第4話 ロゴスの理と不協和音

泉での一件は、カイの心に小さく、しかし決して消えない棘を残した。エリアーデの幻影が脳裏に直接送り込んできた、あの冷たい警告。《不協和音》という言葉の響きが、彼の日常に不穏な影を落としていた。


その日、カイはエリアーデの書庫で、いつものように魔法の学習に取り組んでいた。だが、彼の思考は目の前の課題ではなく、別の疑問で満たされていた。


「エリアーデ」


カイは、古代語で書かれた分厚い書物から顔を上げた。書庫の中央に鎮座する巨大な魔導書――エリアーデの本体が、ざらり、とページをめくる音を立てる。


『何ですか、カイ。課題の途中で集中を欠くのは、思考効率を著しく低下させます』


「なぜ、こんなに面倒な手順を踏まないと、ただの火も起こせないんだ?」


それは、ずっと抱いていた素朴な疑問だった。火を起こす一つの魔法のために、いくつものロゴス古代言語の単語を正確な順序で、正しいイントネーションで詠唱しなければならない。一つ間違えれば、術は暴発するか、あるいは何も起こらない。あまりに非効率に思えた。


エリアーデのページが、一瞬、ぴたりと止まった。そして、これまでよりもゆっくりとした動きで、新たな文字が浮かび上がる。


『それは、君がロゴス魔術の本質を理解していないからです。良い機会です。今日は君に、この世界の理そのものである、ロゴス魔術の根源について講義しましょう』


エリアーデは、まず初歩的な《光球生成》の術式をページに表示した。


『ロゴス魔術とは、結果を定義する力です。我々は「光あれ」と世界に命令する。すると、世界の根源エネルギーであるエーテルが、その命令を遂行するために、光という現象を自動的に構築する。我々の詠唱は、その命令を世界に伝えるための、厳格な文法に則ったプログラム言語なのです』


彼女は次に《物体浮遊》の術式を示し、いかにして術者が望む「結果」を正確に定義することが重要かを説いた。その説明は、どこまでも論理的で、揺るぎない法則に満ちていた。この世界の魔法が、巨大で精密な機械のように、定められたルールの上で成り立っていることをカイは改めて理解した。そして、そのルールの存在こそが、カイの心に燻る違和感の正体だった。


「でも……」

カイは、恐るおそる口を開いた。脳裏に浮かぶのは、前世の記憶の断片――物理法則という、全く異なる理の世界。

「その岩を浮遊させるより、例えば、岩の下で小さな爆発を起こして、その力で吹き飛ばした方が、エーテルの消費は少なく済むんじゃないか?」


エリアーデのページをめくる音が、再び、完全に止まった。書庫に、時が止まったかのような沈黙が落ちる。


『……非論理的です』

やがて浮かび上がった文字には、明らかな困惑が滲んでいた。

『爆発という「結果」は、浮遊という「結果」より遥かに複雑な術式と、膨大なエーテルを要求します。なぜ、より困難な手段を選ぶのですか? それは、家を建てるのに、わざわざ山を一つ動かすようなものです』


「爆発そのものを起こすんじゃなくて」

カイは必死に言葉を探した。自分の中にある感覚を、この世界の言葉に翻訳しようと試みる。

「例えば、空気の塊を瞬間的に作るだけの、すごく小さな魔法を使うんだ。そうすれば、その空気が膨らむときの『物理的な力』だけを利用できる。魔法は、ただのきっかけでいい」


エリアーデの本体である魔導書が、かすかに震えているように見えた。


『……君は、理解しているのですか。自分が何を言っているのか』

浮かび上がる文字は、もはや困惑ではなく、畏怖に近い響きを帯びていた。

『君の言うそれは、原因から結果を導き出す思考。ロゴス魔術の根幹――結果から原因を構築するという大原則を、完全に逆転させている。それは、神の定めた理ロゴスの文法を根底から覆す、あまりにも危険な思想だ』


エリアーデは、カイの戦術の本質を見抜いていた。「歪み」との戦いでカイが使った《斥力》の魔法。あれは本来、敵を押し返すという「結果」を定義する術だ。しかしカイは、それを自身の回転運動を生み出すための「原因」として利用した。魔法を、より大きな物理現象を引き起こすための、ただの起爆剤として使ったのだ。


