第6話 海から来た「何か」
それからしばらく曽爾悠は平穏な日々を送っていた。件の学棟の前を通っても、70年代風ファンション男の幽霊を見かけることはなかった。このまま何事もなく前期が終わって欲しい、悠はそれだけを願っていた。
悠は駅前のスーパーでレジ打ちのアルバイトをしていた。今日木曜日はバイトの日だ。レジ打ちと言っても、昨今はセルフレジか半セルフが主流だ。悠の仕事は客のカゴに入っている商品のバーコードをリーダーで読み取り、合計金額を客に伝えた上で、情報を支払い機に送るだけだ。コミュ障の悠にとって、レジ係は居心地の良いバイトだった。
悠は授業が終わったあと、大学からそのままスーパーに向かい、従業員控室で仕事着に着替えた。スタンドカラーの白いシャツに灰色のスラックス。その上からスーパーのロゴが入った濃紺のエプロンを着ける。ここ数年は念の為に不織布マスクも装着する。うん、今日も完璧だ。悠は鏡の前でちょっとポーズを取ってみる。ちょうど控室から出ようとした時、「3番レジ応援お願いします」という店内アナウンスが響いた。とりあえず3番レジに向かおう。
「あ、曽爾君、こんにちは。ちょうど良かった。3番レジ頼むわ」
すれ違いざまに店長の野迫川さんが、声をかけてくる。野迫川さんは40歳くらいの人の良さそうな人物だ。スーパーの店長になるために生まれてきた、と言っても過言ではないくらい、野迫川さんはこのスーパーを上手く仕切っている。商品の買付け、補充、陳列、賞味期限の確認、値引きシールの貼り付けからバックヤードの整理整頓まで全て完璧にこなしていた。いつも柔和な表情を浮かべているけれど、いざとなったらクレーム客へも毅然と対応もしてくれる。従業員たちにとって、野迫川さんは頼りになる上司だった。
3番レジは高田さんが担当していた。高田さんは30代の既婚女性で、子どもを保育園に預けて働いていた。
「翔太ちゃんを迎えに行く時間ですね」
「ああ、曽爾君、ナイスタイミング!ちょうど今、空いたとこやから、あとは頼むね!」
そう言い残し、エプロンの後ろで結んでいた紐を解きながら、高田さんはパタパタと走り去っていった。
それから15分。そろそろ夕食の食材を求めて、買い物客が殺到しそうな時間帯なのに、今日は不思議なくらい空いていた。特に悠が待ち構える3番レジに並ぶ客はほとんどいない。
「こういう日もあんねんな」
悠はマスクの下で呟いた。まあ、時給バイトの身では、ヒマでも全然困らないんだけど、やはり他の従業員の目もある。ボーッと立ちつつ客待ちをするのは精神的にちょっとツラい。
「なんでやねん…」
悠が再び周囲に聞こえないようにマスクの下で呟いた、その時だった。
「うっわ…」いきなり潮の香りが漂ってきた。しかもかなり濃厚に。
間違いない、子供の頃、親に連れて行ってもらった白浜の海岸と同じ匂いだ。奈良の、しかも駅前スーパーではめったに嗅げる匂いじゃない。「店長、和歌山から大量に魚仕入れたんかな」そう考えてみて、今が夕飯時であることを思い出し、早朝じゃあるまいし…いやいやありえない、と首を振った。
「いいかね…?」
ふと前を見ると、レジ台の上に買い物カゴが置かれていた。慌てて見上げると、かなり高齢の男性がそこに立っていた。「あ、すんません」そう言って、悠はカゴの中身を確認しようとして気付いた。強い潮の香りを発しているのはこの老人だったのだ。
「あ、えっと…」
悠はなぜかその高齢者から目を逸らし、買い物カゴの中を確認した。
買い物カゴの中には、マッチ箱ほどの大きさの小箱が一つ、ポツンと置かれていた。マッチ箱1つ…?今どきめずらしい買い物だな。というか、このスーパーで売ってるマッチって徳用サイズの大箱だけじゃなかったっけ。お盆シーズンだけ、ろうそくと一緒に小箱マッチも売るみたいだけど、夏前の今は扱ってないはず…。
訝しく思いつつもじっとしている訳にもいかず、悠は恐る恐る小箱を取り上げた。
小箱は…マッチ箱ではなかった。スライド式の蓋がついている木箱だ。
持ち上げた瞬間、中で何かがぶつかり合うカタカタ…という音がした。そしてマッチよりはずっしりした手応えがある。何なんだ。気のせいか、潮の香りが強まった。
「これは…」
ウチの商品ではありませんね…と言いかけて、悠がレジ台越しに客の方に視線を移すと、そこには誰も居なかった。「それを…供養してくれ…」耳元でささやき声が聞こえた気がした。
「やられた…」と悠はマスク下で舌打ちした。
また気づかずに人間ではない存在を相手にしていたのか。これは…マズいかも。
悠の眼の前にあったはずの買い物かごも消えていた。ただ、右手で掴んでいた小箱はそのまま右手の平に乗っかったままだった。
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