第9話 レゾナントの軍勢

最後の夜が、静かに明けていった。

それは、聖域の二百年の歴史の中で、最も残酷な夜明けだった。

灰色の森を覆っていた分厚い雲が、まるで巨大な舞台の幕が上がるかのように、ゆっくりと、しかし確実に割れていく。その向こうに現れたのは、希望を告げる黄金色の朝日ではなかった。ただ、無慈悲なまでに冷たく、そして巨大な、空の「瞳」。その瞳が、裁きの時が来たことを告げるかのように、一度だけ、大きく見開かれた。


その瞬間、世界の音が再び消えた。

カイが息を呑む音も、ギデオンの鎧が軋む音も、リラの唇から漏れる祈りの歌も、全てが絶対的な静寂に飲み込まれる。それは、エリアーデの書庫にあるどんな静寂とも違う、生命の存在そのものを否定するかのような、冒涜的な無音だった。

そして、空の瞳から、無数の光の雫が、まるで静かな雪のように降り注ぎ始めた。


それは、見る者の心を奪うほどに美しく、そして魂を凍らせるほどに絶望的な光景だった。

光の雫は地上に到達すると、音もなく、一体、また一体と、あの純白の天使――レゾナントの姿を成していく。一体ではない。十体でも、百体でもない。聖域を取り囲む森の至る所に、カイの視界が及ぶ限りのあらゆる場所に、数えることさえ馬鹿らしくなるほどの、無窮の軍勢が出現した。彼らは一糸乱れぬ動きで、聖域を完全な包囲網の中に閉じ込めていく。その様は、まるで精密な機械が自らの部品を展開していくかのようだった。


「……来たか」

ギデオンが長剣と盾を構えながら、低く呟いた。その声は、二百年の時を経て、ついに宿敵と対峙する戦士の覚悟に満ちていた。彼の魂の光が、鎧の隙間からこれまでになく強く漏れ出し、周囲の空気を震わせている。


『総数、計測不能。これは、戦争です』

エリアーデのページが、緊迫した赤黒い光を放つ。彼女の本体である魔導書が、カイの前に浮かび上がり、まるで盾となるかのように位置取った。


リラの歌声が、聖域全体を包み込むように響き渡る。それはもはや、カイの心を癒すための優しい歌ではない。仲間を鼓舞し、敵の意志を挫くための、力強い戦いの歌だった。彼女の半透明の身体は、歌声の力強さに呼応するように、これまでになく鮮明な輪郭を保っていた。


だが、敵の脅威はそれだけではなかった。

レゾナントの軍勢が、まるで王の到来を待つ臣下のように、道を開けるように左右に分かれる。その中央、空の瞳から、ひときわ大きく、そして禍々しい光がゆっくりと降下してきた。


それは、レゾナントと同じく人の形をしていたが、その存在感は全くの別物だった。純白ではなく、幾多の戦場で流された血と、暴力の歴史そのものを塗り込めたかのような、深紅の装甲。その背中からは、光の翼ではなく、無数の武器の幻影が陽炎のように立ち上っている。剣、槍、斧、槌…あらゆる凶器の概念が、彼の背後で渦巻いていた。その手には、両刃の巨大な戦斧が握られている。


『マエストロ級……! まさか、初動で最高位の執行官を投入してくるとは!』

エリアーデの声に、初めて純粋な驚愕と焦りが混じっていた。


「マエストロ……?」

カイが尋ねると、ギデオンが憎しみを込めてその名を口にした。

「ああ。《暴力の巨匠》マエストロ・ヴィオレンツァ。二百年前、俺の仲間たちを……俺の王国を、ただ一人で蹂虙した、災厄そのものだ」


マエストロ・ヴィオレンツァは、地上に降り立つと、その無機質な視線でカイたちを一瞥した。その視線には、何の感情もなかった。ただ、システム上のエラーを発見し、それを削除するかのような、冷たい無関心があるだけだった。そして、彼は戦斧を軽く、本当にただ肩を慣らすかのように、一振りした。


それだけで、空間が悲鳴を上げた。

不可視の衝撃波が走り、聖域の結界が、残っていた最後の抵抗も虚しく、ガラス細工のように完全に砕け散った。二百年間、彼らを守り続けた聖域は、その絶対的な暴力の前に、あまりにもあっけなく終わりを告げた。


「戦闘開始!」

ギデオンの咆哮を合図に、壮絶な防衛戦の火蓋が切られた。


ギデオンは、マエストロへと一直線に突進する。二百年の時を超えた因縁の再戦。鋼と鋼が激突し、森全体を揺るがす衝撃波が巻き起こる。だが、その一合だけで、力の差は明らかだった。ギデオンの大剣は受け止められ、逆に戦斧の一撃が、彼の兜を大きく弾き飛ばした。


兜が外れ、その下から現れた光景に、カイは息を呑んだ。空洞であるはずの鎧の内側で、凝縮された魂の光そのものが、一人の男の顔の形を成していたのだ。それは、カイが夢の中で見た、若き日のギデオンとも違う、無数の傷跡と深い苦悩が刻まれた壮年の騎士の貌だった。普段の兜の隙間から漏れる青白い光とは全く違う、怒りと決意に燃える真っ赤な魂の炎が、彼の「目」となってマエストロを睨みつけていた。