この世界の魔術師にとって、それは冒涜以外の何物でもなかった。確立された術式の一部だけを部品として取り出し、全く別の法則と融合させる行為。それは術式の安定性を著しく損ない、いつ暴発してもおかしくない危険な火遊びだ。それでいて、カイの言う通りに事が運べば、それは従来の燃費計算を根底から覆す、異常なまでのエネルギー効率を叩き出す。


エリアーデの論理的な思考では、理解の範疇を超えていた。彼女が持つ膨大な知識の体系に当てはまらない、全く新しい「未知の法則」の出現。それは知的好奇心を刺激すると同時に、世界の秩序を破壊しかねない根源的な恐怖の対象でもあった。


重苦しい沈黙が、二人を支配する。カイは、自分が触れてはならない領域に足を踏み入れてしまったことを悟った。


「ご、ごめん。変なこと言って……」


講義の緊張感を解きほぐすように、カイは話題を変えようと、書庫の整理を手伝い始めた。その時だった。乱雑に積まれた古い羊皮紙の束の中から、一冊のノートが滑り落ちた。


それは、他のどの書物とも違う、手作りの粗末なノートだった。表紙は焼け焦げ、ページは黒ずんでいる。カイが何気なくそれを拾い上げ、開いてみると、そこには楽譜が記されていた。しかし、それはエリアーデが教えるロゴスとは全く異なる、流れるような美しい文字で書かれている。


所々に「世界」「解放」「歌」といった単語が読み取れた。そして、そのインクの滲み方、文字の癖、そこに込められた感情の気配――それは間違いなく、リラの筆跡だった。


カイが「これは何?」と尋ねた瞬間、エリアーデの周囲のエーテルが、凍てつくほどに緊張した。


『……触れてはいけません、カイ』


浮かび上がった文字は、これまでになく強い命令形だった。


『それは……かつて世界を救おうとし、そして破滅させた「カントゥス」の残骸です』


エリアーデは、それがロゴス魔術とは対極にある「感情」そのものを力の源とする、リラの一族が継承してきた危険な力であることを示唆した。


『……いいですか、カイ。世界は、巨大なオーケストラのようなものです』


エリアーデのページに浮かぶ文字は、まるで教師が生徒を諭すような、静かで、しかし有無を言わせぬ響きを持っていた。


『私が教えるロゴスの理は、緻密に計算された弦楽器のパート。リラが奏でる歌の理は、魂を震わせる管楽器のパート。それぞれが異なる楽譜に従い、本来は決して交わらない。そうすることで、世界の調和は保たれてきたのです』


彼女の幻影が、カイの持つ未知の力、そして先ほどの焼けた楽譜を交互に見やる。


『しかし、君の中には、全く別の楽譜から生まれた、未知の打楽器のパートが存在する。そして今、君を中心に、弦と管と打楽器が、指揮者もいないのに勝手に演奏を始めようとしている。……分かりますか? それはもはや音楽ではない。耳を塞ぎたくなるほどの、混沌とした不協和音です。そして、その不協和音は、世界の調和を司る"何か"にとって、排除すべき最大のノイズとなるでしょう。これは、破滅の前兆です』


エリアーデはそう言うと、有無を言わさず楽譜をカイの手から取り上げ、書庫の最深部、これまでカイが見たこともない厳重な封印が施された棚の中へと、それを収めてしまった。


「まだ、君が触れるべき知識ではない」


その言葉を残し、エリアーデは沈黙した。まるで、これ以上何も語るまいと、自らのページを固く閉ざしてしまったかのようだった。


カイは、自分の特異性だけでなく、いつも優しく微笑んでいるリラにもまた、世界の根幹に関わるほどの大きな秘密があることを知り、世界の謎がさらに深まったことを感じながら、書庫を後にする。


ギデオンの「敗北」。エリアーデの「警告」。リラの「歌」。そして、自分自身の「不協和音」。


バラバラだった謎のピースが、一つの巨大な、そして不吉な絵を描き始めている。その全体像は、まだ見えない。だが、その中心に自分自身がいることだけは、カイにもはっきりと分かっていた。


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