第4話 兄弟の絆

 かくして滝川一益は、信長に召し抱えられた。だが新たな陣羽織の下にあるものは、わずか数名の手勢のみ。

「左近様、お味方が少のうござりますな」

 義太夫が苦笑する。甲賀での騒ぎ以来、旧友に便りを放てど、一通の返事もない。

 滝城の火が尾を引き、「火の滝川」に寄りつく者はなかった。

 一益は静かにため息をつき、目を伏せた。

(……困ったことになった)

 ならば――と、義太夫は覚悟を決めた。

 甲賀へ戻り、旧知の門をひとつずつ叩いて歩くほかあるまい。


 伊勢の亀山を抜け、鈴鹿峠を越え、甲賀へ入る。かの騒動を起こした滝城の付近は、さすがに気まずいので避け、甲賀の山並みを越え、水口の里へ足をむけた。

 義太夫が目指すは、従弟の佐治新介――火薬と鉄砲の扱いにかけては滝川一門でも群を抜く腕前だが、筋金入りの頑固者である。

「新介おるか〜! わしじゃ、義太夫じゃ〜!」

 門前で声を張り上げた瞬間、屋敷の奥でギギギ……と不吉な音。

 門が開くやいなや、現れたのは眉間に皺を寄せた新介だった。

「おぬし、まだ生きとったのか!」

 第一声がそれである。笑う間もなく、義太夫の腕をがっしとつかみ、森の奥へ引きずり込む。

「な、なに事じゃ!」

「うるさい。声が大きい。おぬしらと関わると、評判が燃え移る!」

 どうやら甲賀では想像以上に悪い評判が広がっているらしい。

 どんどん森の奥へ連れていかれ、ついには屋敷も見えなくなった。ようやく、佐治新介は足を止める。

「ここまでくれば大事ないであろう」

「大袈裟な奴め」

「来るのが遅いわ、義太夫!」

 山道を登ってきた義太夫の顔を見たとたん、佐治新介がそう怒鳴った。

「婆様は血眼になってぬしらを探しておったのじゃぞ。なにをやっとった!」

 ――たしか義太夫は、出立の折にこう言っていた。

 『婆様のご命令で、菊之助様を都へ見学に出す』と。

 新介はその言葉を疑いもせずに信じていた。

 だが義太夫はどこ吹く風で飄々と笑い、

「婆様の目とて、火の粉をかぶるときは閉じるものよ」

 と、わけのわからぬことを言いながら草鞋を脱いだ。

「例のお方はまだ都におるか?」

「当たり前じゃ。一人で甲賀に戻れるはずがなかろう。あれでも一応は滝川家の跡取り。そろそろ『もう城に戻りたい』などとゴネ出す頃じゃろう」

 例のお方――それは他ならぬ滝川菊之助、滝川一益の実弟である。幼い頃から母の寵愛を一身に受けて育った。どこか甘やかされた雰囲気を漂わせた男だ。兄の一益は才知に富み、剛胆にして冷静であったが、母はなぜか常に菊之助を贔屓していた。


 そんな菊之助を「山中で放り出してきた」と称したのは、全て義太夫の企みである。真相はというと――

「案ずるな。一人では甲賀に戻ることもできまいて」

 と、義太夫が言ったとおり、菊之助は今、京の傾城町で優雅な生活を送っていた。甲賀の鬱蒼とした山林から連れ出され、都の絢爛たる遊郭に移されたその日から菊之助は天上の人になったつもりでいた。

 だが――

「されどもう銭が尽きる。銭がのうなっては傾城町に置いておくこともまかりならん」

 新介が困ったように眉をしかめると、義太夫はうーんと唸り、ふと手を打った。

「では、菊之助を連れに参ろう」

「甲賀に戻さねば、婆様が鬼のような形相で怒りだすぞ」

 新介が真面目に言うと、義太夫はフムフムと頷きながらも、目はすでにどこか別の方向を見つめていた。

(甲賀に戻せば、わしの話が法螺であったと露見する。婆様の命で『都の見聞』に出した――そう言いくるめたのじゃ。今さら甲賀へ帰せば、婆様どころか左近様にまで嘘が割れる。いっそ『甲賀に帰す』と騙して尾張へ連れていこうか。どうせ左近様の弟御じゃ、織田の殿様も悪くは思われまい)