それは、ギデオンという男が、二百年間抱え続けてきた魂の、剥き出しの姿だった。


「うぉぉおおおお!」

ギデオンは咆哮し、獣のようにマエストロに食らいつく。彼の戦いは、もはや騎士のそれではない。ただひたすらに、カイを守るための時間を稼ぐ。その一点に集約された、執念の塊だった。


その間に、エリアーデとリラは、雪崩のように押し寄せるレゾナントの軍勢を食い止めていた。


『――《千の魔弾》!』

エリアーデの魔導書から、無数の光の矢が放たれる。その一筋一筋が、レゾナントの胸部にあるコアを正確に撃ち抜き、次々とその数を減らしていく。彼女は、まるで精密な機械のように、最小限の魔力で最大効率の殲滅を行っていた。


「――歌よ、嵐となれ!」

リラの歌は、激しい協奏曲へと変わっていた。彼女の歌声が響く範囲では、レゾナントたちの動きが目に見えて鈍り、その完璧な連携に乱れが生じる。彼女の歌は、敵の精神…あるいはその制御システムに直接作用する、強力なデバフとなっていた。


カイもまた、託された盾と剣を手に、レゾナントの一体を斬り伏せていた。

「はぁ、はぁ……!」

カイの息が上がる。レゾナントの一撃を盾で受け止める。ギデオンから託された盾は、カイの未熟な腕を補って余りあるほどの防御力で、敵の光の剣を弾き返していた。だが、盾が防げるのは物理的な衝撃だけだ。無限に湧き出る敵の数、絶望的な戦況、そして何より、自分のために傷ついていく家族の姿が、カイの精神力をじわじわと削り取っていく。腕が重い。それは、盾の重さではなかった。守りたいのに守れない。戦いたいのに力が足りない。自分のために家族が傷ついていく光景を見続けるしかない、その無力感という名の鉛が、彼の全身に絡みついているかのようだった。


戦況は、絶望的だった。

ギデオンの鎧は次々と砕け散り、その身体には生々しい傷が増えていく。魂の光が、まるで血のように流れ出しているのがカイには見えた。エリアーデの魔導書も、あまりの魔力行使にページが端から焼け焦げ、その輝きを失い始めていた。リラの歌声も、消耗によって次第にかすれ、時折、悲鳴のような甲高い音が混じるようになっていた。


マエストロ・ヴィオレンツァは、ギデオンを玩具のようにあしらいながら、冷徹に告げた。

「無駄な抵抗だ、エラーよ。二百年前と同じく、貴様らの不協和音は、ここで終わる」

彼は戦斧を振り上げ、ギデオンにとどめの一撃を放とうとした。ギデオンの体勢は崩れ、もはやそれを受け止める力は残っていなかった。


「させるかぁっ!」

カイは、最後の力を振り絞り、マエストロとギデオンの間に割り込んだ。彼には、マエストロの一撃を防ぐ術などない。だが、ここでギデオンを失うわけにはいかない。

彼は、エリアーデに教わった魔法の理と、自らの前世の知識を瞬時に組み合わせる。

「――《斥力障壁・指向性反転》!」

カイは、盾の前面に極薄の斥力フィールドを展開した。しかし、ただの防御ではない。彼はその斥力のベクトルを、物理法則ではありえない角度に捻じ曲げ、マエストロの戦斧が振り下ろされる軌道そのものを逸らすことを試みたのだ。


だが、マエストロの力は、カイの小手先の応用を遥かに凌駕していた。

「小賢しい」

マエストロは、軌道が逸れるのを感じ取るや否や、力任せにそれをねじ伏せ、戦斧はカイの盾へと吸い込まれるように直撃した。

ゴッ、という鈍い音と共に、カイの身体は木の葉のように吹き飛ばされる。盾は砕けなかったが、衝撃はカイの全身を駆け巡り、意識が飛びかけた。


「ほう……。今のを防ぐか、小僧。面白い」

マエストロは初めて、カイという存在に明確な殺意を向けた。

「あの騎士よりも先に、貴様から剪定してやろう」

彼は、吹き飛んだカイにとどめを刺すべく、その巨体に見合わぬ速度で迫る。ギデオンもリラも、それぞれの敵に阻まれ、間に合わない。


(死ぬ――)


カイがそう思った瞬間、エリアーデの魔導書が、猛烈な勢いでカイの前に割り込み、その身を盾とした。

ゴシャッ、と湿った骨が砕けるような鈍い音が響いた。エリアーデの本体である魔導書に、マエストロの手刀が深々と食い込んでいる。その衝撃で、古びた革の表紙は無残に裂け、銀の装飾は砕け散り、まるで肋骨のように浮き出ていた背表紙には、致命的な亀裂が走っていた。 それは、ただの本が壊れる音ではなかった。カイの耳には、エリアーデの魂そのものが上げる、声なき悲鳴が聞こえた気がした。

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