第7話 調和の影

礼拝堂の冷たい石の床が、カイの火照った身体から熱を奪っていく。リラの歌はカイの魂を鎮め、消耗したエーテルを穏やかに回復させていくが、砕けた骨や裂けた筋肉が元に戻るわけではない。エリアーデが手際よく調合した薬草のペーストが、傷口にひんやりと心地よかった。だが、それ以上に冷たいものが、カイの心には沈殿していた。無力感、という名の鉛だ。


自分のせいで、育ての親たちが傷ついた。自分の甘さが、この聖域を絶対的な危機に晒した。その事実が、彼の呼吸を浅くする。


「……すまない」


壁際に座り込み、砕け散った左腕の鎧を無言で見つめていたギデオンが、低い声で呟いた。彼の巨躯から漏れる青白い光は、風前の灯火のように弱々しく揺れている。その光が、カイの罪悪感をさらに苛んだ。


「僕のせいだ。僕があの力を使わなければ……僕がもっと強ければ、ギデオンの腕が壊れることもなかった!」

カイが悔しさを滲ませて言うと、エリアーデのページに、静かだが厳しい文字が浮かんだ。

『自己評価の誤りは、さらなるエラーを誘発します。君の力の行使は、あくまで「きっかけ」に過ぎない。我々という《不協和音》の存在そのものが、遅かれ早かれ観測されるのは必然でした。論理を感情で曇らせてはいけません』


「エリアーデの言う通りだ」とギデオンが頷く。「奴らは、いつか必ず来た。お前のせいではない」


その言葉は慰めだったが、カイの心を軽くはしてくれなかった。優しい嘘だと思った。彼らはいつもそうだ。自分を守るためなら、どんな嘘でも、どんな犠牲でも厭わない。


「もう、やめてくれ!」

カイの声が、静かな礼拝堂に響いた。

「はぐらかすのは、もう終わりだ。教えてほしい。僕らを襲った、あの『レゾナント』とは何なのか。そして、空に浮かんでいた、あの『瞳』の正体は。あなたたちが隠してきた『危険』とは、一体何なんだ? 僕にも、戦う覚悟がある。知る権利があるはずだ!」


もう、守られるだけの子供ではいられない。カイの夕日色の瞳には、それだけの強い意志が宿っていた。


三人の間に、重い沈黙が落ちた。それは、二百年の時を凝縮したかのような、濃密な沈黙だった。やがて、エリアーデが静かに文字を紡ぎ始める。


『……我々が敵対しているのは、個人でも、国家でもありません。言うなれば、世界の理そのもの。あるいは、自らを神だと錯覚した、巨大で、冷徹な機械です』


機械仕掛けの神。その言葉に、カイは息を呑んだ。


『その存在は、世界の「調和」を至上命題としています。完璧な秩序、争いのない世界、永遠の静寂。それが、その機械が導き出した、生命にとっての最適解。そして、その調和を乱す、予測不能な要素を徹底的に排除する。それが、愛や憎しみといった強い感情であり、自由な発想から生まれる芸術であり……そして、君が持つ、我々の知らない理の力です』


エリアーデの言葉は、これまでカイが抱いてきた漠然とした疑問の輪郭を、少しずつなぞっていくようだった。


「奴らは、そういったものを《不協和音》と呼び、刈り取る」

ギデオンが、忌々しげに言葉を継いだ。彼の視線は、礼拝堂に眠る仲間たちの墓標に向けられている。

「かつて俺が仕えた王国も、その『調和』の甘言に惑わされ、道を誤った。人々から心を奪い、感情を抑制し、完璧な秩序を築こうとした。俺は……それを、止められなかった。それどころか、正義と信じ、その先兵となったことさえあった。この手で、多くの不協和音を……自由を求める声を、握り潰した」

彼の声には、二百年の時を経ても色褪せない、深い悔恨が刻まれていた。


「私の一族も、そうでした」

リラが、悲しげに囁く。

「私たちの歌は、人の魂を震わせ、心を豊かにする力。でも、その力は時に、人の心を乱し、予測できない行動を引き起こす。愛は執着に、希望は絶望に変わることもある。……だから、私たちの歌もまた《不協和音》として、世界から消される運命にあったのです」