「わかった。では、適当な理由をつけて甲賀に戻すゆえ、供に参れ」

 義太夫が神妙な顔でそう言うと、新介は胡乱な目を向けて口をへの字に曲げた。

(こやつ、やはり何やら企んでおるな)

 滝川一族の中でも筋金入りの剽者、義太夫にまともな言葉など通じるものではない。それでも新介がつい話に乗ってしまうのは、「どうせ暇じゃしな」という軽い気持ちと、少しの好奇心、そして――

(あいつが尾張に行くのも、案外ええかもしれん)

 という、どこか他人事のような感慨があったからだ。

「一日遅れれば、それだけ銭もかかる。すぐにでも都へ参ろうぞ」

「では参ろう。銭は心配いらぬ。我等も少し、傾城町で羽を伸ばしてもよかろうて」

「仰山あると?どこから調達しておる?」

「ここへ来る前に、滝城の蔵から刀やら掛け軸やら盗み出して売りさばいた」

 悪びれもせず、平然とそう答える義太夫。

 新介はその顔を見て、頭を抱えた。

(これで菊之助が尾張にまで行くことになったら、婆様の雷が城の屋根まで落ちる…)

 だがそれでも、面白くなる気配だけは、たしかにあった。新介は肩をすくめると、にやりと笑った。

 

 都といえば、まずは湯屋。旅の疲れと道中の汗を流すには、風呂が一番である。

「新介、まずは湯屋じゃ。垢を落とさねば、傾城町の姫君も鼻をつまむぞ」

「どちらかといえば、ぬしの方が匂っておるわい」

 軽口を叩き合いながら、二人は洛中一条にある「一条風呂」へと向かった。


 湯屋――すなわち銭湯は、もとは僧侶や病者のために設けられた施浴の場だったが、今や庶民から旅人、果ては田舎侍にまで人気の社交場。ことに都の湯屋は、湯の加減も香の趣も格別とあって評判が高い。

 その日の一条風呂はがら空きだった。都はちょうど疫神祓やくじんのはらいで人が引けているという。柚子の香をまとい、二人は早々に湯を出た。風呂上がりの肌に、夕暮れの風が気持ちよく吹き抜ける。

「さぁて、次はいよいよ傾城町か」

「ぬし、顔が緩みすぎておるぞ」

「ふふ、菊之助殿に会いに行くのだ。わしにとっては心配と楽しみとで、そりゃあ忙しい心持ちじゃ」

 そう。目的はあくまで「菊之助の迎え」である。だが、そのついでに色町の空気を味わってゆくのも悪くない――というのが義太夫の本音であった。

 傾城町――かつては洛中のあちらこちらに自然発生していた遊女屋も、室町幕府三代将軍・足利義満の時代に正式な公娼地として整備され、戦国の混乱をくぐり抜けながらその艶を失うことはなかった。華やかな衣を纏った遊女たちが、夕暮れの紅に染まる町を練り歩くさまは、それだけで都絵巻の一頁のようである。

「菊之助殿、まだ都の暮らしに飽いておらぬかの」

「飽いておったらそれはそれで面倒じゃな。たぶんこう言うであろう――『まだ、あの姫に文の返事をもらっておらぬ』とかなんとか」

 義太夫は鼻歌まじりに歩きながら、懐から一枚の紙片を取り出した。それは菊之助が通い詰めていた遊女の名前と、ひいきにしている茶屋の名が書かれた控えであった。

「されど、左近様がこの話を知ったら、また難しい顔をなされよう」

「左近様には、何もかもが『修行』じゃ。いずれ、戦場より傾城町の方が危ういと知る日も来るであろうよ」

 二人は肩を並べて歩きながら、夕暮れの洛中を、どこか滑稽に、どこか洒脱に彩っていた。

 義太夫はすでに策を打っている。新介と菊之助には、「都にて世の流れを学び、民の心を知るようにと、滝御前様より仰せつかった」と、もっともらしいことを吹き込んであった。世間知らずな二人は、素直に頷いた。

 殊に菊之助は信じ込んでおり、今ではすっかり都暮らしに馴染んで、傾城町を歩けばまるで若旦那気取りである。

(まさか、自分が『死んだことになっている』とは露ほども思っておるまい)

 と、義太夫は内心でほくそ笑んだ。

 それというのも、滝川左近将監一益の弟・菊之助は、甲賀の騒乱の最中、兄の策により『行方知れず』となり、母には「討たれた」と伝えられている。だがその実、義太夫の手引きで甲賀を抜け出し、都の傾城町に身を潜めていた。


