昼の月

昨日の芝目の言葉が脳裏に浮かびながら俺は登校した。彼女の小さな声で向けられた「ありがとう」。

それを思い出すたびに、顔がにやけそうになって困る。



……確かに、あの子の声が、俺に届いていた。



翌朝の春風は穏やかに吹き抜ける。教室の扉の隙間からざわめきが漏れてきた。



ドアを開けると、春の日差しに照らされた教室が広がっていた。窓際、茂が女子たちと楽しげに話している。



「ええ〜でも結城くんがさーーー」

「あはは〜それはさすがに僕にも分からないよ」



恋バナのように聞こえた。男子の相談、か。

俺はそっと自分の席に向かった。椅子を引いた音が、教室の空気に俺の存在を知らせた。



気づいた茂は俺の方を向いて、パッといつもの笑顔になりながら手を振ってきた。



「おっ!あっきー、おはようー」



「はよー」



茂は女子たちに一言だけ残すと、ふわりと俺のところへ寄ってきた。

顔を近づけて声を落とすーー



「……芝目さんと資料室。だったんだって…?」



「…っ?!」



声にならない異様な音が喉から鳴った。

俺も声を落としてひっそりと茂に問いかけた。今にも茂の肩を掴みそうな衝動を抑えた。



「…なんで知ってんの…?」



「三門から聞いた。図書委員のことで先生に話してた時、向かいの校舎から見えたってさ。口軽いよね~、あいつ」



……いや、お前もな…



「え~なになに~?坂田君って彼女いんの?」



「まじ?以外~!」



さっきまで茂と話していた女子たちが、好奇心たっぷりの顔で寄ってくる。

視線が一斉に集まり、額に冷や汗が滲む。



「それがさ、あっきーってやつは…んぐっ!?」



口を開きかけた茂の顔を、俺の手が押さえた。

何言いだす気だ、このバカ?!



