第4話 曽爾悠の秘密
曽爾悠のその不思議な「気づき」は家の引っ越しと共に始まった。彼が1歳半になった頃、いきなり祖父母との同居の話が持ち上がった。北国に住まう祖父母を引き取るために、悠の両親は、狭いマンション暮らしをやめ、郊外に大きめの二世帯住宅を購入したのだ。
両親が購入したその家の前の持ち主は老夫婦に娘夫婦、さらにその子どもたちが住む大所帯だったらしい。老夫婦の夫の方が亡くなり、娘夫婦が店舗件自宅を新たに立て直す話になり、この家を手放すことにしたという。
かつて大家族が住んでいたその家は、悠の家族が住むには十分な広さがあった。家屋は奥行きが深く、各部屋が細長い廊下でつながっていた。長い廊下と両側に並ぶドアという間取りが面白く、幼い悠はキャーキャー騒ぎながら廊下を走り回っていた記憶がある。
まず悠と両親が引っ越した。祖父母が引っ越してくるのは2ヶ月後。そのため、しばらく悠は保育園の延長保育のお世話になっていた。7時頃、母が悠を迎えに来て一緒に帰る。晩ごはんを食べて、入浴後は2階の寝室に引き上げる。悠の父の勤め先は京都市内で、深夜の帰宅もしょっちゅうだったので、新居で迎える夜は母と二人きりのことが多かった。
それは新居に引っ越して数日が経った日の晩のことだった。
「あれ?お父さん帰ってきたのかな?」
母がいきなりそう呟いて、寝室のドアを開け、階下に飛び出した。「待ってよ!ボクも行く!」悠はそう叫んだものの、母親は「すぐ戻って来るから」と言いながら、パタパタと足音を立てて、階下に降りていった。
しばらくして母が部屋に戻ってきた。不思議そうな表情を浮かべて。
「お父さん、まだ帰ってなかったわ。さっき、下のドアが開く音聞こえたよね?それから廊下を歩いてくる音も、階段を上がってくる音も聞こえたよね?おかしいなあ…風かなあ…」 最後の方はモゴモゴと口の中で呟くような、自分に言い聞かせるような感じだった。
その時、悠には、ブツブツ呟いている母親の背後に立つ、痩せて背の高い老人が見えていた。きちんと刈り上げた白髪。ベージュのポロシャツにグレーのズボン。顔は俯いているので、表情がよく見えない。明らかに父ではない。だって悠の父は小柄でガッシリした体格だし、禿げているし、通勤はいつもスーツ姿だから、共通点など何もない。
母は背後の男性の存在を気にもとめていなかった。母の性格上、見知らぬ男性を気楽に家に上げるような人ではないし、パジャマで堂々と応対するなどもっとありえない。悠は子ども心に「これは、母には言わない方が良い」と直感的に思った。本当にその老人は「ただそこに立っていた」だけだったし。
次にその老人を見かけたのは数日後、日曜日の昼間だった。居間の掃き出し窓は大きく開かれ、その外では母がしゃがみ込んで黙々と草むしり作業に没頭していた。父は休日出勤で朝から出かけていた。悠も最初は「お手伝い!」と草むしりを頑張ってみたものの、すぐに飽きてしまい、掃き出し窓から居間に戻り、テーブルの上に置いてあったテレビリモンコンを手に取った。ソファに座って、ちょうどその時間から始まる戦隊モノを観ようと思ったからである。
ふとソファに目をやると、男性が一人ポツンと座っていた。背の高い白髪の老人だ。彼はソファに座ったまま、その姿勢を崩さない。まだ何も映っていないテレビのディスプレイを微動だにせず見つめていた。悠には全く関心を示さない。ただ、まるで「ここは俺の場所だ」と言いたげな圧だけがそこにあった。
その次は庭のベンチだった。庭のベンチにじっと座っている後ろ姿。
「また、あのおじいちゃんだ」と悠は瞬間的に思った。ただ、その姿は寝室で見かけたときより鮮明さを欠き、影のように薄くなっていた。おじいちゃんの背中を通して、ベンチの向こうの梅の木が見えた。
それからも家のどこかで何度かおじいちゃんの姿を見かけた。でもおじいちゃんの姿はどんどんと薄くなり、半年経つ頃には全く見えなくなった。気配もなくなった。
誰も居ないのに誰かが歩く音やドアが開く音がする、という母の不満もその頃から聞かれなくなった。
今、考えてみると、あれはいわゆる霊という存在だったのだろう。でも不思議と悠は怖いとは思わなかった。それどころか「おじいちゃん、家族がみんな引っ越ししたことに気づいてないんだ。可哀想なの」と同情すらしていたのだ。多分、悪い霊ではなかったのだと思う。
それから20年、おとなになっても悠の「見える」能力は消えることがなかった。ただ一方で、年を経るごとに悠は霊というものの厄介さが理解できるようになった。
つまり、霊とは必ずしも、幼い頃、我が家を彷徨っていたおじいちゃんのような大人しい存在ではないということだ。
小学校の修学旅行で泊まった部屋では、級友がみな寝静まった深夜に遭遇した。その黒くて大きな影は目が合った瞬間に、「一緒に来いよ」と言わんばかりに悠の腕をグイと掴んできた。「彼」の顔に浮かんでいた表情は、本当にイヤなものだった。悠は必死で頭を横に振り、小声で「行かない…行かない…」と呟き続けた。
そして悠の腕を掴む力がどんどん強くなり、もうダメかも…そう諦めた瞬間、「パンッ!」という音がして、「彼」は見えなくなった。翌朝、元気いっぱいの級友でいっぱいの朝食会場で、一人食欲もなくげんなりしていたのを今でも思い出す。
学校での宿泊行事とは、だいたいそういうものに「遭遇」するありがたくない場だった。中学生になってからは、ネットで対応策を必死で検索し、お経を覚えたり、枕元にお守りを並べたり、小分けパックに入れた塩を持ち歩くなど、考えつく限りの自衛手段を講じてきた。それが効力を発したのかは分からない。ただ、一度だけ腕を掴まれた以外は、幸いにも危機的な事態に遭遇することはなかった。悠が見えないふりをしていれば、「それら」は大人しく去っていったから。
悠にとって、こうした存在との遭遇は特別な機会だけとは限らない。何なら夜とか彼誰時とか丑三つ時とか、そういう境界的な時間帯でなくてもいきなり遭遇することもある。昼間の混んだ電車の車内でも見かけることがある。こうした場合、さすがの悠も油断しているので、てっきり普通の人間だと思って話しかけそうになる。
今回、大学の文学部棟で見かけた男性も、奇異なファッションに身を固めた変なヤツ、とジロジロみたのが失敗だった。あれは…この世のモノではなかったのだ。そして、おとなしいヤツでもなさそうだった。ホンちゃんに呼び止められていなかったら、悠はマズいことになったかも知れない。
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