並行の二道

ラブコメなら、ここで修羅場が始まるんだろう。

けれど現実は違った。


芝目は小さく身を縮め、俯いたまま動かない。

島村は扉の前で固まり、目を見開いたまま俺たちを見ている。

俺自身も声を失っていた。


沈黙が重く落ちてくる。

島村の視線は、俺ではなく芝目に注がれている。


……理由はわかっていた。


一度区切りをつけたとはいえ、島村と話してからはまだ数日しか経っていない。

彼女にしてみれば、俺の隣に芝目がいるのは見過ごせないのだろう。


このままじゃ空気が固まるだけだ。

俺が切らなきゃ。


「な、なんかあったか、島村?」


咳払い混じりに声をかけると、ようやく彼女の体が動いた。

「へ?あ……いや、ちょっとね……」


返事はしたが、まだ視線は泳いでいる。

俺と芝目のあいだで揺れ動くように。


芝目を見ると、彼女はプリントを握ったまま下を向いていた。

島村の登場で、一歩引いてしまっているのが痛いほど伝わってきた。


俺にも怯えた上で、また一人がここに混ざった。彼女は今どんなふうに感じているのか、さすがにわかるはずもなかった。


なにか言葉をかけるべきか、しばらく口ごもる。けれど、思いつく言葉がなかった。


そしてついに我に返った島村が息を吸い込んで会話をつなぎ止めてくれた。


「えっと……すみません、芝目さん。少しだけ坂田と話してもいいかしら?」


話しかけられた芝目はびくりと肩を跳ねて、慌てるように目を泳がせた。

「は、はい…!」


かすれた声と共にわずかに椅子が軋んだ。

さらに肩をすくめて距離を開けた仕草に、胸が強く引っかかった。

怯えているのか、気を使っているのかが分からない。ただわかるのは、芝目が間に入らないようにしていること。


それがわかるだけで胸がざわついた。


島村と視線を交わして、お互いは複雑な表情になった。この場面を長続きさせては、芝目に申し訳ない。


島村もそれを理解してくれているようだった。


「ありがとう、芝目さん。では、ちょっとだけ。」


そう言いながら島村は俺に顔を近づけて、耳元に囁いた。


聞かれては困る話?


「この間の診察の話だけれど、今週なら今日しか空いてないわ」


あー、あれかぁ……


苦いものを口に入れたように顔が引きつっていく。

よりによって今か…


再び目が芝目の方に飛んでしまう。

震えている肩に、わずかに荒くなっている息遣いが耳に届く。


先ほどの彼女のためらいが目に浮かぶ。


一緒に帰ることは、やはり難しい。


……ここで無理に引き留めたら、また彼女を怯えさせるかもしれない。

休ませてやるのが一番いい。

――そう、自分に言い聞かせた。


息をのんで、俺は島村に向き直った。

「わかった。じゃあ、今日しようか」


俺の返事が意外だったか、島村は見開いた。


「あら?いいの?」


「うん。ちょうど宿題も一区切りだし」


視界の端に芝目が顔をあげたのが見える。その表情には状況を理解しきれていないことを語っている。


胸に握っていた手から力が解いていくのを見て、俺はスッと息を吐いた。

少しぐらい楽になってくれたようだね。


やはりこれがいいだろう。


筆記用具を片付けながら、彼女にまた声をかける。

できるだけ優しく、声を押さえながら。


「ごめん、芝目さん。先のは無しだ。もう遅いし、早く帰った方がいいよね」


「へ…?あ、え…」


立ち上がる俺に芝目はずっと無言なまま見つめてくる。

その瞳には何かが滲んでいるようだった。


安堵しているのかと思った。

けれど、よく見るとそうでもない。

彼女の表情の奥にあるものは、俺にはわからなかった。

それでも、せめて安心させなければと思った。


また笑って見せて俺はもう一つ言葉を投げかけてみた。


「大丈夫だよ、芝目さん。今日はもうこれで終わりだよ」


これで…いいはず。


「……そ、そう…ですね…」


彼女の肩が落ち、視線も下へと向く。

反応の声音は、なんだか俺の予想と違っていた。


……なんだろう。俺の選択が間違いだったのか?