「お、また余計なこと口走ってんな、相川!」



キャーキャーと騒ぐ女子たち、笑い出す男子たち。

教室の空気が一段とにぎやかになる。



その時だった。

「カラ……ン」と扉が開く、わずかな音。



ひらりとよもぎのような、ぼさついた髪が風に揺れながら教室へ入ってきた。



目の端から入ったその姿が、ほんの一瞬、こちらを見てた……気がした。

疑って視線を向けると、芝目は俯いたまま席へと小走りで向かい、 誰とも視線を交わさず、静かに腰を下ろす。



彼女が歩いている間、時間が少しだけゆっくりと流れた気がした。



「……んんっ!むぐぐっ!」



ぽんぽんと俺の腕をたたいた茂はプルプルと体を震わせてる。息苦しかったように悶えたことに気づきそいつの口から手を離した。



「…はぁっ…ゲホッ…死ぬかと思った…」



その言葉で、教室の日常がまた現実に戻ってきたような気がした。



「……今度また変なこと言いだしたらただじゃ済まねぇかんな…!」



そう言いながらも、自分の顔が熱くなっているのを感じた。



「えぇ~、僕はただ報告してるだけなんだけど?」



また笑いが部屋を満たしていく。

けれど俺の視線だけは、ずっとーーある小さな背中に留まったままだった。



あの視線…やっぱり気のせいだったのか。



***



「……ってことがあってさ…」



図書館のカウンターで、三門と並んで作業を進めながら、朝の出来事を話した。

話を終えて、貸出記録簿を閉じた。

横を見るとその三門は視線をそらしていた。



「……何か言うことは…?」



「……弁明の余地もございません。」



「はい、判決。一人で本の並べ直しを罰と処す。」



鼻で笑って椅子にもたれた。

深いため息をつきしばし目を閉じる。記録簿とにらめっこしていたせいか、少し目が痛い。

いや、それ以上にーー朝のテンションで、妙に疲れていた。



少し休憩しようかと思ったそのとき、整理に向かおうとしていた三門がカウンター越しに声をかけてきた。



「なあ、別に恥ずかしいことじゃないと思うぜ。芝目さんのことが好きって話」



少しだけ顔が引きつった。



「……そういうのじゃないって…」



「まったく…思春期の中学生か、お前は。」



姿勢を変えず目をひそめる。三門の顔にはからかいの色はなかった。

真剣そのものの表情が、言葉をためらわせた。



「俺と茂は結構ちょっかい出してるけどさ、そりゃお前がチキってるからだよ。男だったらそんな変なプライドやめて、告白すりゃいいだろ。」



歯を食いしばり、睨みそうになった。

……でも、不思議と怒りは湧かなかった。心のどこかで「あいつの言う通りだ」という声があったからだ。

何か言い返そうと口を開いたが、言葉は出なかった。前かがみに姿勢を崩して、ただ溜息だけが漏れる。



「……まあ…そうかも…」



「”かも”、じゃねえよ。お前頭悪くないし、怒こらねぇってことは俺の言っていることに一理があるって思ってんだろう?」



そう言って、三門は本を抱えて棚へ向かう。



二人しかいない図書館に、俺たちの声だけがやけに響いた。



あいつの言う通り…でも…あの子があの性格じゃ…



「…一応聞くけどさ、芝目さんってどんな子か知ってるか?」



距離があったので、やや声を張った。



「ああ、一応な。一年は同じクラスだったろ?」



だったら、なんで俺が悩んでるかわかるだろう?

喉まで上がってきたその言葉を言いだそうとしたとき、遮るように三門が続けた。



「ただしーー各戦場には、それぞれの策あり。向こうは気難しい子なら、時間と”慣れる場”を与えればいいと思うよ。」



…それじゃ結局何もしないことと同じじゃないか…

頭が痛くなってきた。結局どうしろっていうんだ?

頭を掻いて少し呻く。それが聞こえたらしい三門は笑った。



「おいおい、そんなに躍起になるなって。」



最初の本の山を棚に戻したようでカウンターまで戻ってきた。

呆れたようで、少し柔らかい声で続けた。



「お前が言ってたじゃん。資料室の片付けの後にに芝目さんが”ありがとう”って言ってくれたって。」



三門のその一言に、胸の奥で何かが嚙み合ったような感覚が走った。顔をあげてあいつのほうを見る。

三門は何事もなかったように次の本の山を持って棚へ向かった。



「…もう、”慣れるための場”を作ったんだ…」



ふと言葉が漏れた。



「ほら~やっぱ頭が悪くないじゃん!あとはそれの積み重ねだよ。1年は長いから、時間がたっぷりあるぜ。」



面白そうに笑っていたが、それは決してからかいの笑いではなかった。つられて俺も、鼻で小さく笑った。



なんとなく、肩が軽くなったように感じた。いや、もともと荷物なんてなかったのかもしれない…そう思えた。



昨日の”ありがとう”。

今朝のあの視線。

これは芝目さんが少しでも俺に慣れてくれることを言っているなら…



あの視線…気のせいではないことを信じよう。



しばらく、静寂が図書館を包んだ。けれどその沈黙は、次につながるための小休止のように思えて心地よかった。



よし…今度こそ休憩。



背もたるに体を預けようとしたその時、図書館の扉が静かに開いた。



入ってきたのは島村だった。

まっすぐカウンターまで歩いてきて、俺の前でピタリと止まった。



「…や、坂田君。忙しいかな?」



島村が俺に聞いてきた。図書館の端の棚から聞こえたか、三門が顔を覗かせた。



「お、島村じゃん!」



「あら…今日は二人が担当なのね。」



三門の声に、肩越しに目を向いて軽く会釈しながらもすぐに俺へ戻る。

どこか、その瞳に火が灯ったように感じた。



「…で、忙しいかしら?」



少しだけ、先までとは違う真剣な声だった。



「え?いや、別に」



普段、表情が読みにくい島村だったが、

その瞬間、ふっとーー透き通るような笑みを浮かべた。



「なら…ちょっと来てくれるかしら?話があるの。」



「話?ここじゃダメか?」



小さな間の後、次の言葉は小さく、島村の視線が一度だけ外れた。

その声は、ほんの少しだけ揺れていた。



「……ここじゃ…ダメ…」



その瞬間、図書館の奥から「ガラガラッ」と本が崩れ落ちる音が響いた。

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