 さて、どうやって尾張に連れ出すか……と頭を巡らせていた矢先、思わぬところで事態が転がった。

「惚れた女子と離れとうない。義太夫、もう少し都にいては拙いか」

「ほ、惚れた女子……?」

 新介が目を見張ると、菊之助は真顔で頷いた。

「歩き巫女の娘じゃ。最初は数珠売りかと思うていたが、話をしてみると、賢くて、情け深い」

 歩き巫女――名を「お鈴」といった――が、菊之助の袖をそっと引いた。

(これはまさに渡りに船ではないか)

 義太夫は内心で思わず小躍りしたが、顔には一切出さず、真顔でうんうんと頷いた。

「致し方ありませぬな。ではその女子を連れて、他国で仕官なされては如何でありましょうや」

「他国で仕官?……そのようなことができるのか?」

 菊之助が目を輝かせて食いついたのを見て、義太夫は満面の笑みを浮かべた。

「菊之助様ほどのお方であれば、どの家でも喜んで迎えてくれるものかと」

「よし! ではその女子を連れて参ろう!」

「はやっ!」

 思わず声を上げたのは新介だ。

「ち、ちと待て菊之助様。甲賀に戻らねばならぬと申していたはず。婆様が……!」

「婆様のことは忘れよ」

 義太夫がぴしゃりと言い放つ。

「菊之助様がここまで仰せられておるのじゃ。家人として、その意を汲むのが筋ではないか」

「いやしかし……」

「案ずるより産むがやすし。それより新介、おぬしも共に来ぬか?」

「な、なにを言うか。わしはまだ母の米銭で生きておる……」

「米なら他国にもある。女子も。ほれ、戦の役目があらば、火薬のことでは甲賀衆に勝る者はあるまい」

 新介はしばし口を噤み、眉間にしわを寄せたが、義太夫の「女子も」という一言に揺らいでいるのは明らかだった。

 義太夫が満面笑顔で頷くと、すでに菊之助は旅装の支度に取り掛かっている。

 その様子を横目で見ながら、義太夫はこっそりと新介の袖を引く。

「なぁに。婆様には文でも残しておけばよい。『都の寺に籠り、厄除け修行中』とか何とか」

「それで納得なさるような御方か!」

「ならばこう書け。『菊之助様、都にて霊験あらたかなる巫女と巡り合い、魂を癒される。これ、仏縁深き導きなれば、しばし修行の旅に出る。新介、これに従う』――どうじゃ?」

「御仏かかどわかしか、わからぬ内容になっておるが…まぁ…」

 新介は再び天を仰いだ。

 こうして翌朝、三人と一人(歩き巫女)は、誰にも知られぬまま、洛中を離れることとなった。

 それぞれ、違う想いを胸に抱きつつ――

 義太夫は、笑いをかみ殺しながら旅の先を見つめていた。

(さぁて、どこまで誤魔化せるか)

 面白きことは、まだ始まったばかりである。


 

 こうして義太夫、新介、菊之助、それに歩き巫女という、どう見ても訳ありにしか見えぬ一行は、甲賀には戻らず、尾張へと入った。

 城下の町が見えたころ、菊之助がついに立ち止まり、義太夫の袖を引いた。

「おい義太夫、ここは尾張ではないか?……まさか、仕官の先というのは――」

「いかにも。織田家の中でも勢いのある弾正忠家、そしてその中でも特に信望厚い、織田上総介殿の家人の屋敷に向こうておりまする」

「……上総介の家人? それは、誰じゃ?」

 ここでついに種明かしの時が来た。義太夫はピタリと足を止め、静かに振り返った。

「菊之助様の御兄君、滝川左近将監一益様にございます」

 その場に、軽い沈黙が走った。

「な、なんじゃと」

 菊之助は思わず声を上げたが、それ以上に顔色を変えたのは新介だった。

「待て、待て待て! そのような大事を、今さら言うでない! わしまで戻れなくなってしまうではないか!」

 義太夫は手をひらひらと振りながら、

「いやはや、申さなかったわけではありませぬ。言う機会がなかっただけでしてな」

「同じことじゃ!」

 新介が叫ぶのをよそに、義太夫は唐突に神妙な顔つきになって、菊之助の前に進み出た。

「よろしゅうございますか、菊之助様」

「な、なんじゃ?」

「今、この女子と共に、兄君の家人となれば――行く行くは一国一城の主となることも夢ではありませぬ。菊之助様の才も美貌も、都の女どもが惚れぬわけがない。左近様も、きっと心強く思われましょう」