彼らの言葉の一つ一つが、カイの心に突き刺さる。自分たちが、この世界の秩序から弾き出された「エラー」であるという、絶望的な事実。


「では、あのレゾナントは……」

『調和を乱す者を剪定するための、執行装置です。そして、空の瞳は、その機械仕掛けの神の、観測器官の一つに過ぎない』


カイは、その途方もないスケールの話に、言葉を失った。自分たちは、この世界のシステムそのものと敵対しているのだ。


「……勝ち目は、あるのか?」

それは、あまりに弱々しく、頼りない問いだった。


答えたのは、ギデオンだった。彼は砕けた腕をかばいながら、ゆっくりと立ち上がる。

「勝つのではない。抗うのだ。そして、未来へ繋ぐ。そのために、我々は二百年の時を、この場所で待ち続けた」


彼は礼拝堂の奥、仲間たちの墓標が並ぶ一角へと歩みを進めた。そして、その中の一つ、ひときわ大きく、そして深く傷ついた盾を手に取る。盾の表面には、翼獅子の紋章が微かに残っていた。


「カイ。これは、俺がかつての主君から賜った盾だ。『この盾で、か弱き民を守ってくれ』と、そう言ってな。だが、俺はその主君との誓いを破り、彼をその手にかけた。この盾は、俺の誇りであり、そして最大の罪の証でもある」

ギデオンは、その盾をカイの前に差し出した。

「お前に、これを託す。俺の罪も、後悔も、全てだ。だが、覚えておけ。盾は、ただ身を守るための道具ではない。守るべきもののために、その身を晒す覚悟の象徴だ」


次に、エリアーデの魔導書が、カイの目の前でひとりでに開かれた。その中央のページに、一枚だけ、他のどのページとも違う、銀色に輝く栞が挟まっている。


『これは、かつてあの機械に抗い、散っていった、私と共に世界の真理を探求した仲間たちの魂の欠片を封じた、最後の「契約の栞」です。彼らは、自由な知性が世界を豊かにすると信じていました』

エリアーデの文字には、仲間を想う深い情が滲んでいた。

『これを使えば、一度だけ、彼らの持つ膨大な魔術知識と力を、君自身のものとして行使できるでしょう。知識とは、ただ蓄えるものではありません。未来を切り開くために使うものです。たとえ、その代償に、全てを失うことになったとしても』


最後に、リラがカイの前に進み出た。彼女は、自らの胸元から、細い銀の鎖に繋がれた乳白色の石を取り出した。それは、柔らかな月光をそのまま閉じ込めたかのような、美しい「月光石」のペンダントだった。


「これは、私の一族が代々受け継いできた、魂の響きを宿す石です」


彼女はその石を両手で包み込み、目を閉じて、静かに歌い始めた。それは子守唄ではない、力強く、そしてどこか物悲しい、彼女の魂そのもののような旋律だった。歌声に呼応し、月光石は淡い光を放ち始め、その光は歌のクライマックスと共に、一度だけ強く輝き、そして再び穏やかな光へと戻った。


「この石に、私の魂の歌を込めました。私が側にいなくとも、この石が、あなたの魂を嵐から守ってくれるでしょう」

彼女は、そのペンダントをカイの首にかけた。ひんやりとした石が、カイの肌に触れると、不思議と心が安らいでいくのが分かった。


「忘れないで、カイ。どんな深い悲しみの中にも、歌はあります。そして、歌がある限り、希望は決して失われない」


盾、栞、そしてペンダント。

三人の育ての親から手渡されたものは、単なる武具や道具ではなかった。それは、彼らの二百年にわたる後悔と、贖罪と、そしてカイに託す未来への、魂そのものだった。


カイは、三つの贈り物を胸に抱きしめ、固く、固く目を閉じた。

涙は流れなかった。

もう、迷いはなかった。


「ありがとう。ギデオン、エリアーデ、リラ」


カイは顔を上げ、育ての親たちを一人ずつ、その目に焼き付けるように見つめた。

「僕は、戦う。あなたたちが繋いでくれた、この命で。この力で。あなたたちの想いを、僕が未来へ運んでみせる」


それは、十五歳の少年が、自らの運命を受け入れ、一人の戦士として生まれた瞬間だった。


礼拝堂の外では、灰色の空が、決戦の時が近いことを告げるかのように、不気味なほどの静寂に包まれていた。

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