一瞬だけ揺れた気がした。

武田の指が、ぴたりと止まる。

ゆっくりと、本当に億劫そうに、彼は雑誌から顔を上げた。初めて、その目が彼女たちを真正面から捉えた。

その瞳の奥には、面倒くささや無気力とは違う、硬質で、底光りするような何かがあった。まるで、古い傷跡を隠しているかのような、深い光。


「……覚悟、だと?」

彼は、嘲るように口の端を上げた。

一度、沙耶の顔をじろりと見て、ふっと息を吐く。


「……高梨沙耶か、お前らの事情は気の毒だとは思う。だがな、感傷でやれるほど、このスポーツは甘くねえ」

彼は再び、三人の顔を順番に見回した。


「お前らみたいな、ちょっとスポーツかじっただけの女子高生に、ラグビーの何がわかる。泥にまみれて、痣だらけになって、息ができなくなるまで走って、それでも仲間を信じて身体を張り続ける。そんな覚悟が、本当にお前らにあんのか?」

その言葉は、経験した者だけが持つ、紛れもない重みを持っていた。

彼女たちは、誰一人として怯まなかった。


「「「あります!」」」

三つの声が、完璧に重なった。


武田は、彼女たちの目から視線を外さないまま、長い、長い沈黙の後、大きなため息をついた。それは、諦めのようでもあり、何かを振り払うかのようにも見えた。


「……分かったよ。そんなにやりてえなら、証明してみせろ」


その言葉に、あおいたちは息をのむ。


「今から、一週間。来週の月曜日までに、部員をあと二人見つけてこい。学校のルール通り、合計五人だ。それができたら……」

彼は、一度言葉を切り、まるで苦虫を噛み潰したような顔で続けた。


「同好会としての申請くらいは、俺が上に話を通してやる」


「……!」


「ただし、できなかった場合は、二度と俺の前にその話を持ってくるな。綺麗さっぱり諦めろ。いいな?」

それは、あまりに無茶な条件だった。

でも、分厚い壁に閉ざされていた彼女たちの前に、初めて示された、細く、しかし確かな一本の道だった。


「はい!ありがとうございます!」

三人は、深々と頭を下げた。

顔を上げた時、武田はもう、ラグビー雑誌の活字の海に視線を戻していた。まるで、さっきまでの会話などなかったかのように。



職員室を出て、夕陽が差し込む廊下で、三人は顔を見合わせた。

「あと二人……。どうする……」

あおいが不安を口にするより早く、レイナがぐっと拳を握った。

「決まってんじゃん!やるしかないっしょ!」

その瞳は、高い壁を前にして、むしろ楽しんでいるかのように燃えていた。



第2話「高い壁」 

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