小さな異変

 五人は、早足で廃屋を出た。

 夜風が肌を撫で、むわっとした家の中の空気から解放される。だが安心感よりも、不気味さの余韻が体にまとわりついて離れなかった。


「……はぁ、やっと外。マジで無理」

 楓は腰に手を当て、息をついている。

「ほら見ろ、幽霊なんて出なかったろ」

 隼人は強がったように笑ったが、その声はわずかに上ずっていた。


「でも……音、したよね」

 みのりが振り返る。

 玄関の奥、闇の中がまだこちらを見ているようで、背中に冷たいものが走った。


「やめてよ……。ねえもう帰ろう、ほんとに」


 晶は仲間の様子を見ながら、乃々香に目をやった。

 彼女はじっと家を見上げていた。

 その横顔は、どこか哀しげにさえ見えた。


「ののか?」

 声をかけると、彼女はゆっくり首を振った。


「……ううん。なんでもない」


 そう言ったが、その声は微かに震えていた。



 駐車場に戻り、車に乗り込む。

 山道を下り、やがて街の灯りが見えてきた。

 車内の空気は、さっきまでの恐怖のせいで妙に重たかった。


「ねえ、さっきの部屋……血の跡みたいなの、ほんとにあったよね」

 楓が小さな声で切り出す。


「まあ……三十年前の事件現場なんだし。残っててもおかしくないだろ」

 隼人が肩をすくめた。


「うわー、そういうこと言わないでよ」

「でも実際そうじゃん。あのぬいぐるみも……やべえよな」

「やめろって!」


 わいわいと声を上げる二人。

 晶は運転席でハンドルを握りながら、バックミラーに映る乃々香の顔をそっと見た。


 彼女は窓の外を眺め、まったく会話に加わっていなかった。

 その横顔は、硬く強張り、時折小さく唇が動いている。


(……なにか、つぶやいてる?)


 聞き取れなかったが、ただの独り言ではない気配があった。

 まるで誰かに話しかけているように。



 深夜、解散して帰宅した晶は、ベッドに倒れ込んだ。

 疲れているはずなのに、まったく眠気が来ない。

 脳裏には、止まった時計と、ぬいぐるみを見つめる乃々香の姿が焼きついていた。


「……夢で見たのと同じ」


 あの言葉が離れない。

 本当に偶然だったのか?

 いや、もしあれが夢じゃなかったとしたら──


 頭を振った瞬間だった。

 視界がふっと歪んだ。


 ベッドの上に座っている自分が、数秒前の姿として見えた。

 同時に、部屋のドアが開きかける映像が走馬灯のように流れる。

 しかし次の瞬間には、元の光景に戻っていた。


「……っ、なんだ、これ……?」


 心臓が跳ねる。

 見間違い? 幻覚?

 だがあまりに鮮明で、記憶とも違う感覚だった。

 まるで、その場所に刻まれた“過去”を覗き込んだかのような。



 翌朝、晶は寝不足の顔で大学に向かった。

 しかし講義室に乃々香の姿はなかった。

 LINEを送っても既読はつかない。


「ののか休み?」「昨日、やっぱ無理したのかな」

 みのりと楓が心配そうに話している。

 晶は曖昧に頷きながらも、胸の奥がざわついていた。


(あの子に……なにか起きてる)



 その日の夕方、晶のスマホに通知が入った。

 送り主は乃々香。短いメッセージだった。


〈……少し、話せる?〉


 場所は大学近くのカフェ。

 店内に入ると、窓際の席に乃々香がいた。

 薄手のカーディガンに身を包み、どこか頼りなく座っている。

 顔色は悪く、目の下には隈ができていた。


「大丈夫か?」

 晶が声をかけると、彼女はかすかに笑ってみせた。


「……うん。ちょっと、眠れてないだけ」


 メニューを開くこともなく、乃々香は両手を膝に重ねて言った。


「ねえ……昨日、あの家に行ったとき。わたし、見えたの」


「見えた?」


「夢と同じ。あの子が……ぬいぐるみを抱いて座ってるの。

 でも……顔が、ぐちゃぐちゃで。ぼやけてて、見えないの」


 晶は息を呑んだ。

 乃々香は淡々と話しているが、その声はかすかに震えていた。


「昨日の夜も夢を見たの。ベッドの足元に、ずっと立ってるの。

 何も言わない。動かない。ただ、じっと……わたしを見てる」


 彼女の目が宙を泳ぎ、指先が小刻みに揺れていた。


「……ののか、それ、ただの夢じゃ──」


「違う」

 遮る声は鋭かった。

 彼女は目を伏せ、押し殺すように呟く。


「夢じゃない。あの子、いるの。わたしのところに……」



 その夜。


 晶は布団に入っても眠れなかった。

 頭の片隅に、乃々香の怯えた表情が焼きついている。


 そして──再び“それ”は起きた。


 視界がふっと切り替わり、数秒前の自分の姿が見える。

 ペットボトルの水を机に置く動作、その一瞬前。

 ほんのわずかの差なのに、映像の向こうには“もうひとりの自分”がいた。


「……まただ」


 呼吸が荒くなる。

 ただの既視感とは違う。映像は鮮明で、確かに「過去」を切り取っていた。


 その瞬間、耳の奥に声が響いた気がした。


──見て


 晶は息を呑んだ。

 誰の声なのか分からない。女の子の声のようでもあり、遠くから響く残響のようでもあった。


 次の瞬間には、映像も声も途切れていた。

 ただの静かな部屋。時計の針の音だけが響く。


「……気のせいじゃ、ないよな」


 晶は顔を覆った。

 乃々香の「夢」、そして自分の「映像」。

 何かが繋がっている。

 そう直感せざるを得なかった。



 翌日。


 大学に来た乃々香の様子は、さらに悪化していた。

 講義の最中に急に立ち上がり、教室の外をじっと見つめたまま動かなくなる。

 誰もいない空間に話しかけるように唇を動かす。


 楓とみのりが慌てて声をかけても、反応は鈍かった。

 やっと振り返ったとき、その目はどこか焦点が合っていなかった。


「……ごめん。ちょっと……具合が」


 そう言って席に戻ったが、手は小さく震えていた。


(ののか……本当に、なにかに“見られて”るのか?)


 晶は唇を噛んだ。

 あの廃屋で何かを拾ってきたのは、乃々香だけじゃない。

 自分もまた、あの家に“繋がって”しまったのだと悟った。

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