 そう言いながら、ちらと歩き巫女の方を見る。彼女は訳も分からずポカンとしていたが、何やらとても運命的な話にされているらしい、というのは伝わっていた。

「それとも、恋しい女子と別れ、甲賀の山中で母御の顔色を窺いつつ一生を過ごされるか。左近様のお名も伏せ、ぬしを逃すことなど造作もござらぬ。今ならまだ間に合いますれば、お一人で甲賀へお戻りなされ」

 この言葉に、菊之助はさっと顔を赤らめた。

「ひ、一人で戻れと言うのか!? わしは…わしは…!」

 たじろぐその姿に、義太夫は満足げに頷いた。

(そもそも一人旅の経験などあるまい。脅せばすぐ尻尾を巻く)

「ではこういたしましょう。我らは長屋に戻ります。菊之助様はその女子と、今宵、ゆっくり語り合ってお決めなされ」

 そう言うと、ぽかんとしたままの菊之助を残して義太夫は軽やかに旅籠へと向かった。


 旅籠の軒下に取り残された新介は、しばし何かを言おうとして言葉に詰まり、やがて両手で顔を覆って呟いた。

「……まこと、厄介なものに関わってしまったわ……」

 だが、心のどこかで――その厄介さこそ、退屈な日々から自分を解き放ってくれると、うっすら気づいてもいた。

 

 義太夫は清須城下の長屋に戻り、新介を一益に引き合わせた。

「殿。従兄弟の佐治新介でござりまする。殿にお仕えしたいと言うて、甲賀を飛び出してまいりました」

 とこともなげに言えば、新介もやや緊張した面持ちで口を開く。

「家来衆の末席にお加えいただきたく、まかり越しましてござりまする」

 もっとも、家来衆も何も、家人と呼べるのは義太夫と、例の小者くらいしかいない。

 一益は珍しく目を細め、ほっとしたように手を打った。

「よく来てくれた。まこと、手足となって働くものもおらず、困っておったところじゃ」

 新介と義太夫は胸をなでおろした。一益がそれほどまでに困窮していたとは思わなかったのだ。


 と、そこで義太夫が意味ありげな笑みを浮かべる。

「実はもう一人、家人に加わりたいと言って甲賀から来た者がおりまする」

「ほう、もう一人?」

 一益が眉を上げる。

「菊之助様で」

 この一言が落ちるや否や、空気が一変した。

「――菊之助?」

 次の瞬間、一益は目にも止まらぬ早業で刀を抜いた。

「義太夫ッ! おのれは、わしをたばかったか! 菊之助は、死んだのではなかったのか!」

 鬼の形相で迫り、義太夫の喉元に刃が突きつけられた。新介は何が起きたか分からぬまま仰け反り、膝をついた。

「な、なに? 死んだとは……? 義太夫、その方、一体何を……?」

 さすがの義太夫も一益の剣幕に言葉を詰まらせ、しばし口を閉ざした。だが、やがて深く息を吸い込み、いつになく真剣な面持ちで一益を見上げた。

「殿――。菊之助様は、殿のご実弟。血を分けたご兄弟にございます」

「……わかっておる。だからこそ、手をかけてはならなかったのだ。だが―わしは……!」

「殿は怒りに目がくらみ、菊之助様を殺めようとなされました。さりながら、いつか必ず、それを後悔なされる。その時、殿は弟を手にかけた己と、そしてこの義太夫をも、憎しみの底から咎めることになる。――それが分かっておったのです」

 義太夫の声音には、嘘の気配がまったくなかった。

「さればこそ、命をお助け申し上げました。咎なき弟御を殺めれば、その土地は口を開き、殿の手からその血を飲みまする。殿は地に呪われ、弟の血がその土の底から、殿の名を呼びつづけましょう」