わからない…眉間にしわが寄っていく。

時計の音がやけに耳に響く。


島村さんと一緒に教室を出る際も、ずっと芝目から目が離れなかった。


扉につくころ、胸の引っかかりが俺を止めた。


最後に一言だけ、かけなければならない。そう強く感じた。


「あの、芝目さん。また明日やりましょ」


その一言が口から放った時に、ようやく芝目が顔をあげる。

弱々しく俺を見て、しばらくそのまま視線がとどまると、やがて彼女は頷いた。


「……また、明日」

その声は小さく、けれど確かに届いた。

それだけで、胸の奥が少し痛んだ。


廊下に出た途端、空気がひどく冷たく感じた。

島村と目が合う。

彼女も、同じことを考えているようだった。


だが結局のところ、あの場面では何が正しかったか、しばらく正解を知る由もなかった。


「…ごめんね、坂田。とりあえず、行こう」


頷いた後、俺たち重い足取りで保健室へと向かった。


***


保健室には、俺たち二人だけだった。

先生は職員室の事務仕事に呼ばれ、鍵を島村に預けて出ていった。

「終わったら閉めておいてね」とだけ言い残して。


窓の外はもう薄暗く、蛍光灯の白がやけに冷たい。

先生に取り残された静けさが俺たちには都合がよかった。


「血圧正常、心拍数も正常、肺活量も問題なし……うん、健康状態に異常なし」

島村は聴診器を外し、手際よくノートに数字を書き込む。

まるで医者のような動きだった。


どこでそんなふうに慣れたんだろう。


「パパに見学させてもらったの。これ、全部現役のお医者さんに教わったのよ」


俺が聞くや否やで島村が答えてくれた。

内心に思った疑問までわかるとか、さすがにちょっと怖いっす…


「……心の声、読まれてる気がする」


「顔に出てたわ」


軽く笑って、彼女は胸を張った。


「飲み込みが早いって、パパも褒めてくれたの」


「そっか、さすがだね」


「ふふっ、ありがと」


微笑む島村の目が、少しだけ輝いて見えた。

どこか誇らしげで、どこか安心したようでもあった。


――ようやく、俺たちは元通りに戻れたのかもしれない。

告白の前の、気楽な友達に。

そう思ったら、少しだけ息が楽になった。


教室で芝目と一緒にいたことも、もう気にしていないようだ。

立ち直りの早さは、島村らしい。

そのうち、また別の誰かを好きになるのかもしれない。


安心した途端、頭に浮かぶのは芝目の肩の落ちた姿。

怯えていたはずなのに、あの瞬間、何か言いかけていたような――。

運命のいたずらみたいに、島村が入ってきたせいで、結局聞けなかった。


……断られるだろうと考えれば、ある意味救いかもしれない。


そんなことを考えている最中に、ノートから顔をあげる島村はまた俺に向き直る。

顎に手を当てて、しばし俺を見つめると、口を開けた。


「では、最近の調子はどう?」


いきなりの質問に、思わず間の抜けた返事をしてしまう。

「え、どうって?まぁ、勉強会をしようって言いだしたぐらいで、まだそこまで進展はないかな。宿題を手伝ってるだけだからまだなんとも」


クスッと笑った島村は、呆れたように息を吐いた。

「貴方の話よ。診察のために体調のことを聞きたいの」


あ、やっべ…何も考えずに口走った。


「あ、あぁ、そうだよね!ごめん」


何やってるんだ、俺…芝目の話で島村を悩ませるわけにはいかないと決めたのに、なんでまたその話題を持ち出したんだ…

申し訳なく、顔を逸らしてしまった。


「でも、よかったわ。ちゃんとあの子を大事にしているようで」


島村は背もたれに体を預け、微笑んだ。

その笑みの奥に、わずかな影が揺れていた。


……ダメだ、やはり話題を変えよう。


「えっと、まあ。最近は普通かな?三食欠かさず、運動はちょっとしてる…」


無理やりに話を逸らしてみたものの、割とよくできた気がする。

島村は少しだけ呆然としていたが、何も言及せずにその話に乗ってくれた。


