小さな異変
五人は、早足で廃屋を出た。
夜風が肌を撫で、むわっとした家の中の空気から解放される。だが安心感よりも、不気味さの余韻が体にまとわりついて離れなかった。
「……はぁ、やっと外。マジで無理」
楓は腰に手を当て、息をついている。
「ほら見ろ、幽霊なんて出なかったろ」
隼人は強がったように笑ったが、その声はわずかに上ずっていた。
「でも……音、したよね」
みのりが振り返る。
玄関の奥、闇の中がまだこちらを見ているようで、背中に冷たいものが走った。
「やめてよ……。ねえもう帰ろう、ほんとに」
晶は仲間の様子を見ながら、乃々香に目をやった。
彼女はじっと家を見上げていた。
その横顔は、どこか哀しげにさえ見えた。
「ののか?」
声をかけると、彼女はゆっくり首を振った。
「……ううん。なんでもない」
そう言ったが、その声は微かに震えていた。
◯
駐車場に戻り、車に乗り込む。
山道を下り、やがて街の灯りが見えてきた。
車内の空気は、さっきまでの恐怖のせいで妙に重たかった。
「ねえ、さっきの部屋……血の跡みたいなの、ほんとにあったよね」
楓が小さな声で切り出す。
「まあ……三十年前の事件現場なんだし。残っててもおかしくないだろ」
隼人が肩をすくめた。
「うわー、そういうこと言わないでよ」
「でも実際そうじゃん。あのぬいぐるみも……やべえよな」
「やめろって!」
わいわいと声を上げる二人。
晶は運転席でハンドルを握りながら、バックミラーに映る乃々香の顔をそっと見た。
彼女は窓の外を眺め、まったく会話に加わっていなかった。
その横顔は、硬く強張り、時折小さく唇が動いている。
(……なにか、つぶやいてる?)
聞き取れなかったが、ただの独り言ではない気配があった。
まるで誰かに話しかけているように。
◯
深夜、解散して帰宅した晶は、ベッドに倒れ込んだ。
疲れているはずなのに、まったく眠気が来ない。
脳裏には、止まった時計と、ぬいぐるみを見つめる乃々香の姿が焼きついていた。
「……夢で見たのと同じ」
あの言葉が離れない。
本当に偶然だったのか?
いや、もしあれが夢じゃなかったとしたら──
頭を振った瞬間だった。
視界がふっと歪んだ。
ベッドの上に座っている自分が、数秒前の姿として見えた。
同時に、部屋のドアが開きかける映像が走馬灯のように流れる。
しかし次の瞬間には、元の光景に戻っていた。
「……っ、なんだ、これ……?」
心臓が跳ねる。
見間違い? 幻覚?
だがあまりに鮮明で、記憶とも違う感覚だった。
まるで、その場所に刻まれた“過去”を覗き込んだかのような。
◯
翌朝、晶は寝不足の顔で大学に向かった。
しかし講義室に乃々香の姿はなかった。
LINEを送っても既読はつかない。
「ののか休み?」「昨日、やっぱ無理したのかな」
みのりと楓が心配そうに話している。
晶は曖昧に頷きながらも、胸の奥がざわついていた。
(あの子に……なにか起きてる)
◯
その日の夕方、晶のスマホに通知が入った。
送り主は乃々香。短いメッセージだった。
〈……少し、話せる?〉
場所は大学近くのカフェ。
店内に入ると、窓際の席に乃々香がいた。
薄手のカーディガンに身を包み、どこか頼りなく座っている。
顔色は悪く、目の下には隈ができていた。
「大丈夫か?」
晶が声をかけると、彼女はかすかに笑ってみせた。
「……うん。ちょっと、眠れてないだけ」
メニューを開くこともなく、乃々香は両手を膝に重ねて言った。
「ねえ……昨日、あの家に行ったとき。わたし、見えたの」
「見えた?」
「夢と同じ。あの子が……ぬいぐるみを抱いて座ってるの。
でも……顔が、ぐちゃぐちゃで。ぼやけてて、見えないの」
晶は息を呑んだ。
乃々香は淡々と話しているが、その声はかすかに震えていた。
「昨日の夜も夢を見たの。ベッドの足元に、ずっと立ってるの。
何も言わない。動かない。ただ、じっと……わたしを見てる」
彼女の目が宙を泳ぎ、指先が小刻みに揺れていた。
「……ののか、それ、ただの夢じゃ──」
「違う」
遮る声は鋭かった。
彼女は目を伏せ、押し殺すように呟く。
「夢じゃない。あの子、いるの。わたしのところに……」
◯
その夜。
晶は布団に入っても眠れなかった。
頭の片隅に、乃々香の怯えた表情が焼きついている。
そして──再び“それ”は起きた。
視界がふっと切り替わり、数秒前の自分の姿が見える。
ペットボトルの水を机に置く動作、その一瞬前。
ほんのわずかの差なのに、映像の向こうには“もうひとりの自分”がいた。
「……まただ」
呼吸が荒くなる。
ただの既視感とは違う。映像は鮮明で、確かに「過去」を切り取っていた。
その瞬間、耳の奥に声が響いた気がした。
──見て
晶は息を呑んだ。
誰の声なのか分からない。女の子の声のようでもあり、遠くから響く残響のようでもあった。
次の瞬間には、映像も声も途切れていた。
ただの静かな部屋。時計の針の音だけが響く。
「……気のせいじゃ、ないよな」
晶は顔を覆った。
乃々香の「夢」、そして自分の「映像」。
何かが繋がっている。
そう直感せざるを得なかった。
◯
翌日。
大学に来た乃々香の様子は、さらに悪化していた。
講義の最中に急に立ち上がり、教室の外をじっと見つめたまま動かなくなる。
誰もいない空間に話しかけるように唇を動かす。
楓とみのりが慌てて声をかけても、反応は鈍かった。
やっと振り返ったとき、その目はどこか焦点が合っていなかった。
「……ごめん。ちょっと……具合が」
そう言って席に戻ったが、手は小さく震えていた。
(ののか……本当に、なにかに“見られて”るのか?)
晶は唇を噛んだ。
あの廃屋で何かを拾ってきたのは、乃々香だけじゃない。
自分もまた、あの家に“繋がって”しまったのだと悟った。
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