 一益の剣先が、微かに震えた。

「……義太夫、その方は…このわしに、説教をするか」

「いえ。忠義にございます。ただ一人の弟御を失い、幾度悔いても遅い、そうならぬためにこそ、わしは動いたのです」

 長い沈黙が流れた。空気が張り詰め、新介の喉がごくりと鳴る。

 たまらず、新介が一歩進み出て、ひざまずき、深々と頭を下げた。

「殿。この義太夫は、まことの法螺吹きにございます。されど、殿への忠義だけは、どんな大軍の将より確かにござりまする」

 そう言って、義太夫の頭を床に押し付けた。

「どうか、この新介に免じて――お許しくだされ」

 一益は刀を伏せた。刃が義太夫の肩口でぴたりと止まる。

 刃先がわずかに揺れ、空気がひんやりと震えた。

 誰も動かない。火の落ちた行灯の光が、三人の影を長く伸ばしている。

 一益の呼吸だけが、かすかに聞こえた。

 やがて、一益はゆっくりと目を伏せ、低く呟いた。

「……生きてさえいれば、叱れる」

 その声は、怒りではなく、胸の底からこぼれたような言葉だった。

 短い息が漏れ、刃鳴りが静かに室に消える。

 一息おいて、一益は刃を鞘へと納めた。

「まったく、おぬしというやつは……生き長らえる限り、わしの肝を冷やし続けるつもりか…」

 義太夫は頭を下げたまま、わずかに口元を緩めた。目を伏せながらも、心の奥で、確かに兄弟の絆がまだ絶たれていないことを喜んでいた。

 一益は静かに新介を見、それから義太夫へと目を移す。そして深く息をつき、すうっと刀を鞘に納めると、何事もなかったかのように座り直した。重たかった空気が、ひとときにして解けた。

「菊之助は旅籠か?」

 その声は、いつもの一益の落ち着いた声音だった。

 新介は安堵のあまり胸をなでおろし、慌てて頭を下げる。

「はい、殿のご沙汰を待ち、城下の旅籠にてとどまっておいでで」

「相わかった。明日、これへ連れて参れ」

「ハハッ!有難き幸せ!」

 弾かれたように義太夫が顔を上げ、いつもの惚けた声をあげる。

「まことに有難き次第にて……殿の寛大な御心、肝に銘じまする。いまこそこの身、火中も辞さぬ覚悟にございまする」

「火中は結構だが、余計な火はつけるな」

 一益が冷ややかに釘を刺すと、義太夫は「ごもっとも!」と手を合わせて笑った。

(まったくもって……この主従は……)

 新介は思わず肩を落とした。緊迫したやりとりの直後だというのに、義太夫はすでに浮き浮きと立ち上がり、長屋の奥へと引っ込んでいく。

「よぉし、今宵は腕によりをかけて飯をこしらえましょうぞ!」

 どこからか台所の炊ぎ女を呼びつける声が響く。

(兄弟の再会より、まず飯とは…。一国一城どころか、三日と身の保つものか)

 新介は心の中で天を仰ぎつつも、なぜか笑いがこみ上げてきた。

「法螺は一流。されど、殿に向ける忠だけは本物じゃ」


 翌日、朝露まだ乾かぬころ、義太夫は旅籠の前に立っていた。のれんの向こうから菊之助の声が聞こえ、しばらくして障子が引かれる。

 菊之助はいつになく引き締まった面持ちで、傍らには例の歩き巫女が寄り添っていた。都の夜に芽吹いた恋は、どうやら一夜の幻ではなかったらしい。

「なにやらお心が決まったご様子」

 義太夫が含み笑いを浮かべて言うと、菊之助は歩き巫女の袖をそっと握りながら、少し照れたように言った。

「それもこれも……惚れた女子のためじゃ。兄上に会おうではないか」

「ハッ。喜ばしい限りでござりまする」

 菊之助が旅籠を出ると、歩き巫女も小さく頭を下げ、義太夫の後について歩き出す。

 その後ろ姿を見つめながら、義太夫は内心ほくそ笑んだ。

(やれやれ。これで家人が二人、いや三人増えた。飯は倍、手間も倍だが――)

 それでもなお、義太夫の心は軽かった。これから先、どんな策を弄して、誰を口車に乗せて、どう兄弟を支えてゆくか。煩わしくも愉快な思案が、脳裏にぽつぽつと灯りはじめていた。

(さて、次は誰を騙して連れてくるか……)

 清須へと続く道すがら、義太夫はもうすでに、甲賀のあの者、この者の顔を順に思い浮かべていた。

 ――戦国の世にあって、刃よりも火よりも手強いのは、義太夫の舌先三寸――当の本人は、それを美徳だと思っている。

 小さな隊列の影が、朝の霞に溶けていく。

 彼らが何者で、何を為すのか。戦国の風も、まだその名を知らなかった。

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