お互いも、あんまり変な空気にしたくないはずだ。


「そう。何か変にストレスを感じることは?」


「んん…これと言ったことはないかな…」


「なるほど」


俺の話を聞きながらノートに落とし込む。

そんな単純の質疑応答は、5分ぐらい続いていた。


家での悩み、学校外では何をしていたか。

妹の鈴子の話をすると、島村は少しだけ眉を上げた。


「妹がいるのね」


「うん。たまにはどっちが年上なのかよくわからないほどにしっかりしている子だ」


「何となく想像できそうね」


軽い笑いが交わされ、保健室にほんの少し温度が戻る。

――この空気だ。これが、失いたくなかった関係。


「…それにしても、貴方の症状に繋がるヒントは、今のところ見当たらないわね」


ノートを睨むように見つめながら、島村がつぶやいた。

時計のない保健室で、沈黙だけが耳を満たす。


ヒントがない。

つまり、まだ何も見えていないということだ。


胸の奥で、緊張がじわりと広がる。


だが、島村は顔を上げ、柔らかく問いかけた。

「最近は、よく眠れているかしら?」


睡眠…思い返せば、最近だと少し寝つけが悪い日もあるにはある。


芝目のことに悩む日…島村との電話の後で悩む日…


んんん……女悩みばかりじゃないか…


「まぁ…たまに夜更かしてしまうことはあるぐらいかな?」


「あら、宿題が多いの?」


「……そんな感じ」


島村のせいで寝れていない日があるなんて言えるわけがない。


記憶をもう少し辿ってみると、坂田家に移ったころを思い出す。

最初は緊張のあまり変に寝れなかった日も続いていた。


病室にいる茉奈姉に言い渡された日、夜にお母さんとお父さんが俺を迎えに来てくれてた。

ベッドは柔らかかったけど、いろいろありすぎて心の整理も多かった。


安心して眠ることも、しばらくはなかったのかもしれない。


その反動で、ずっと深夜0時に就寝するようになった。


これかな?


「……孤児って、話したっけ?」


「……言ったわね。茂君もよく話してたし」


家族を移ってからの状況を淡淡と俺は話す。緊張と不安。

しばらく鬱になっていたことも、明かしてみた。


島村だからかな、こうも言葉がすらすらと出るようになったのは。

EDのことを笑わずに受け入れてくれたから、この話も聞いてくれるのだろう。


そう思って、口が軽くなり思わずしばらくあのころをこぼしていた。


「……そう…大変だったわね」


「…まあ、もう大丈夫と思うけど」


不思議と肩が軽く感じた。

何も思い悩むことは残っていないと思ったのに、話して気が楽になっていた。


それとも、ただ誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。


話を終えて、島村はまたノートに目を落とす。

そして何か思い浮かんだように、口角を上げた。


「では、睡眠質を改善することから始めましょ。健康的な体は、質のいい睡眠から成ることもある。だからちゃんと寝れば、そのうち貴方の…性器の機能が戻るでしょう」


一瞬迷ったけど、結局ドストレートに表現するよね、この人。


顔に浮かんだのか、島村は疑問の目を配って来る。

「何もおかしなことを言っていないだろう」とでも言いたげだった。


確かにその通りだけど、違和感があるのは自覚してもらいたい…


「うーん……とりあえず、十時には寝ることをおすすめするわ。それと、ちょっと試してみたい方法があるの。でも少し準備に時間がかかりそうね」


「準備?」


島村は頷くが、言葉を発する前にとどまる。

そして何か面白いことを思い出したかのような表情になっていった。


「休み明けに、その詳細を話すわ」


島村の口元に、企みとも安心ともつかない笑みが浮かぶ。

何を考えているのかは、まだわからない。

けれど、その笑みに不思議と救われる気がした。

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